2024年10月31日木曜日

恐山へ ⑥

 「6時半から朝のお勤めがあります。地蔵堂にお集まりください」

 午前6時過ぎ、恐山菩提寺の宿坊の館内アナウンスがありました。前夜、ガタガタという音がひどくて、布団を別の場所に移し、電気を付けたままで眠りについたのですが、少し眠れました。このアナウンスの少し前に目が覚めていました。

 顔を洗い、歯を磨いて、服に着替え、お化粧をして、お堂へ。すでに宿泊客のほとんどが集まって、椅子に座っていました。私が行ったのは最後のほうでしたので、もう椅子はなく、お坊さんが「椅子がない方は前へいらしてください」と案内してくれました。菩提寺院代(住職代理)の南直哉さんがお立ちになっているすぐ前に正座しました。

 私は、ダイニングテーブルとソファで育った世代ですので、正座をすることもほとんどありません。足が痺れることを想像し、「もう少し早く来れば椅子に座れたのに」とふと思いましたが、すぐに気持ちが変わりました。南さんの後ろ、私の場所からよく見えるところに、長い「塔婆」が4枚立てかけられており、そのうち2枚に私の父と息子の名前が書かれていました。

 南さんと他3人のお坊さんのお経を、父と息子の名前が書かれた塔婆を見つめながら、厳粛な気持ちで聞きました。父と息子が極楽浄土(キリスト教の天国)で幸せに過ごしていますよう、祈りました。すべてが導かれている、と感じた時間でした。

 本来ですと、塔婆を納める場所に一緒に行くようになっていましたが、南さんから「風が強いため、本日は私たちが納めて参ります。向こう側は石などが飛んできて危ないですので、8時ごろまでには行かないように」とのご指示がありました。そして、皆静かにお堂を後にしました。

 お堂の廊下から、宿坊が見えました。私の泊まった部屋の窓の前にだけ、台の上に乗ったエアコンの室外機がありました。前夜のあのガタガタはこれが原因だったんだな、と分かりました。ですので、あの音に震え上がっていたのは私だけで、他の宿泊客は静かに寝られたのだと分かりました。大きな部屋の片隅の布団置き場に布団を移し、襖を閉めて、電気を付けたまま寝た自分が何とも滑稽で、思わず苦笑しました。

 午前7時半に朝食です。お坊さんと一緒に「五観の偈(ごかんのげ)」を唱え、「いただきます」を唱和しました。朝食も美味しく、そして、前日は全く働かなかった胃もちゃんと食べ物を消化してくれているようで、また、治った後もずっと続いていたマイコプラズマ肺炎による咳もほとんどなくなり、体も通常に戻ったようでした。

 食事を終え、8時過ぎに外に出ることにしました。チェックアウトは10時ですので、すでに支度をして宿坊を出る宿泊客もいました。が、私は10時10分発のバスで下北駅に行く予定でしたので、ギリギリまでここにいることにしていました。

 宿坊を出て、本堂の近くに行くと、お守りなどを売っている小さな小屋がありました。そこで家族全員にお守りと父の仏壇に供えるお札を買い、色鮮やかな風車も買いました。そして、「水子供養地蔵尊」がある場所に向かって歩きました。

 水子供養地蔵の周りにはたくさんの風車がくるくると回っていました。たくさんのお母さんがここに来て、手を合わせたのだろうなと思いました。前日の強風で吹き飛ばされてしまったのでしょうか。お地蔵さんがよく見えるところにある風車を刺す穴が一つ空いていました。そこに買ってきたばかりの風車を刺しました。そして、その前の池に前日社務所でいただいたお札を浮かべました。

水子供養地蔵の周りを囲む風車。真ん中が息子のための風車

   「アンディ、無事産んであげられなくて、ごめんね。おねぇねぇは来月20歳になるよ。時が経つのは早いね」

 そう、息子に話しかけました。風車は勢いよく、くるくると回っていました。

 

 

2024年10月30日水曜日

恐山へ ⑤

  午後7時から、薄暗いお堂で行われた恐山菩提寺院代(住職代理)・南直哉さんの法話は、心に深く染み入るお話でした。死者の霊が集まると言われる恐山になぜ、人は来るのか? 南さんは、亡くなった方のご供養をしに来た方々が、実はご自身が幼少期から深い傷を抱えている場合も少なくないと言います。

