2024年11月30日土曜日

娘が20歳に

  娘が先日20歳になりました。私の母、そして、サプライズでカナダの大学に行っている親友のレイちゃんも来てくれ、一緒にお祝いしました。娘にとって最高の誕生日になりました。

 娘が生まれたときは、双子の弟が死産だったため、医師も看護師もそして親戚も友人もどう言葉をかけて良いか分からず、誰からもおめでとうと言われなかった娘。2,664グラムと小さく、成長もゆっくりで心配も多かった娘ですが、心の優しい、とても良い子に育ってくれました。そして、身長もすくすく伸びて183㌢になりました。

 誕生日の前日の午後7時ぐらいでしょうか。家のベルが鳴りました。インターフォンを押すと、「レイです」。「えっー、レイちゃん?」と皆びっくり。家族全員で玄関に出てみると、レイちゃんがにこにこして立っています。娘が「びっくりしたー」と言うと、「毎年誕生日に来てたじゃん」と言います。レイちゃんは娘にも知らせず、来てくれたのです。

 レイちゃんのご両親は中国にいるのですが(レイちゃんは日本人と香港人のハーフ)、冬休みに憧れだったタイに一人旅をし、その帰りに我が家に寄ってくれたよう。その後におじいちゃん・おばあちゃんの家に行く予定だそう。

 誕生日当日は、母もお祝いに来てくれて、皆で夕食を食べました。娘のリクエストはダディのチーズケーキとリゾット、ママのアップルパイとコロッケでした。それに、娘の大好物のステーキをつけました。

 夫のプレゼントは十字架の形をしたエメラルドのネックレス。息子からは娘が大好きな猫の絵のついたマグカップ、母からは「好きなものを買うように」と1万円、レイちゃんからはTシャツと中国で流行しているというアニメキャラクターのフィギュア。

 私からは、私が若いころ使っていた時計でした。娘には、16歳の誕生日から毎年、私が使っていたバッグやジュエリーを引き継いでいます。今回引き継いだ時計やこれまであげたバッグやジュエリーはいずれも、今の私には似合わないのだけれど、ブランド物だったり思い出があったりしてなかなか手離せなかったもの。年季が入ったものなので、メンテナンス費が高かったりもしますが、娘がいると引き継げるので、嬉しいです。

 皆に囲まれ、プレゼントを開けるときに大笑いしたのは、夫からのプレゼントを開けるときです。私が携帯電話で、レイちゃんがビデオカメラで撮影していました。娘が小さな箱に書いてある文字を読み上げます。

「わぁ、あなたと私の”たからいし”箱だって…」

 思わず吹き出してしまった私が直します。「違うよ。宝石(ほうせき)箱だよ」。娘がびっくりした表情で「ええっ、知らなかった」。レイちゃんも私のほうを見て、真顔で言います。「私も知りませんでした」。息子がお腹を抱えて笑い、「おねぇねぇ、ウケル~」と言いましたが、本当に知っていたかどうかは、疑問です。

 まぁ、インターナショナルスクール卒なので、こういうこともあるでしょう。にぎやかな誕生日パーティでした。娘が何よりも喜んだのは、レイちゃんが来てくれたこと。レイちゃん、本当にありがとう。 

 娘の誕生日に合わせて、息子の骨壺のカバーも新しくしました。骨壺は今も私のベッドの横に置いてあります。カバーを作り直そうと思っているうちに、20年も経ってしまい、ミッフィの模様は色褪せてきていました。前に作ったときの生地をとってありましたので、それを使って縫いました。

 縫っているときに、「かあさんは夜なべをして、手袋編んでくれた」という童謡を思い出しました。こういう縫い物は、家事終え用事を済ませてからでなければ、取り掛かれません。今も昔も同じだなぁと思いました。そして、本当に20年はあっという間だったなぁとしみじみとした気持ちになりました。

 ディナーテーブルに新調したカバーに入れた息子の遺骨を置いてあると、母が「あらっ、アンディ君」と言って、抱いてくれました。記念写真も娘が息子を抱いて、写しました。天国の息子も、娘が無事20歳を迎えたことを喜んでいたと思います。

左は夫が作ったチーズケーキ、右は私が作ったアップルケーキ

誕生日パーティのデコレーション


 

