4日間の旅行中、4歳の息子は、超高齢ママの欲目かもしれませんが、とても頼りになりました。
自分の服を詰めたミッキーマウス柄のスーツケースを引っ張り、背中にはヴァイオリンを背負って歩きました。飛行場の荷物受け取りターンテーブルの前で、大人たちに並んで、自分と私の荷物を待ちました。荷物をいち早く見つけ、取りに行きました。飛行機やバスの中でも愚図ることなく、行儀良くしていました。そんな息子を見ながら、「成長したなあ」と頼もしく感じました。
しかし、元気な息子も慣れない札幌の寒さと雪遊びですっかり体調を崩し、熱を出してしまいました。救急病院で解熱剤をもらい、4日間の滞在を終え、新千歳空港から飛行機に乗って羽田空港に向かい、羽田空港でバスに乗り換えたときのこと。バスのシートに座った息子がつぶやきました。
「早くおうちに帰って、ベアと一緒に寝たい」
「ベア」はその名の通り、クマのぬいぐるみです。茶色い色をしています。息子の誕生お祝いに頂いたもので、もう4年間も一緒に寝ています。昼寝のときも、夜寝るときも、左手でベアをつかみ、顔にベアをすりすりとしながら、右の親指をしゃぶって寝ます。夜、目を覚ますと無意識にベアを探します。そして、ベアがいないと、「ベアがいない」と泣き、布団の中やベッドの横を見つかるまで探します。それほど、息子にとって大切なものなのです。
そのような事情から、ベアがなくなったら困るため、息子が1歳のとき、頂いたベアの販売先を調べ、同じものを購入しました。違うのは首に巻いてあるリボンの柄だけです。でも、「ベア・ジュニア」と名付けたふわふわのベアには、見向きもしませんでした。やはり、「ベア」でなければ、駄目なのです。
ベアでなければ駄目だと分かってから、旅行や外出時に持ち出さなくなりました。門外不出です。夫の実家があるシカゴや私の実家がある札幌に帰省するときも、「寝つきが悪くて困っても、なくすよりはまし」と、置いていきました。
以前は「ベアを連れていく!」と泣きましたが、最近は「ベアを置いていくのよ」という説得に、「うん」と素直にうなずくほど、息子も成長しました。でも、今回、4日間離れて、かつ熱もあり、ベアが恋しくて仕方がなかったのでしょう。やっぱり、「ママより、ベア」でした。
ベアはもう、くたくたになって、頂いたときのふわふわ感はありません。最初は毛玉を丁寧にとっていましたが、それもあきらめました。今は、ところどころ、擦り切れた状態です。首がもう取れそうなほど、よれよれになっています。たまに手洗いすると、水が茶色になるほど汚れています。それほど、ベアは息子に愛されています。ベアの匂いをかむと、息子の匂いがします。
寝るときのおしゃぶりとセットになっているため、出っ歯が気になったこともありましたが、今は、少し出っ歯でも良いかなと思い、あきらめています。
自宅に戻ると、息子は真っ先にベッドに行き、ベアをつかみ、顔にすりすりとしました。そして、ベアを顔につけたま、右の親指をしゃぶり、すやすやと寝ました。
そんな息子の寝顔を見て、また、心が癒されました。息子はいつまで、ベアと一緒に寝るのだろうか? ベアが必要でなくなる日が、まだまだ先でありますように。そう祈りつつ、息子の寝顔を眺めました。
2016年2月9日火曜日
2016年2月7日日曜日
カツラ
前回、母と会ったのは2カ月前の11月です。娘の運動会に来てもらったのです。運動会は母が一番楽しみにしている孫の行事。ですので、毎年来てもらっているのです。そのとき母の頭に発見したのが、5センチほどの「はげ」でした。母は気が付かなかったらしく、私が指摘しても、「年だから・・・」と気にも留めていませんでした。ところが、今回の札幌帰省では、ふんわりとした髪に戻っていたのです。
母の「はげ」のことをすっかり忘れていた私は、「お母さん、髪いいね」とほめました。すると、母が思いがけない答えをしました。
「ああ、これ、カツラ。もう何十年も前に作ったのがあったのを思い出したの」とパカッと部分カツラを頭から外します。そう言えばずいぶん前、薄くなった頭頂部を補うのに良いと母が作ったことを思い出しました。ずいぶん古いカツラですが、母の髪と全く同じ色で、気が付きませんでした。カツラを取ったところは、前回より「はげ」の部分が広がり、10センチほどになっていました。
「もう、さすがにこのままで外出できなくて。どうしようかと考えていたら、ずいぶん前にカツラを買ったことを思い出したのよ」と母は得意そうに語ります。
「すごいね。お母さんの髪の色と全く同じ色じゃない?」
「うん。染める色を変えていないから、同じ色なんだね」と母。
「病院行った?」と聞いてみると、「行ったけど、お年ですからね・・・とお医者さんも気にしていないようだから、気にしないことにしたの」と苦笑いします。
「それ、円形脱毛症だと思うけど、それ以上広がらなければ良いね」と私。