 小さいころ、母親が頻繁に外泊する中、幼いきょうだいの世話をし、酔いつぶれる母をも介抱した女性が、母にかけられた言葉のむごさに傷つき、それを抱え続けた人生を送った話。

 それでも、南さんはこの年配の女性が救われるのは「お母さんを許す自分を許す」ことだと言います。南さんのご著書には、等身大の大きな人形を亡くなった一人息子として慈しんだ母親、目の前で子供を事故で失い絶望の中で生きる両親、親に愛されようと一生懸命親に尽くして結局は自分の納得のいく人生を歩めなかった人…。恐山にご供養に訪れるそのような方々の例がいくつも出てきます。

 私は南さんのご著書を読みながら、私のような者がこう言うのはおこがましいとは思いますが、この方々の深い悲しみに心から共感しました。私自身、一人で恐山を訪れたのは、一人であの霊場に行かざるを得ない事情があったからです。そうでなければ、物見遊山で決して行くべきではないーと言われるあの場所に一人で行くはずがありません。

 南さんは1958年生まれで、大学卒業後に2年間社会人生活を送られた後に出家された方です。ご自身のご家族にはお寺の方はいらっしゃらないそうです。出家された理由について、「恐山 死者のいる場所」(新潮新書)の中で、「私は小さい頃から、『生きる』ということより、『死とは何か』というテーマが、問題の中心にあった」とあり、「世俗にとどまったままではその問題をいかんともしがたく、とうとう出家してしまった」と説明されています。

 「私は人の役に立ちたいという『尊い志』があって僧侶になったわけではない」(心がラクになる生き方、アスコム)とキッパリ言い切っていらっしゃいますが、人生で様々な経験をした後で出家するのではない、人生これからという20代で出家されるのです。世俗を離れた世界で、長い間の厳しい修行と深い思索を通して生まれたお考えは、読む者の胸を打ちます。

 私自身、自身の問題に対しての答えを得るために、様々な本を読み、専門家のカウンセリングも受けましたが、答えは出ていません。でも、心の拠り所となる本は何冊かあり、南さんのご著書もその中の一冊です。今回、暗いお堂の中で、南さんを囲む宿泊客の一番後ろでお話を聞くだけでしたが、お目にかかれて光栄でした。

 ただ、明るいお人柄なのでしょうか。落語のような語り口でお話しになり、文章から立ち上がってくる印象とは少し違っていたので驚きました。でも、そのことについてもご著書で「私はおそらく僧侶らしくない。実際に多くの人からそう言われてきた。君には信仰が無いんだねと真っ向から言われたことさえある。僧侶というより、哲学者だとも」(超越と実存、新潮社)と書いていらっしゃいます。実際に法話を聞いて、やはり、南さんのお考えを理解するには、ご著書を読むほうがずっと良いような気がしました。

 そうこうするうちに法話の時間が終わりました。南さんが最後に宿泊客に念を押しました。「今日は大変風が強いですので、浜のほうにはいらっしゃらないでください。何かあっても我々は責任を取れませんので」と。間髪を入れず、「まぁ、これまで夜行った方はいらっしゃいませんが」とお笑いになりました。

 私は、その言葉に深くうなずきました。昼間でさえ、あの場所に一人で行くのは勇気が要ります。たとえ、死のうと決意をしても、夜あそこに行くのは恐ろし過ぎて、死ぬのは諦めようと思うような気がします。「もう、生きるのはいいかな」と思った私でも、あそこは死ぬ場所には選びません。死ぬなら、僅かでもいい、遠くでもいい、人の気配があるところで死にたい。

 法話が終わり、薄暗い長い廊下を通って、宿坊に戻りました。そして浴衣に着替え、温泉に向かいました。そこには、夕食のときに、私の左に座っていた女性も入っていました。その女性はいったい、どのような理由でここに来ているのでしょうか?