2024年11月21日木曜日

誤診

  先月中旬から発熱や背中の痛みなどで体調が優れず、まずは泌尿器科を受診。数日後に行った内科クリニックでマイコプラズマ肺炎の診断を受け、薬を飲んでいましたが、咳が止まらず、耳鼻咽喉科へ。そこで副鼻腔炎と咽頭炎の診断を受けて処方された薬を飲みましたが、ずっと咳が止まらず、呼吸器内科へ。そこで何と、「喘息」の診断。

 吸入のプレドニン(ステロイド剤)を生涯使い続けなければならないという説明を医師から受けました。プレドニンは錠剤をもう20年以上も服用し、先月末にようやく”卒業”できたのに、また、プレドニンです。それも一生。

 医師の説明の後、看護師さんから説明を聞きながら、私、その若い看護師さんに訴えました。「もう、プレドニンは嫌なんです」と。「20年以上飲んでいるんです。で、やっと、やっと先月末にやめられたのに、またプレドニン。もう嫌なんです」

 錠剤を服用していたときは、自分の顔とは思えないほどに醜くむくみ、減らしては病気が再発し、また増やすを繰り返しました。で、ようやく病気が落ち着き量を徐々に減らし、微量の服用で日常生活を送れていました。顔のむくみも取れました。数年間にわたり、主治医にやめたいと申し出ていましたが、検査結果が良くなかったり、昨年は胃がんにも罹患し、薬はやめないほうが良いとの診断でした。全てが落ち着いた今、やっと卒業してよいという言葉をいただいた矢先、別の病気でまた「プレドニン」です。

 「こんな簡単な検査で、生涯プレドニンという、患者にとってはとても重い診断を下すなんて絶対におかしい」と思い、看護師さんに「プレドニンは使いません。抗生物質と咳止めを先生に処方してもらってください」と頼み、いくつかの薬を処方してもらいました。

 そして、翌日に別の呼吸器内科へ。そこではレントゲン撮影とCT検査の両方をし、院長先生が聴診器でじっくり肺の音を聞き、診断は「副鼻腔炎」。「喘息でないのですか?」と質問すると、「喘息ではありません。症状が全然違います」とキッパリ。副鼻腔炎を鎮める薬を処方してもらい、薬局へ行きました。 

 お薬手帳を見て、前日に呼吸器内科で別の薬が処方されていたのを見た薬剤師さんが質問してきました。薬局長さんでしたので、何か変だな?と思ったのかもしれません。

「昨日も呼吸器内科にいらっしゃって、お薬を処方してもらっていますが…どうされましたか?」

「昨日、〇〇クリニックで、喘息の診断だったんです。で、ステロイド剤を一生使い続けると言われて…。納得がいかず、今日の呼吸器内科に行ったんです。そうしたら、副鼻腔炎という診断だったんです」

 薬局長さんが声をひそめて、言います。

「あぁ、そうですか。実は、あそこのクリニックに行くとすぐに喘息の診断になるという話なんですよ」

「そうなんですね。私も変だなと思ったんです。レントゲンと、肺活量を調べる検査だけで、喘息の診断。それも、生涯プレドニンを使い続けるなんて、あまりにも安易で。でも、咳が止まらないので、プレドニンの代わりに咳止めの薬を先生にお願いしたんです」

「あぁ、この咳止めのお薬、実はあまり効かないんですよ」

「そうなんですね」

「ええ、処方は1錠になっていますが、2錠は飲まないと…」

「効かない量の咳止めの薬を処方して、患者は咳が止まらないからやっぱり諦めてステロイド剤にというふうになると考えたのかと勘ぐってしまいますよね。簡単に喘息と診断され、別のクリニックでは全く違う病名の診断だと…」

 という会話を薬局長さんと10分ほどして、副鼻腔炎を抑える薬と咳止めをもらい、帰宅しました。それから10日ほど経ちましたが、咳はだいぶ落ち着きました。夜中に長く咳き込むことがなくなり、寝られるようになりました。

 いやはや…。長年、病気と闘っていると、勘が働くのかもしれません。すぐに、セカンドオピニオンを聞きに行って良かったです。あれから、そのクリニックの評判をネットで検索すると、あまり評判が良くなく、「喘息と診断され、別の病院に行ったら違う診断だった」などという私と似たクレームもありました。やっぱり…。