実は私は、2度髪が全部抜けたことがあります。1回目は38歳のとき。抗がん剤治療で全部抜けました。2回目は47歳のとき。大きなストレスがかかった出来事があり、抜けてしまったのです。このときは抗がん剤治療のとき一気に抜けたのとは違い、数カ月かけて、全部抜けました。
最寄りのクリニックや大学病院の皮膚科で処方してもらった薬が効かず、「毛髪外来」がある他の大学病院に行きましたが、医師は「ああ、これは全部抜けますよ。薬は効きません」とあっさり。私は自己免疫疾患を2つ(両方とも、国の難病指定になっています)を患っていて、この脱毛も「大きなストレスがかかって、自分の免疫が、今回は髪を攻撃してしまったんだね」とのこと。自分を守るための免疫が、自らを攻撃してしまうなんて、「ホント、情けないよなあ」と思わず、苦笑しました。
1回目の脱毛のときは、私は若かった。精神的にもタフで、抗がん剤の治療に入る前にカツラを買い、髪もバッサリとショートにしました。カツラも明るい色の、おしゃれなショートにしました。髪が生えてきた後、カツラは処分しました。夫に、「もう2度とないように、神社で燃やしてもらったらどう?」と勧められ、「お焚き上げ」に出しました。燃え盛る火の中に、カツラを投げ入れ、夫と二人、手を合わせました。今、思い返すと「やることが大胆だよなあ」と、若気の至りを反省します。
「お焚き上げ」は御札や御守り、正月飾りなどを粗末に扱わずに、感謝の気持ちを持って神社に納める神聖な行事。たとえ、それが「もう2度とがんが再発しませんように」という切なる願いを込めたものだとしても、納めたものは、使用済みのカツラ。罰が当たったのでしょう。私は、がんではなく、違う理由で、また「はげ」になったのです。
2度目に買ったのは、数カ月かけて髪が抜けた経緯がありますので、部分用カツラといわゆる「全カツラ」。大きな箱に入っているため、処分したいものの一番なのですが、「可燃ゴミ」として捨てても罰が当たるような気がして、捨てられません。年を取り、長い間病気の連鎖の中でもがき苦しんだ後ですので、「罰が当たる可能性があること」をする勇気など、かけらも残っていません。その2つのカツラの箱は、納戸の中で、何となく”偉そうに”大きなスペースを占領しています。
母のカツラを見て、思いました。また、使うときが来るかもしれないから取って置こうと。たぶん、そのときは、母のように「はげ」も老いの一つの形として、大ごとにせずに穏やかに、受け止めることが出来るかもしれません。
母の「はげ」のことをすっかり忘れていた私は、「お母さん、髪いいね」とほめました。すると、母が思いがけない答えをしました。
「ああ、これ、カツラ。もう何十年も前に作ったのがあったのを思い出したの」とパカッと部分カツラを頭から外します。そう言えばずいぶん前、薄くなった頭頂部を補うのに良いと母が作ったことを思い出しました。ずいぶん古いカツラですが、母の髪と全く同じ色で、気が付きませんでした。カツラを取ったところは、前回より「はげ」の部分が広がり、10センチほどになっていました。
「もう、さすがにこのままで外出できなくて。どうしようかと考えていたら、ずいぶん前にカツラを買ったことを思い出したのよ」と母は得意そうに語ります。
「すごいね。お母さんの髪の色と全く同じ色じゃない?」
「うん。染める色を変えていないから、同じ色なんだね」と母。
「病院行った?」と聞いてみると、「行ったけど、お年ですからね・・・とお医者さんも気にしていないようだから、気にしないことにしたの」と苦笑いします。
「それ、円形脱毛症だと思うけど、それ以上広がらなければ良いね」と私。
実は私は、2度髪が全部抜けたことがあります。1回目は38歳のとき。抗がん剤治療で全部抜けました。2回目は47歳のとき。大きなストレスがかかった出来事があり、抜けてしまったのです。このときは抗がん剤治療のとき一気に抜けたのとは違い、数カ月かけて、全部抜けました。
最寄りのクリニックや大学病院の皮膚科で処方してもらった薬が効かず、「毛髪外来」がある他の大学病院に行きましたが、医師は「ああ、これは全部抜けますよ。薬は効きません」とあっさり。私は自己免疫疾患を2つ(両方とも、国の難病指定になっています)を患っていて、この脱毛も「大きなストレスがかかって、自分の免疫が、今回は髪を攻撃してしまったんだね」とのこと。自分を守るための免疫が、自らを攻撃してしまうなんて、「ホント、情けないよなあ」と思わず、苦笑しました。
1回目の脱毛のときは、私は若かった。精神的にもタフで、抗がん剤の治療に入る前にカツラを買い、髪もバッサリとショートにしました。カツラも明るい色の、おしゃれなショートにしました。髪が生えてきた後、カツラは処分しました。夫に、「もう2度とないように、神社で燃やしてもらったらどう?」と勧められ、「お焚き上げ」に出しました。燃え盛る火の中に、カツラを投げ入れ、夫と二人、手を合わせました。今、思い返すと「やることが大胆だよなあ」と、若気の至りを反省します。