 体が温まり、清潔なお布団に入って寝ましたが、風が強過ぎて、ガタガタという音が止まず、すぐ起きてしまいました。また、うとうとしても、音で目が覚めます。あまりに音がひどいため、午前2時過ぎに、部屋の中の布団置き場(人数が多いときはここも寝室になるのでしょう)に布団を移動し、襖を閉めて寝ました。恐山の宿坊の広い畳の部屋に一人。そして、強風でガタガタという音がなり続ける夜。あーあ、早く夜が明けないかしら? 私は、電気を付けたまま布団に横になったのでした。

 

2024年10月27日日曜日

恐山へ ④

  温泉に入って体も温まった午後5時50分ころ、「お食事の時間です。皆さん、お集りください」という館内アナウンスが入りました。朝から何も食べていないため、「やっと、ご飯が食べられる」と有難い思いでお食事処に行きました。

 とても広い部屋にテーブルが長く3列に並び、テーブルの上に赤いお膳が整然と並んでいました。全員の椅子が入口の方に向いていましたので、皆が前を向いて、会話をせず、食事に集中するようです。

 前回のブログでご説明したスリッパと同様の、何といいますか、食事をする場の温かみなどは一切排除された、初めてその光景を見る者を圧倒するような雰囲気です。各部屋から集まってきた宿泊客は皆、静かに席に着きました。

 その日は宿泊客が少なかったようで、真ん中の列と後ろの列2列にお膳が準備されていました。それぞれのお膳の前には名前が書かれた札が立てられています。真ん中の列が2人客で、6組。かなり高齢の母と娘の1組を除いて、中高年のご夫婦(だと思う)でした。私は後ろの列で全員一人客、7人でした。

 夫婦や親子でここに来る理由は何となく分かります。旅行で来る人、大切な家族の供養に来る人、それぞれ理由があって相談してここに来たのでしょう。でも、一人でここに来る人は供養が目的ではない場合、かなりの強者かあるいは酔狂な人に違いありません。

 後ろの席に座っていたのは、一番左が中年の男性、その右におそらく40代ぐらいの女性、私、その右に若い男性、その右に中高年の男性が3人座っていました。右の若者は一人旅が好きな男性という感じで理解できたのですが、平日にここに一人でいらした中高年男性はどのような理由だったのでしょうか? 

 左の女性も、ここに一人で来るには私のように然るべく理由があるはずです。だって、おひとり様の旅なら、日本中たくさん素敵な場所がありますし、あちこち行ったのでたまには違った場所にというほどその女性はお年ではありませんでした。あえて、恐山に、それもお寺の宿坊に泊まるのは何らかの理由があるかもしれないーと想像しました。いや、「日本3大霊場を巡る一人旅」を自ら計画し、ブログに記事をアップしている明るい”大人女子”の可能性もあります。

 そんなことを考えていると、お坊さんが前にお立ちになりました。お食事の前に、「五観の偈(ごかんのげ)」を唱えましょうというご指示でした。宿泊客が全員前を向いているのは、お坊さんがいらっしゃるからなんですね。皆が、お膳の横に置いてある紙を開いて、それを見ながら、お坊さんと一緒に唱えます。

 一には功の多少を計り、彼の来所を量る。

 二には己の徳行の、全欠を忖って供に応ず。

 三には心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす。

 四には将に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。

 五には成道のためのゆえに、いま此の食を受く。

(1・このお米は大変な苦労を重ねて出来たもので、食膳に上がるまでに沢山の人の手を経て今いただけることに感謝する。2・私は今この食事をいただけるほど日夜精進努力しているかどうか反省する。3・お腹がへると過ちを犯しがちなもの。そうかといって美味しいから沢山食べたり、嫌いだから少しでやめたりはしない。4・食事をすることは薬をいただくのと同様で、やせ細ったり命が絶えたりしないためにいただくのである。5・自分自身の本分を全うし、よりよき人間として素晴らしく生き続けるために今この食事をいただきます。)

 そして最後に、「いただきます」を唱和します。ようやく、食事が許されました。

 食事は精進料理で、野菜の天ぷら、煮物、ゴマ豆腐、酢の物などとても美味しかったです。あまりの空腹で、胃がキリキリと痛んでいたため、ゆっくり十分噛んでいただきました。 

 ゆっくりと食べていたので、お坊さんが再びいらしたときはまだ食べ終えていませんでした。が、皆と一緒に「食後の偈」を唱え、「ごちそうさまでした」と唱和しました。

 午後6時30分過ぎに食べ終えました。お腹も一杯でしたが、「五観の偈」を唱えた後でしたので、残すのもはばかられ、何とか全部食べ終えました。まさに、食べる修業でした。私が食べ終わる前に、片付けの方々が来てお膳を下げていましたので、やはり遅かったのでしょう。