 でも、その呼吸器内科はとっても混んでいました。私のように喘息と診断され、素直に信じて、ずっと通っている人もいるかもしれません。そういう方々には、「何か、違うなぁ」と思ったら、医師の言うことを鵜呑みにせず、ぜひ別のクリニックに行ってほしいと願います。

 


2024年11月17日日曜日

娘に癒される日々

  娘がオーストラリアから帰国して2週間。家族4人で食事をし、娘と息子がじゃれ合う様子を眺め、娘とおしゃべりをするー。娘がいる日常はやっぱりいいなぁと思う日々です。

 娘は朝、起きてくると機嫌良く「ふっ、ふぅ~♬」とまるで鳥がさえずるような綺麗な声を出します。こちらの気持ちがほんわかと温かくなるようなその声を昨日、改めて「綺麗な声だね」と褒めました。

 すると、娘は歌うように「前世は鳥だったの」と答えました。なるほど、と思いました。娘は続けます。「私、空を眺めるのが好きでしょう?」。確かに。娘はよく空の話をします。「ママ、今日は空がとってもきれいなの」とオーストラリアからフェイスタイムで青い空を見せてくれることがあります。また、お弁当を詰めて一人で公園を散歩し、空を眺めながら食べることもよくあるようです。

 高校生のときも、お昼の時間は一人で校舎の外に出て、空を眺めながらお弁当を食べたとよく聞かせてくれました。そんな話を聞くと「お友達とうまくいっていないのかな?」などと心配をしましたが、「空を見ながら、ママが作ってくれた美味しいお弁当を食べるのが、とっても幸せな時間なの」と答えてくれました。

 そんな娘は、とても素敵な言葉を家族にかけてくれます。先日は「ママが私のママで良かった」としみじみとした表情で言ってくれました。娘は毎日、「ママ、大大大好きだよ」と言ってくれ、私はそれを糧に日々の生活を送りますが、この言葉も大切にしていきたい。

 一昨日の夜は夫への気持ちをとても素敵な言葉で表現してくれました。二人で午前2時ごろまで寝ながらおしゃべりをしていたとき。たまたま、夫の話になると、娘は「私は何百回生まれ変わっても、ダディの娘に生まれたい」と言いました。世の中に、これほど素敵な言葉を娘に言ってもらえる父親はいないだろうーと思いました。もちろん、それは夫の娘への愛情の深さを娘が分かってるからです。

 この言葉はしばらく私の中にとどめておき、一番良いタイミングで夫に伝えたいと思います。きっと娘が結婚するときかな、と想像しています。

2024年11月16日土曜日

読み聞かせの会

  昨日、今年発足した読み聞かせの会の打ち上げ会がありました。メンバーは子どもたちが通った地元小学校で、絵本の読み聞かせサークルに入っていたママさん5人。卒業後も「卒業生ユニット」としてサークル活動を継続しています。その仲間の3人が新たに地元密着の読み聞かせの会を春に発足。私ともう一人のママにも「入らない?」と声を掛けてくれたのです。

 メンバーは皆50代。子どもが2、3人いて、下の子が中高生だったり、大学生だったりと手がかからなくなっています。でも、絵本の読み聞かせが大好きで、自分の子どもたちが通った小学校以外でも、活動の場を広げようと今回の会の発足となったのです。

 最初のメンバー3人で、すでに2回大人対象と子ども対象で読み聞かせをしており、好評だったよう。私も来年2月に地元の児童館でする予定で、今からワクワクしています。

 この会を始めたママさんがこれからの活動の目標と夢を語ってくれました。目をキラキラさせながら語ってくれた話に、素敵だなぁと心から共感しました。私に声を掛けてくれた経緯について、「むっちゃんは、一本釣りなの」と笑って話してくれて、私を活動に誘おうと思ってくれるなんて、と胸がいっぱいになりました。

 打ち上げ会が開かれたのは、地元のレストランでした。食べ物のメニューは野菜サラダ、白身魚のカルパッチョ、フムスとバケット、ハムの盛り合わせ、ピクルス、フィッシュ&チップス、ポークロースト、パスタ。そして飲み放題付きで5千5百円。女子会で飲み放題は珍しいなぁと思ったのですが、ワイン、ビール、サワーなどそれぞれ好きなものを頼み、ソフトドリンクもオーダー出来たので、とても良かった。