「お焚き上げ」は御札や御守り、正月飾りなどを粗末に扱わずに、感謝の気持ちを持って神社に納める神聖な行事。たとえ、それが「もう2度とがんが再発しませんように」という切なる願いを込めたものだとしても、納めたものは、使用済みのカツラ。罰が当たったのでしょう。私は、がんではなく、違う理由で、また「はげ」になったのです。
2度目に買ったのは、数カ月かけて髪が抜けた経緯がありますので、部分用カツラといわゆる「全カツラ」。大きな箱に入っているため、処分したいものの一番なのですが、「可燃ゴミ」として捨てても罰が当たるような気がして、捨てられません。年を取り、長い間病気の連鎖の中でもがき苦しんだ後ですので、「罰が当たる可能性があること」をする勇気など、かけらも残っていません。その2つのカツラの箱は、納戸の中で、何となく”偉そうに”大きなスペースを占領しています。
母のカツラを見て、思いました。また、使うときが来るかもしれないから取って置こうと。たぶん、そのときは、母のように「はげ」も老いの一つの形として、大ごとにせずに穏やかに、受け止めることが出来るかもしれません。
2016年2月4日木曜日
母の涙
年賀状が自分の気持ちの在り様に影響を与え始めたのは、ここ数年のことだと思います。長年やり取りをしていた人へ出した年賀状が「あて所に尋ねあたりません」と戻ってきたり、宛名はプリンターで打ち出してありコメントもない年賀状をもらったりすると、気持ちが落ち込みます。51歳の私でさえそうなのですから、78歳の母にとっては年の初めの友人知人からの年賀状は、もっと大きな意味があるのだと思います。今回の4日間の札幌滞在中、母が涙を流して語ったのは、年賀状にまつわる話でした。
今年は、数人から年賀状が来なかったそうです。いずれも、長年やり取りをしていた律儀な知人だと言います。私も母から何度も名前を聞いたことがある人でした。
「きっと、何かあったんだと思う」と母は言います。
「電話してみないの?」と、私は聞きます。電話をかけたくないのだ、かけるのが恐ろしいのだということは分かっていますが、母の話を聞くために、一応聞いてみます。
「かけない。だって、かけて何かあったことが分かったら、私も落ち込むし。落ち込んだら、立ち直るのに時間がかかるし」と母は言います。
「そうだよね」と私。母の答えはもっともだと思います。私も体調が悪いときに、健康なときなら聞き流すことも真正面から受け止め、体調が悪化し、元に戻すのに数週間、ときに数カ月かかった経験があるので、母の言うことはよく分かるのです。
母が次に語ったのは、幼馴染のご主人からの年賀状のことです。
「あんた、酔生夢死って言葉知っている?」
「知らない。教えて」
「実はね、Mちゃんの旦那さんから年賀状があって、その言葉が印刷されていたの。初めて見る言葉で意味が分からなかったから辞書を調べたら、くだらない人生だという意味らしい。ひどいと思わない?Mちゃんがかわいそうだ」と母は涙を流します。
母の幼馴染のMちゃんは、今、寝たきりの状態です。ご主人と二人で数年前に長年住んだ見晴しの良いマンションを売り払い、老人ホームに入ったのだといいます。Mちゃんは、食事から下の世話までご主人に頼っているらしいのです。そういう状態ですから、母へのMちゃんからの年賀状は来ていませんでした。が、今年になって突然、Mちゃんのご主人から母あてにその年賀状が来たというのです。
「私に年賀状が来たということは、他のお友達にも出したってことでしょう? Mちゃんのお世話をする人生をくだらないなんて、Mちゃんがかわいそうで、かわいそうで。Mちゃんはね、元気なときは旦那さんのことをいつも自慢していたの。『M子、命って言うのよ』なんて、のろけてね。だから、私たちも『Mちゃん、旦那さんに愛されて幸せね』って言っていたの。それなのに、そのMちゃんの世話をする人生がくだらないなんて。『M子、命』って言ったんだから、最後までMちゃんのことをしっかり世話してあげればいいのに」。母の目からは涙が溢れます。そして、言いました。「こんな年賀状なんて、いらなかった」と。
「お見舞いはいかないの?」
「行かない」と母はきっぱりと言います。
「私が知っているMちゃんは色白でかわいらしくて、元気なMちゃんなの。そういうMちゃんを覚えていたい。寝たきりのMちゃんには会いたくない」
私は、言いました。「旦那さん、立派な方だったっていつもお母さん言っていたじゃない」
「そうだよ。いいところに勤めていたんだから」
「お母さん、こんなこと言うのも何だけどさ。みんな年を取ってきたんだよ。その立派な人が、見た人がこれはひどいんじゃない?という年賀状を書いてしまうんだよ。自制が効かなくなっているんだよ。お母さんの周りで、そういう人増えているでしょう? 頑固な人はますます頑固に、自分勝手な人はますます自分勝手に、その人の欠点が際立ってきているでしょう?」