 部屋に戻りました。胃が全く働いていないことを、食べている途中から感じていました。でも、午後7時からお堂で菩提寺院代の南直哉さんの法話が行われます。ご著書を何冊も読み、感銘を受けていましたので、お目にかかる機会を逃すわけにはいきません。でも、胃の調子が悪くなってきました。

 私は若いころから胃が悪く、20代で胃潰瘍で血を吐き入院治療。30代で血液がん・悪性リンパ腫を患い、それも胃から始まるがんでした。40代で2回再発した悪性リンパ腫も胃から。そして50代で胃がんを罹患し、手術をしました。長く自分の胃とつきあっていますので、たぶん消化しないだろうな、と分かっていました。大きなストレスがかかると、まずは胃からダメになっていくのです。

 まもなく、吐き気をもよおしました。そして、トイレに行き、何回かに分けて、夕ご飯を全部吐きました。

 6時間かけ、列車やバスを乗り継いで緊張しながらここにたどり着いたこと。朝、準備していた昼食や果物を夫に捨てられてしまい夕食まで何も胃に食べ物を入れられなかったことがずいぶん堪えたこと。恐山のお寺の宿坊は全くの非日常の世界だったこと。そして死者の霊が集まると言われる場所に一人でいるという不安。で、私の体で一番弱い胃がシャットダウンしてしまったのだと思います。

 でも、吐いてしまうと胃の調子は間もなく良くなり、気持ちもすっきり。歯を磨き、水を少し飲み、身支度を整えて、南さんの本と手帳・ペンを持って、お堂に向かいました。長い長い薄暗い木の廊下を足早に歩いていくと、薄暗いお堂で南さんが高座に座り、その周りを宿泊客が車座になっているのが見えました。午後7時に間に合いました。私はその輪の一番後ろに座りました。

 風が強く、静かで薄暗いお堂にガタガタという音が響きました。本当に、どこまでも”恐山”です。

2024年10月26日土曜日

恐山へ ③

  午後3時半過ぎに菩提寺の総門を入ると、静謐な風景が目の前に広がりました。左は湖の浜へ続くであろう殺伐とした道、正面にお寺の山門、そして右に社務所があります。恐山の開山期間は10月末までのためか、人もまばらです。

恐山菩提寺の山門

 入山料を支払った場所のおじさんに聞くと、「恐山」はこの菩提寺の門の中の一体を言うらしい。いただいたパンフレットを見ても、歩くと3,40分はかかりそうです。暗くなってきましたので、リュックを背負ったまま湖の方に向かおうと思ったのですが、チェックインは4時までと事前に言われていましたので、まず宿坊に行くことにしました。

 向かって右側の社務所を通り過ぎると奥に宿坊がありました。玄関ドアには「宿泊客のみ」という張り紙が日本語と英語の両方で書かれています。ドアを開けて入ると、金色の文字で「恐山宿坊」と書かれた黒いスリッパが目の前にずらりと2列に整然と並んでいます。あぁ、何といいますか、「恐山」という文字は一つでも十分インパクトはありますので、それが黒地に金色で、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊、恐山宿坊…とずらりと並んでいると、すごい迫力なんですよ。

 でも、そのド迫力のスリッパによって、この霊場に来るまでにピークを迎えていた不安な気持ちも逆に落ち着きを取り戻しました。開き直ったとでもいいましょうか。「分かってますって。私、恐山に来ているんですよね」。そう心の中でつぶやきながら、そのスリッパを履き、靴を靴箱に入れて、フロントに行ったのでした。

 そこには年配の女性がいました。その女性は淡々と説明します。「今日はお一人で泊まっていただけます」(相部屋と聞いていたので、ほっとしました)、お部屋は”法泉”です」

「はい」

「ここはお寺の宿坊ですので、皆さんにはスケジュールに従っていただきます。夕食は午後6時、向こうのお食事処で宿泊のお客さん全員で食べます。夕食時間の少し前に館内アナウンスがあります。温泉は午後10時まで翌朝は午前5時からご利用できます。館内の温泉はお食事処の向こう側、外の温泉は4カ所あります。外のほうは午後5時まで一般のお客さんもいらっしゃいます」