 2時間おしゃべりして盛り上がった後、2人が帰って、残り3人が店の外で30分も立ち話をしました。実はこの3人はがんサバイバー。がんを経験したからこそ、残りの人生で自分のしたい事をしよう!と積極的に活動するのかもしれません。こんな素敵な会に声を掛けてもらって、有難いなぁと幸せを感じた夜でした。

 

 

2024年11月15日金曜日

エンディングノートについて

  天国に召されたママ友Pちゃんにさよなら出来たのは、深い悲しみの中、子どもの幼稚園時代のママたちにつながる人に「妻に最期のお別れを」と連絡をくれたご主人のお陰でした。

 改めて、自分に何かあったときの連絡先などを家族に伝えておく大切さを実感しました。というのも、月曜日に開かれたがんのママたちの集いで、まさにその話題が出て、家族に何も伝えずに亡くなっていくママさんの話になったからでした。

 幾人ものがんのママを見送ってきた主宰者のFさんによると、「エンディングノート」を準備しているのに、中に何も書いていない人が少なくないということでした。

 エンディングノートとは自分自身の万が一のときに備えて、自分自身に関する様々な情報を書いておくノートです。書き留める内容は、医療や介護の希望、パソコンや携帯電話のパスワード、通帳やキャッシュカードの置き場、訃報の連絡をしてほしい人、葬儀に呼んでほしい人など、などです。

 ノートを準備しているのに何も書いていないー。このことに、集いの参加者は深く共感しました。がんのママは3,4,50代とまだまだ若い。自分の周囲には病気を患う人は少なく、また、自分も若いことから自分には奇跡が起こると信じている。いや、信じなければ、子供のことを心配しながらの厳しい治療は乗り越えられません。だから、エンディングノートを書くという作業が、自分の死を受け入れるということ=諦めること=につながると考えるのです。

 医師に余命宣告されても、ホスピスに行っても、たとえコンマ1%でも、自分には奇跡が起こると信じていたい。子どもが小さければ尚更です。エンディングノートを書くことは、そう信じることとは真逆の行為なのです。

 かくいう私は30代でがんを罹患したときは子どももいなく、自分のことだけ考えれば良かったですし、心配事がなければ案外割り切れるものですので、必要事項を英語と日本語の両方で記したノートを夫に残しました。

 が、その後、子どもが2人出来、病気が続いて忙しくなり、かつ自分の万が一のときの家族の心配事が多過ぎて、そのノートの更新は出来ていません。

 一昨日に旅立ったPちゃんはご主人に、幼稚園ママにつながる人の連絡先を残したのでしょうか? 自身の葬儀のことについてご主人と話し合ったのでしょうか? 一つ言えることは、私たちはPちゃんの清らかで美しい顔を見て、話しかけ、思い出話をし、ご主人に亡くなるまでのPちゃんの様子を伺うことで、信じられなかったPちゃんの死を受け入れることが出来たのです。そして、Pちゃんにさようならとありがとうを言えた。

 そうさせてくれたPちゃんと、ご主人にとても感謝をしています。そして、改めて、自分もエンディングノートを作り始めなければ、と思ったのでした。

2024年11月14日木曜日

ママ友にさよなら

  今日、息子の幼稚園時代のお友だちのママPちゃんにさよならをしてきました。48歳のPちゃんは2年半のがん闘病の末、中一と高一の娘を残し、昨日天国に旅立ちました。棺に横たわったPちゃんは生きていたころと変わらぬ美しさでした。

 Pちゃんはいつもニコニコしていて、Pちゃんと言えば、笑顔しか思い出せないほど周囲を和ませてくれる人でした。お料理が上手で、お宅に幼稚園の子どもたちやママさんを招いて、美味しい手料理を振る舞ってくれました。

 背が高く、スラリとした体形で、それは美しい人でした。白い服が好きで、その白い服がとても良く似合っていました。

 ご主人から昨日、Pちゃんが親しくしていたママ友の一人に連絡がありました。お葬式の前に「最後のお別れをお伝えいただける方がいらっしゃいましたら、ご自由に自宅に来ていただければと考えております」という、とても優しい文面でした。