「そう言われれば、そうかもしれない」
「残念だけど、それが年を取るってことかもね。それはお母さんたちの世代だけじゃないよ。私たちの世代だってそうだよ。それは自分も含めてってことだけど」
「そうだね」。母は涙を拭きました。
札幌滞在中、母から聞いた話は、愚痴や悪口ではありませんでした。老後の現実でした。
「聞きたくないかもしれないけど、聞いておきなさい。いずれ、あんたも行く道だから」ー。そう言って、母が示してくれた道は、とても過酷で険しい道でした。
今年は、数人から年賀状が来なかったそうです。いずれも、長年やり取りをしていた律儀な知人だと言います。私も母から何度も名前を聞いたことがある人でした。
「きっと、何かあったんだと思う」と母は言います。
「電話してみないの?」と、私は聞きます。電話をかけたくないのだ、かけるのが恐ろしいのだということは分かっていますが、母の話を聞くために、一応聞いてみます。
「かけない。だって、かけて何かあったことが分かったら、私も落ち込むし。落ち込んだら、立ち直るのに時間がかかるし」と母は言います。
「そうだよね」と私。母の答えはもっともだと思います。私も体調が悪いときに、健康なときなら聞き流すことも真正面から受け止め、体調が悪化し、元に戻すのに数週間、ときに数カ月かかった経験があるので、母の言うことはよく分かるのです。
母が次に語ったのは、幼馴染のご主人からの年賀状のことです。
「あんた、酔生夢死って言葉知っている?」
「知らない。教えて」
「実はね、Mちゃんの旦那さんから年賀状があって、その言葉が印刷されていたの。初めて見る言葉で意味が分からなかったから辞書を調べたら、くだらない人生だという意味らしい。ひどいと思わない?Mちゃんがかわいそうだ」と母は涙を流します。
母の幼馴染のMちゃんは、今、寝たきりの状態です。ご主人と二人で数年前に長年住んだ見晴しの良いマンションを売り払い、老人ホームに入ったのだといいます。Mちゃんは、食事から下の世話までご主人に頼っているらしいのです。そういう状態ですから、母へのMちゃんからの年賀状は来ていませんでした。が、今年になって突然、Mちゃんのご主人から母あてにその年賀状が来たというのです。
「私に年賀状が来たということは、他のお友達にも出したってことでしょう? Mちゃんのお世話をする人生をくだらないなんて、Mちゃんがかわいそうで、かわいそうで。Mちゃんはね、元気なときは旦那さんのことをいつも自慢していたの。『M子、命って言うのよ』なんて、のろけてね。だから、私たちも『Mちゃん、旦那さんに愛されて幸せね』って言っていたの。それなのに、そのMちゃんの世話をする人生がくだらないなんて。『M子、命』って言ったんだから、最後までMちゃんのことをしっかり世話してあげればいいのに」。母の目からは涙が溢れます。そして、言いました。「こんな年賀状なんて、いらなかった」と。
「お見舞いはいかないの?」
「行かない」と母はきっぱりと言います。
「私が知っているMちゃんは色白でかわいらしくて、元気なMちゃんなの。そういうMちゃんを覚えていたい。寝たきりのMちゃんには会いたくない」
私は、言いました。「旦那さん、立派な方だったっていつもお母さん言っていたじゃない」
「そうだよ。いいところに勤めていたんだから」
「お母さん、こんなこと言うのも何だけどさ。みんな年を取ってきたんだよ。その立派な人が、見た人がこれはひどいんじゃない?という年賀状を書いてしまうんだよ。自制が効かなくなっているんだよ。お母さんの周りで、そういう人増えているでしょう? 頑固な人はますます頑固に、自分勝手な人はますます自分勝手に、その人の欠点が際立ってきているでしょう?」
「そう言われれば、そうかもしれない」
「残念だけど、それが年を取るってことかもね。それはお母さんたちの世代だけじゃないよ。私たちの世代だってそうだよ。それは自分も含めてってことだけど」
「そうだね」。母は涙を拭きました。
札幌滞在中、母から聞いた話は、愚痴や悪口ではありませんでした。老後の現実でした。
「聞きたくないかもしれないけど、聞いておきなさい。いずれ、あんたも行く道だから」ー。そう言って、母が示してくれた道は、とても過酷で険しい道でした。
2016年2月2日火曜日
母
「ボケるのが一番嫌だ」ー。今回の4日間の札幌帰省で、78歳の母が頻繁に言っていた言葉です。友達のご主人など、身近で認知症を患う人が増え、病気が進行するとどうなるかーということを実感を持って理解するようになったためです。自分のウンチを壁に塗りたくる、幻覚を見て叫ぶ、近所を徘徊する・・・。母が友達から聞かされる夫の愚痴や実際に母の知人の女性がそうなっている話はどれも深刻。母が認知症だけは嫌だーと願うのは十分理解できました。