「はい」

「朝の”お勤め"は午前6時半です。最初はあちらの地蔵殿で、その後本堂に移動して行われます。朝食は7時半、夕食と同じ場所で、皆さんご一緒です」

「はい」

「お食事の後、午後7時から地蔵殿で法話があります。あちらの本を書かれた方です」

 その女性はフロントに置いてある、この菩提寺院代(住職代理)・南直哉さんの本を指さしました。私は南さんの本を何冊も読んでおり、感銘を受けていました。本の中で、宿坊で宿泊客と話をするというくだりがあり、もしかしたら、南さんにお会いできるかもしれないと期待していたのです。

 宿泊代を現金で支払い、部屋に行きました。広くて綺麗な和室でした。前週から咳き込むことが続いており、相部屋ですと、一緒に泊まった方にご迷惑をおかけするかもしれないと心配していましたので、一人で泊まれて良かった。私はリュックを部屋に置いて、宿坊を出ました。

 恐山を歩くのには順路があるようでしたが、ずいぶん暗くなってきましたので、とにかく行けるところを巡ろうと、パンフレットの中にある宇曽利山湖の「極楽浜」から行くことにしました。薄暗い中、一人で浜を歩くのはやはり不安でしたが、歩いているうちにそんな不安もなくなりました。そこは本当に静かで穏やかな場所でした。あいにく雨が降っていましたので湖水はグレーでしたが、天気が良いと鮮やかなブルーに見えるそうです。

穏やかで美しい「極楽浜」

 恐山は「あの世に最も近い場所」と言われています。ですので、湖に向かって父に話しかけました。

「お父さん、来たよ~」

 極楽浜でしばし湖を眺めた後、「地獄谷」のほうに向かいました。歩いていくと、硫黄臭が漂い始めました。火山岩により地面は凸凹し、あちこちからガスが噴出し、草花も全くなく、荒涼とした風景が広がっています。まさに「地獄」を想像させます。「賽の河原」ではあちこちに小石が詰まれており、小石と小石の間に刺さっている色鮮やかな風車が、一種異様な雰囲気を醸し出しています。

異様な雰囲気を醸し出す、小石の間に刺さる風車

 その辺りで、幾人かの参拝客(宿泊客?)が歩いているのが見えました。ほっとしました。かなり暗くなってきましたので、急いで宿坊に戻ることにしました。

 宿坊に戻る前に社務所に寄りました。翌朝のご祈祷のときに、息子と父の供養をしていただくためです。申込書2枚に父の名前と息子の名前を書き、お代を納めました。お坊さんがこう説明してくれました。

「こちらのお札はご自宅にお持ち帰りになり、仏壇に納めてください」

「あの…、父の仏壇はあるんですが、息子は仏壇ないんです。まだ、遺骨は手元にあるので」

「その場合は、そのご遺骨の横に置いてください」

「分かりました」

 それと、もう一枚薄いお札を渡されました。

「これは、水子のご供養のためのお札です。明日朝、水子供養地蔵の水辺に浮かべてください」

「はい。分かりました」

 宿坊に戻ってから、タオルを持って、外の温泉に入りに行きました。一般の参拝客がいなくなる5時を過ぎていましたので、木の小屋の中に入っていったのは私一人。風が強かったので時折、ガタガタっという音がしましたが、「地獄」と「極楽」に一人で行った後ですので、もう怖くもなんともありませんでした。

 

木の小屋の中の温泉

2024年10月24日木曜日

恐山へ ②

  東京から下北半島にある霊場・恐山に向かう道のりは長かった。東京から新幹線で八戸に向かい、八戸から「青い森鉄道」で「野辺地」駅へ。そこで陸奥湾沿いを走るJR大湊線に乗り換え本州最北端の駅「下北」へ向かいました。

 大湊線の終着駅は「大湊」なのですが、その一つ前の下北より僅かに南に位置しているため、下北が本州最北端の駅なのだそうです。その大湊線は一両のワンマンカーでした。窓から海が見えてくると、この海は北海道へつながっているんだと感慨深く、東京からずいぶん遠くに来たという気持ちになります。