 今日は6人のママ友がPちゃんにさよならを言いに行きました。昨日、ラインが回ってきたときは、とにかく、皆驚くばかりでした。誰もPちゃんの闘病のことを知りませんでしたので、突然の訃報にただただ、「信じられない…」という言葉しかありませんでした。

 中学生と高校生の娘を残し、この世を去らなければならなかったPちゃんの無念を思うと、いたたまれませんでした。今日、Pちゃんにさよならを言いにいった6人のうち、私を含め2人ががんと闘っていますので、他人事ではありませんでした。ご主人と子どもたち、そしてご両親の悲しみはいかばかりかと、自分の家族に重ね合わせて思いを巡らし、胸がいっぱいになりました。

 Pちゃんは笑顔しか思い出せないほど、穏やかな優しい人でした。だから、早くに天国に召されてしまったのかもしれないー。無理矢理そう解釈するしかないほど、Pちゃんの死は理不尽でした。

 Pちゃん、治療辛かったよね。でも、最後まで頑張ったね。天国は痛みも苦しみもないところだと聞いています。ゆっくり休んでくださいね。子どもたちのことは心配だよね。でも、Pちゃんの子どもだから大丈夫。笑顔の素敵な、優しい女性に育っていくと思います。本当にお疲れ様でした。

 

2024年11月13日水曜日

若い女性研究員の活躍

  大学院生の私は週3,4回研究室に通っています。朝、1時間かけて息子のお弁当を作り(私の楽しみの一つ)、息子に朝ごはんを食べさせて見送った後キッチンの片づけをし、洗濯物を外に干し、支度をして家を出ます。満員電車に体を押し込み、携帯電話でニュースを読みながら、研究室に向かいます。研究室は国立がん研究センターの研究所内にあります。

 現在博士課程の3年目で、先月データの解析が終わり、現在は論文執筆中です。私の指導教員は大変忙しい人なので、30分1時間の時間を取ってもらえるのは年に数回。あとは会議の後に捕まえて、こちら側からの報告を立ち話でします。

 こういう状況ですので、誰かに指導をしてもらうことはありません。ですので、質問や相談は研究所内の研究者たちにします。皆、親切に教えてくれます。でも、普通の会社のように気軽におしゃべりをすることはほとんどありません。私は研究所に雇われている研究員ではないので、立場が違いますので、おしゃべりの中に入れないのです。

 そのような中、「おはよう、調子はどう?」といつも声をかけてくれる人がいます。私の机の後ろの部屋で仕事をしている外国人の女性Sさんです。Sさんと「おはよう」の挨拶を交わし、何気ない話題でちょっとした雑談をする。それだけで、私の気持ちを夕方まで持たせることができます。そのSさんが来年1月でこの研究所を退職し、インドネシアの研究所に転職することになったと昨日知りました。

 研究という分野では、転職はおそらく普通の企業よりも頻繁で、皆そうやってキャリアを積んでいきます。この研究所内で研究員としてのキャリアを積むには博士号はもちろんのこと、その上に医療資格を持たなければなりません。かなり上の地位まで行くには医師の資格が必要だそうです。Sさんは東大で博士号を取得して研究員としてキャリアを積んでいますが、医療資格を持っていませんので、いろいろと考えたのかもしれません。

 Sさんは結婚をしていて、2人のお子さんがいます。ご主人は仕事を辞めて、Sさんについて行き、子育てに専念するそうです。頼もしい女性です。Sさんは皆にフレンドリーで親切なので、皆にとってもSさんがいなくなってしまうのは寂しいと思います。私の場合、Sさんとの会話が救いでしたので、昨日はショックで思わず涙が出たほどでした。

 Sさんの他にも、Mさんという若い女性研究員が昨日、フランスの研究所に出張に出かけました。来年の2月まであちらに滞在するそうです。Mさんも東大で博士号を取得したバイリンガルの女性。とても優秀な人で、細やかな気遣いもできる人です。Mさんは私のデータ解析にいろいろアドバイスをくれた人なので、Mさんがいなくなってしまうことも心細い。
 
 こうして親切にしてくれた人がいなくなってしまうのは、とても寂しいのですが、若い女性たちが海外で活躍するのを見るのは本当に頼もしい。私は年齢ばかり上で何もできないけれど、陰ながら彼女たちを応援したいと思います。