母は、ボケないための切実なまでの努力を暮らしのあらゆる場面でしていました。一人娘の私は東京暮らしで、30代後半から大病を患い病気がち。さらにあろうことか、勝手に46歳で2人目の子供を出産してしまったため、全く頼りになりません。
自分の60代から70代前半は弱々しい娘の代わりに、半身が不自由な夫を引き連れ東京に来ては、孫育てや家事を引き受けてきたほどで、母娘の頼り頼られる関係はふつうとは逆です。「娘には迷惑をかけられぬ」という思いが母の気持ちの柱となっているため、心身ともに健康を保つ努力は、娘の私が感心する、いいえ申し訳なく思うほどなのです。
朝、昼、晩と栄養を考え手作りの食事をとっているのは言うまでもありません。テーブルには時に花を飾り、彩り良くおかずを皿に装います。「今日のランチ」と題する写メールを私に送ってきます。起床時は布団の上で体操。夏は車を運転してスーパーやデパートに買い物に行きます。先日も「やっぱり車はまだ手放せない」と運転免許を更新してきたばかり。近所の人と立ち話をしたり、友達とランチをしたり、と人と積極的に話をしています。季節感を忘れないため、玄関にはその季節の花を活け、クリスマスや雛祭りなどの行事の飾りも欠かしません。娘が30年(!)も前に成人式に着た振袖を、9年後に孫娘に着させるための虫干しも、毎年欠かしたことがありません。
母は毎朝、父の仏壇に手を合わせ、お経を読みます。読み始める前に、「2016年、平成28年1月16日土曜日・・・」と、西暦と元号の両方の年を言い、日付と曜日も続けます。日付を思わず忘れてしまう私とは大違い。こういう日々の心構えが、実は大きな差になるのではと思い知らされます。
新聞は隅から隅まで読み、意味が不確かな漢字や、読み方が分からない漢字は必ず辞書で調べます。裏側が白い広告を見開いた新聞の上に乗せ、その上にマジックで調べたばかりの漢字を練習します。ついでに、忘れがちな漢字もせっせと練習します。
世の中の情報についていくための努力も欠かしません。今回驚いたのは、私が置いていった(何十年も前です)ぬいぐるみ一体一体に名前を付けて、毎朝、呼びかけているのです。その名前を耳にしたとき、私は「そう、きたか」と思わず、うなりました。
「ノーベル生理学・医学賞の大村智さん、おはようございます」
「ノーベル物理学賞の梶田隆章さん、おはようございます」
世の中広しと言えども、ボケ防止のために、ノーベル賞受賞者の名前をぬいぐるみにつけて呼びかける人はいないでしょう。母、あっぱれ。
左の犬が、ノーベル生理学・医学賞の大村智さん、右の犬がノーベル物理学賞の梶田隆章さん
母は、ボケないための切実なまでの努力を暮らしのあらゆる場面でしていました。一人娘の私は東京暮らしで、30代後半から大病を患い病気がち。さらにあろうことか、勝手に46歳で2人目の子供を出産してしまったため、全く頼りになりません。
自分の60代から70代前半は弱々しい娘の代わりに、半身が不自由な夫を引き連れ東京に来ては、孫育てや家事を引き受けてきたほどで、母娘の頼り頼られる関係はふつうとは逆です。「娘には迷惑をかけられぬ」という思いが母の気持ちの柱となっているため、心身ともに健康を保つ努力は、娘の私が感心する、いいえ申し訳なく思うほどなのです。
朝、昼、晩と栄養を考え手作りの食事をとっているのは言うまでもありません。テーブルには時に花を飾り、彩り良くおかずを皿に装います。「今日のランチ」と題する写メールを私に送ってきます。起床時は布団の上で体操。夏は車を運転してスーパーやデパートに買い物に行きます。先日も「やっぱり車はまだ手放せない」と運転免許を更新してきたばかり。近所の人と立ち話をしたり、友達とランチをしたり、と人と積極的に話をしています。季節感を忘れないため、玄関にはその季節の花を活け、クリスマスや雛祭りなどの行事の飾りも欠かしません。娘が30年(!)も前に成人式に着た振袖を、9年後に孫娘に着させるための虫干しも、毎年欠かしたことがありません。
母は毎朝、父の仏壇に手を合わせ、お経を読みます。読み始める前に、「2016年、平成28年1月16日土曜日・・・」と、西暦と元号の両方の年を言い、日付と曜日も続けます。日付を思わず忘れてしまう私とは大違い。こういう日々の心構えが、実は大きな差になるのではと思い知らされます。
新聞は隅から隅まで読み、意味が不確かな漢字や、読み方が分からない漢字は必ず辞書で調べます。裏側が白い広告を見開いた新聞の上に乗せ、その上にマジックで調べたばかりの漢字を練習します。ついでに、忘れがちな漢字もせっせと練習します。
世の中の情報についていくための努力も欠かしません。今回驚いたのは、私が置いていった(何十年も前です)ぬいぐるみ一体一体に名前を付けて、毎朝、呼びかけているのです。その名前を耳にしたとき、私は「そう、きたか」と思わず、うなりました。
「ノーベル生理学・医学賞の大村智さん、おはようございます」