 地図では下北半島に向こうに「函館」の文字が見えます。札幌から南の函館に向かうときは暖かくてお洒落なまちに行くワクワク感があるのに、東京から北の下北に向かうときは賑やかな都会から逃れるような寒々とした感覚になる。自分のいる場所から南へ向かうのと北へ向かうのでは、これほど感覚が違うのだと改めて思います。東京から下北へ行くのは、札幌から北海道の最北端「稚内」に向かうような感覚でしょうか。

 そんなことを考えているうちに窓の外に海が見えてきました。昨日は天候が曇り/雨だったことから海はグレー色で、朝から何も食べていないことからお腹もキリキリと痛み、気持ちは更に沈んでいきました。

 一両の車両に乗っていたのは7,8人でしょうか。前方に立つのは白いセーターを着た若い女性で小さなハンドバック一つと軽装です。ドアの近くに立っているのは紺色の帽子を深々と被った30代ぐらいの男性。私の斜め前の座席の窓側にはスーツを着た中年男性が座り、横にリュックを置いています。通路を挟んで横の席にはブランド物のハンドバッグと小さなボストンバッグを横に置いた中年女性。その斜め向かいには黒いスーツを着た中年男性。私の前には40代ぐらいの女性が座っており、カバーのかかった分厚い本を横に置いています。忙しなく携帯電話を見ることもせず、ただ、じっと窓の外を眺めています。ボッボーと汽笛がなりました。

 乗客は皆、一人でした。それぞれが本州最北端の駅に向かう列車に乗って、目的地へと向かっています。平日のこの時間に皆、どこに行くのだろう、と想像が膨らみます。かくいう私は、父と息子の供養を目的に、死者の霊が集まると言われている霊場・恐山に向かっています。

 そうこうするうちに下北駅に着きました。列車の乗り換えもここで終わりで、無事下北駅にたどり着いたことにまず、安堵しました。乗り換え時間が短かったことから食べ物を買うことも出来ず、お腹が極度に空いていました。駅舎を出ると大きな道路を挟んで向こう側にローソンが見えました。時間がないため、そこで空腹を満たす食べ物を買うことは出来ませんが、見慣れた店があるだけで、気持ちがほっとしました。実は、下北に着くまで、不安で不安で仕方なかったのです。

 駅の前にバス停があり、そこに「恐山」行きのバスが泊まっていました。目的地行きのバスがちゃんとそこにあるのは安心材料のはずなのに、この「恐山」という文字は本当に気持ちをざわつかせる字で、緊張感はさらに増します。

 大湊線から一緒に降りてきた紺色の帽子の男性、スーツを着た中年男性が、このバスに乗り込みました。運転手さんがバスの外で乗客が来るのを待っていて、私にも話しかけてくれました。「今日は一日雨なんですよ。晴れていたら、〇〇山が見えるんですが」と申し訳なさそうに…。

 バスに乗ったのは私を入れて全部で6人。バスが発車し、まちの中を縫うように走ると、車窓からから見えたのは、北海道でもよく見かける風景です。立派な家と古い家が混在していて、古い食堂や少しさびれた写真館、美容室、なぜか建物は立派な銀行、ずっとそこにあるような洋服屋さん、古い看板がかかった酒屋さん…が道路沿いにぽつんぽつんと建っている、見慣れた風景です。途中視界が広がり、広場が見えてきました。「野菜とりたて市」の看板がかかっていて、「あぁ、ほっとするなぁ」と思います。

 「むつ郵便局」でスーツ姿の男性が降りました。そうか、大湊線に乗っていた男性は郵便局に用事があったんだ(違うかもしれませんが)とぼんやりと考えます。その後、観光バスのように女性の音声による案内が流れてきて、恐山の由来などを説明してくれます。恐山は日本三大零場の一つで、天台宗の僧侶が開いたとされているそうです。昔はそこに向かうのは大変険しい道を行かなければならなかったらしい。

 「賽の河原」では、幼くして亡くなった子どもが「お母さん」「お父さん」と呼びながら、愛おしい父母を探します。でも、お父さんもお母さんもそこにはいません。そして、子どもたちは昼間、河原で小石を積んでいく。でも、夕方になると地獄から鬼が出てきて、子どもがせっかく積んだ小石を崩してしまう。何とも切ない話です。アナウンスは、子どもたちの供養のために、賽の河原では小石を出来るだけ多く、出来るだけ高く積んでください、と呼び掛けます。