「ノーベル物理学賞の梶田隆章さん、おはようございます」
世の中広しと言えども、ボケ防止のために、ノーベル賞受賞者の名前をぬいぐるみにつけて呼びかける人はいないでしょう。母、あっぱれ。
左の犬が、ノーベル生理学・医学賞の大村智さん、右の犬がノーベル物理学賞の梶田隆章さん
2016年1月28日木曜日
札幌帰省
私は寒さが原因で発症する(不思議な病気です)、「自己免疫性溶血性貧血」という持病を持っています。一定の寒さにさらされると、自己免疫が血中のヘモグロビンを攻撃してしまうのです。ヘモグロビンは酸素を運ぶ役割があるので、呼吸困難になったり、体が動かせなくなったり、と症状は極めて厄介。札幌生まれ札幌育ちなのに情けないのですが、この病気を41歳で患い何度も再発を繰り返してから、寒い時期(10月から5月ぐらいまで)の帰省は長い間控えていたのです。
が、昨年母が体調を崩したため、恐る恐る一泊二日で帰省。この自己免疫疾患が再燃しなかったために、自信をつけました。健康を害してから実感したのですが、緊急の出来事に対応することは、健康な体でなければ出来ません。1カ月後の友人とのランチは、その日を目掛けて体調を整えれば良いのですが、葬儀への参列や家族の看病などは、健康な体であってこそ。ずいぶん時間がかかりましたが、今、私は緊急時にも対応できるようになったのです。
さて、昨年に続いての真冬の札幌帰省。冬の札幌と言えば雪。札幌市民にとっては、連日の雪かきという苦行があるため雪はロマンチックではありませんが、年1度しか雪が降らない土地に住む人間、特に子供にとって、雪は憧れです。
千歳空港に飛行機が着陸したとき、窓から一面の雪を見た息子は大はしゃぎです。札幌市内行きのバスの中でも、ずっと窓から雪を眺めています。そして、実家に着いた途端、「ママ、外で遊んでくる」と言い、電話で娘に聞きます。「おねえねえ、雪だるまどうやって作るの?」。
受話器から聞こえる姉の説明を聞いた息子が私に説明します。「ママ、雪だるまはね、雪の玉を作って、その周りを雪で固めるんだって」。娘は年に1、2度の東京の雪でも、雪だるま作りを習得しています。ましてや、雪国生まれの私にとって、雪だるま作りなどお手の物。でも、やっぱり寒い。体調が悪くなったら困るし・・・と心の中で葛藤し、私はまた、我が子を1人で庭に送り出すのでした。
実家の庭は、降ったばかりのパウダースノーに覆われています。私は灯油ストーブで温められた家の中から、雪だるま作りをする息子の姿を眺めました。どうも、うまくいかないようです。「ママ、雪だるまが作れない」という声が聞こえます。私は意を決し、防寒対策をしっかりとして、庭に出ていきました。そして、息子と一緒に小さな雪だるまを作りました。本当に久しぶりに触った、札幌の雪は、粉砂糖のようにさらさらして、キラキラして、きれいでした。
冬の札幌で遊んでも大丈夫なんだー。愛しい息子と雪を転がしながら、私はほんわかとした幸福感に浸りました。
2016年1月23日土曜日
竹田圭吾さんの死
私は新聞記者の仕事を離れて、12年になります。が、今でも気になる新聞記事や雑誌の記事を切り抜き、手帳に貼っています。今年最初に手帳に貼った記事は、小さな死亡記事でした。10日にすい臓がんで亡くなったジャーナリストの竹田圭吾さんの記事です。竹田さんは私と同い年の51歳。仕事に情熱を燃やし、養うべき家族もいるであろう51歳のがん患者の死は、私にとって他人事ではありませんでした。
私が竹田さんを朝のテレビ番組で頻繁に見ていたのは、もう何年も前のことです。端正な顔立ちと低く落ち着いた声が魅力的な人で、冷静で鋭い切り口のコメントに共感することが多かった。その後、すっかりテレビを見なくなり、久しぶりに竹田さんを見たのが、昨年です。ずいぶん年を取られたな、というのが印象でした。そのときはがんを患っていらっしゃることは知りませんでした。ですので、すい臓がんだったと死亡記事で知ったとき、あのやせ方と老け方は、抗がん剤治療によるものだったのだと納得がいきました。
週刊文春1月21日号によると、竹田さんは2013年末にがんの手術を受けられ、昨年の9月には抗がん剤の副作用が強く出始めて、歩くこともままならない体調になったということです。インターネットで検索をすると、竹田さんには奥様と複数のお子さんがいらっしゃるようです。
すい臓がんは、最も治療が難しいがんだと言われています。全国がん(成人病)センター協議会の部位別生存率を見ますと、すい臓がんは5年生存率が9.2%、10年生存率は4.9%と一番低い。私は医療の専門的なことは分かりませんが、患者として何度もがん専門病院に入院していると、すい臓がん患者の治療が難しいことは分かります。肺がん、胃がん、子宮がん、乳がん、骨肉腫、肉腫、白血病・・・、様々ながん患者と同室になりましたが、すい臓がん患者の病状は、恐ろしいほど速く悪化していくのです。
私が最初に国立がんセンター中央病院(現・国立がん研究センター中央病院)に入院したのは、38歳のときです。診断は悪性リンパ腫のⅣ期(一番重い)でした。同室の女性は60歳代の女性Kさん。Kさんはすい臓がんで、手術は出来ないと言われていました。入院して最初のころはスタスタと歩いていましたが、間もなく、ご飯が食べられなくなり、チューブで栄養を取るようになりました。抗がん剤も効きませんでした。日中、何度も嘔吐するようになり、間もなく、起き上がれなくなりました。そして、そのころには、医師にホスピスを勧められていました。その間数週間。私も痛みがあり抗がん剤治療への不安もありましたが、Kさんの病状は私のとは比較にならないほど、重かった。
竹田さんの死で思い出したもう1人のがん患者は、次の入院のときに同室になったOさんでした。Oさんは私と同じ悪性リンパ腫で何度も再発を繰り返し、最後は、造血管細胞移植という治療を行いました。治療後のOさんは、骨と皮だけになったようにお痩せになり、10歳以上はお年を召されたようでした。大量の抗がん剤投与を伴う造血管細胞移植のすさまじさを目の当たりにし、私自身もずいぶん気落ちしました。その後、私が2度目の再発をしたときにこの治療を主治医に勧められましたが、拒否したのはOさんの記憶が生々しかったためです。
竹田さんについて調べているうちに、竹田さんがコメンテーターをしていた番組の特集を見ることが出来ました。竹田さんは亡くなる直前まで仕事をされていて、とてもお痩せになり、杖をついてやっと歩いていらっしゃいました。最後までジャーナリストとしての仕事をし続けた竹田さんの姿は立派でした。あの姿に胸打たれた人は多かったと思います。出演者の方も涙を流していました。
が、私は泣きませんでした。5歳も10歳も年を取って見え、カツラを被り、やせ細り、杖をついて歩く彼の姿に、思わず、自分の将来を重ね合わせて見たからです。そう見た、がん患者も少なからずいたのではないでしょうか?私は慌てて浮かび上がる不安をかき消しました。竹田さんのご冥福を心から祈りながら、私は3度目の再発はしないぞ、まだまだ死なないぞと心に誓いました。
。
私が竹田さんを朝のテレビ番組で頻繁に見ていたのは、もう何年も前のことです。端正な顔立ちと低く落ち着いた声が魅力的な人で、冷静で鋭い切り口のコメントに共感することが多かった。その後、すっかりテレビを見なくなり、久しぶりに竹田さんを見たのが、昨年です。ずいぶん年を取られたな、というのが印象でした。そのときはがんを患っていらっしゃることは知りませんでした。ですので、すい臓がんだったと死亡記事で知ったとき、あのやせ方と老け方は、抗がん剤治療によるものだったのだと納得がいきました。
週刊文春1月21日号によると、竹田さんは2013年末にがんの手術を受けられ、昨年の9月には抗がん剤の副作用が強く出始めて、歩くこともままならない体調になったということです。インターネットで検索をすると、竹田さんには奥様と複数のお子さんがいらっしゃるようです。
すい臓がんは、最も治療が難しいがんだと言われています。全国がん(成人病)センター協議会の部位別生存率を見ますと、すい臓がんは5年生存率が9.2%、10年生存率は4.9%と一番低い。私は医療の専門的なことは分かりませんが、患者として何度もがん専門病院に入院していると、すい臓がん患者の治療が難しいことは分かります。肺がん、胃がん、子宮がん、乳がん、骨肉腫、肉腫、白血病・・・、様々ながん患者と同室になりましたが、すい臓がん患者の病状は、恐ろしいほど速く悪化していくのです。
私が最初に国立がんセンター中央病院(現・国立がん研究センター中央病院)に入院したのは、38歳のときです。診断は悪性リンパ腫のⅣ期(一番重い)でした。同室の女性は60歳代の女性Kさん。Kさんはすい臓がんで、手術は出来ないと言われていました。入院して最初のころはスタスタと歩いていましたが、間もなく、ご飯が食べられなくなり、チューブで栄養を取るようになりました。抗がん剤も効きませんでした。日中、何度も嘔吐するようになり、間もなく、起き上がれなくなりました。そして、そのころには、医師にホスピスを勧められていました。その間数週間。私も痛みがあり抗がん剤治療への不安もありましたが、Kさんの病状は私のとは比較にならないほど、重かった。
竹田さんの死で思い出したもう1人のがん患者は、次の入院のときに同室になったOさんでした。Oさんは私と同じ悪性リンパ腫で何度も再発を繰り返し、最後は、造血管細胞移植という治療を行いました。治療後のOさんは、骨と皮だけになったようにお痩せになり、10歳以上はお年を召されたようでした。大量の抗がん剤投与を伴う造血管細胞移植のすさまじさを目の当たりにし、私自身もずいぶん気落ちしました。その後、私が2度目の再発をしたときにこの治療を主治医に勧められましたが、拒否したのはOさんの記憶が生々しかったためです。