 そうこうしているうちに恐山に着きました。左手に海、右手に大きな駐車場とその向こうに菩提寺の門。駐車場には十数台の車が止まっていました。人がひしめき合う東京駅から満席の新幹線で八戸へ。そこから、どんどん人が少なくなる電車に2度乗り換え、小雨が降る中、たった6人(途中で1人下車)が乗る、死者の魂が集まると言われる恐山行きのバスに乗って、終点に着いたときに目の前に見えた何台もの乗用車と人。

 ああ、ここにいるのは私だけではないという安堵感で、高まっていた緊張感が一気にやわらぎました。バスを降りるとき、運転手さんがニコニコと話しかけてきました。「今日はここに泊まるの?」「はい、今日はここでゆっくりします」。バスを降りて、湖を眺め、てくてく歩いて、あの世とこの世の間の「三途の川」にかかる橋を見てきました。橋を見終えて、恐山の駐車場のほうに戻ります。菩提寺の総門の横で入山料を払います。そこのおじさんが聞きます。

「入山料は700円だよ。わざわざ一人でここに来たの?」

「はい、東京から着ました」

「それは、遠くから。わしらは死んだらここに来られるから、わざわざ行かないよ。お祭りのときは行くけどね」

 この地方の人は死んだら恐山に行くと信じているそうです。死は特別なものではなく、今の延長にある。死んでいく場所も、普段暮らしている土地の近く。なんか、こういうのっていいなぁと思いながら、門をくぐりました。

2024年10月23日水曜日

恐山へ

   いま、東北新幹線の中です。八戸で降り、在来線に2回乗り換え、下北へ。下北からバスに乗り、恐山に行きます。恐山に着くのは午後3時過ぎになります。宿泊予定のお寺・菩提寺の宿坊に真っすぐ行く予定なのですが、バス停からどれくらいなのか、全く想像もつかず、不安です。

 今朝はちょっとしたアクシデントがあり、気持ちが落ち込んでいます。昨日は息子の運動会で、張り切って3人分のお弁当を作り、観戦。楽しい一日だったのですが、帰宅後、今日の準備をしているうちに、ざわざわとした気持ちになり、今に至ります。

 この気持ちに拍車をかけたのが今朝の出来事です。朝早く起き、洗濯機を2回回して外に干し、息子の朝食を作り、自分のランチ用にサンドウイッチを作りリンゴを切ってジップロックに入れ、みかんも2つ準備しました。今日は乗り換えが何回もあり、それぞれが5分~10ぐらいしか乗り換え時間がないためです。

 それを紙袋に入れてリュックサックの隣に置いておいたら、何と、夫がゴミとして捨ててしまったのです。玄関に置いてあったのは新聞紙と雑紙の入った3袋。それと一緒に間違って捨ててしまいました。

 こういうのって、落ち込むんですよね。朝、雑紙をより分けて、袋にきちんと詰め直して玄関に置いたのは、私。このままゴミ捨て場に持っていけば良かったのですが、最後の最後に、夫に任せたのが悪かった。

 紙類のリサイクルは、箱類はつぶし、中に食べ物が入っていたりした場合はキレイに洗って干し、封筒の宛名部分だけ切り取って燃えるゴミとして捨てその他を雑紙を入れているごみ箱へ。それをごみ捨ての当日にまた、紙袋に詰め直して、朝玄関に持っていく。玄関からゴミ捨て場に持っていくのは一番簡単な部分でした。何で自分で仕事を完了しなかったのだろう?と後悔しました。

 マイコプラズマ肺炎にかかりましたが熱は下がって、外出をしても良いほどに回復しました。が、咳が止まらなくなることが頻繁に起きます。昨夜もベッドに横になったら咳が止まらず、気道が徐々に狭くなってきて、息も絶え絶えになりました。で、恐山で一人で息絶え絶えになるかもしれないと不安が増したのです。

 一昨日、すごくせき込み、気道がふさがりそうになったときは夫が近くにいました。夫は心配そうに近寄ってきて、椅子まで持ってきて私の側に座りましたが、床に座り込み、咳込んでいる私を見下ろすだけ。かける言葉は「カームダウン(落ち着くんだ!)」。「落ち着け? 咳が止まらなくて、細い気道でようやく息をしているのに? そういう人間がどうやったら落ち着くの? 落ち着くのは息が切れたときだよ!」と思いましたが、咳は止まらず、言葉も出ません。

 やっとのことで、「ウ、ウ、ウォーター」と伝えました。うなずいた夫が冷蔵庫に行き、持ってきたのは1リットルのペットボトル。そのキャップを開けて、私に渡します。

 もう、私は座り込んでいますので、力もなく、それを飲むこともできません。そのときに悟りました。「近くに人がいても、死ぬときは死ぬんだな」と。

 こういうことは本当に些細なことですが、体調が良くないときは、気力がうんと萎えるんですよね。別に夫を頼っているわけでもなく、当然、自分のことは自分でしているんですが、「お弁当は紙袋に入っているけど間違って捨てないでね、でも、紙類が入った袋よりずっと重いから気付くとは思うけど」とか、「咳込んでいる人には背中をさするとか、水をコップに入れて渡すんだよ」とかいちいち伝えなければならない。

 夫は私が病院で瀕死の状態のときに、「シカゴのママとダッドにこちらに来てもらう。ママとダッドも君に最後のサヨナラを言いたいと思う」と泣きながら、言ってのけた人。そのとき、私は酸素マスクをしていましたが、「だ、だ、大丈夫だと思う。まだ、死なないから。ママとダッドを呼ぶ前に、せ、せ、先生に私の状態を、聞いてみたら? た、た、たぶん、本人を前に先生も言いにくいとお、お、思うから、病室の外で聞いてね」と夫がすべきことを逐一伝えなければなりませんでした。こういう局面、結婚22年で数知れず。

 頑張って生きているつもりなんですが、死者の魂が集まると言われる地に行くときに(まぁ、自分で計画したことですが)作っておいたお弁当を捨てられるとか、咳込んで死にそうなときに1リットル入りのペットボトルを渡されるとか、というようなこと残念なことが続くと、ふと、あぁ、もういいかなって思ってしまいます。

 八戸に無事着き、乗り換え時間9分というギリギリの中で、「青い森鉄道」に乗り換えました。可愛らしい駅員の女性に「PASMO使えますか?」と聞くと、「使えないんですよ」ととっても申し訳ない表情で言われてしまいました。前で券売機で切符を買っているシニアの男女、そして男性は「お金を入れたのに、切符が出てこない」とか「買い方が分からない」と言っています。分かりますよ、難しいですよね。私もここ不慣れなので、お手伝いしたくても、教えて差し上げられません、、、。

 切符を買って、やっと「青い森鉄道」に乗りました。気持ちが少し上がるような、明るい青の電車でした。なんか、こういう素朴な感じ、いいなぁ。それに乗ったのは発車2分前。間に合いました。

 次は「野辺地」というところで大湊線に乗り換え、「下北」に行きます。乗り換え時間5分。下北では、下北交通というバスに乗り、恐山へ向かいます。

 夫に「お腹、空いて死にそう。何で、私の弁当捨てるの?」とメッセージを出しました。少なくとも、最果ての地に向かう妻は、生きているというメッセージです。本当にもう!お腹すき過ぎて、死者の魂に引っ張られるじゃないの!

 

 

2024年10月20日日曜日

おたまじゃくしの絵

  軽井沢の家の屋根裏をリフォームするにあたり、そこに押し込んであった子どもたちの衣類や工作・絵などをあれこれ見直しました。子どもたちと過ごす時間と同じくらいに幸せなひとときで、「これ着ていたとき、可愛かったなぁ」とか「そうそう、こんな面白い物作ったよね」とか当時を思い出し、胸がキュンとしっぱなしでした。

 娘は小さなころから絵が得意でしたので、娘の絵は木箱に入れたり、段ボールに挟んだりして、仕舞ってありました。その中で、とりわけ懐かしかったのは、娘が年長さんのときに描いたオタマジャクシの絵。この絵の一部を私が刺繍をしたのです。

 それを今回、東京に持ち帰り、いつも子どもたちの絵を額装してもらう近所の額装屋さんに持っていきました。とってもいい感じに仕上がってきました。

 1階のリビング・ダイニングに飾りました。娘が幼稚園のころ描いた絵は、動物も人も虫もみんなニコニコして、とっても可愛い。心が和みます。

娘が幼稚園・年長のときに描いた絵。右は私の刺繍