竹田さんについて調べているうちに、竹田さんがコメンテーターをしていた番組の特集を見ることが出来ました。竹田さんは亡くなる直前まで仕事をされていて、とてもお痩せになり、杖をついてやっと歩いていらっしゃいました。最後までジャーナリストとしての仕事をし続けた竹田さんの姿は立派でした。あの姿に胸打たれた人は多かったと思います。出演者の方も涙を流していました。
が、私は泣きませんでした。5歳も10歳も年を取って見え、カツラを被り、やせ細り、杖をついて歩く彼の姿に、思わず、自分の将来を重ね合わせて見たからです。そう見た、がん患者も少なからずいたのではないでしょうか?私は慌てて浮かび上がる不安をかき消しました。竹田さんのご冥福を心から祈りながら、私は3度目の再発はしないぞ、まだまだ死なないぞと心に誓いました。
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2016年1月21日木曜日
夫とランチ
「ランチ、ご馳走してくれる?」 。娘の学校の保護者会の帰り、夫にメールをしました。学校から3駅のところに夫の会社があるので、学校に用事があるときは、時々一緒に昼食を取ります。今回は、「一緒にランチしない?」といういつもの言い方ではなく、謙虚な言い方で誘ってみました。すると、夫からは「もちろんだよ。何時にこっちに来られる?」と機嫌の良さそうな返信がありました。
夫の職場の近くで待ち合わせました。が、メールの返信とは違って何となく沈んだ様子です。日本で開かれる予定だった会社の会議が、キャンセルになったというのです。話を良く聞くと、夫が沈んでいるのは、会議がキャンセルになった理由でした。
主要メンバーのアメリカ人2人の子供が相次いで亡くなったため、会議そのものがキャンセルになったそうです。
「亡くなった理由は?」
「1人が自殺。もう1人が薬物」
「そう・・・」
「2人とも僕より少し上の、50歳前後かなぁ。だから、子供はたぶん高校生とか大学生ぐらいだと思う。2人とも、世界各国を飛び回っていて、すごく成功しているんだ。もちろん、たくさん稼いでいる。でも、いくら成功しても、たくさん稼いでも、子供が死んでしまったら、何の意味もない」
「自殺も薬物も、子供たちが何かしらのサインを出していた可能性は高いよね」
「うん。忙しすぎて、そのサインに気が付かなかったのかもしれない」
「自殺は防げたかどうか分からないけど、薬物依存は初期に気付いて対処すれば、死ななくてすんだかもしれないね」
「うん」
ランチはいつもより、話が弾みませんでした。レストランから会社に向って歩きながら、夫は、「このことを知らせてくれたイギリス人も、ちょうど同年代なんだ。彼の声も暗かった。自分の身に置き換えて、考えていたと思う。僕は、子供たちと出来るだけ一緒に過ごすようにしているつもりだけど、もっと努力すべきかもしれない」。
「大丈夫よ。十分やっているから」。自分の口から出たそんな励ましも、何となく薄っぺらに聞こえました。でも、それ以外、言いようがありませんでした。
夫の職場の近くで待ち合わせました。が、メールの返信とは違って何となく沈んだ様子です。日本で開かれる予定だった会社の会議が、キャンセルになったというのです。話を良く聞くと、夫が沈んでいるのは、会議がキャンセルになった理由でした。
主要メンバーのアメリカ人2人の子供が相次いで亡くなったため、会議そのものがキャンセルになったそうです。
「亡くなった理由は?」
「1人が自殺。もう1人が薬物」
「そう・・・」
「2人とも僕より少し上の、50歳前後かなぁ。だから、子供はたぶん高校生とか大学生ぐらいだと思う。2人とも、世界各国を飛び回っていて、すごく成功しているんだ。もちろん、たくさん稼いでいる。でも、いくら成功しても、たくさん稼いでも、子供が死んでしまったら、何の意味もない」
「自殺も薬物も、子供たちが何かしらのサインを出していた可能性は高いよね」
「うん。忙しすぎて、そのサインに気が付かなかったのかもしれない」
「自殺は防げたかどうか分からないけど、薬物依存は初期に気付いて対処すれば、死ななくてすんだかもしれないね」
「うん」
ランチはいつもより、話が弾みませんでした。レストランから会社に向って歩きながら、夫は、「このことを知らせてくれたイギリス人も、ちょうど同年代なんだ。彼の声も暗かった。自分の身に置き換えて、考えていたと思う。僕は、子供たちと出来るだけ一緒に過ごすようにしているつもりだけど、もっと努力すべきかもしれない」。
「大丈夫よ。十分やっているから」。自分の口から出たそんな励ましも、何となく薄っぺらに聞こえました。でも、それ以外、言いようがありませんでした。
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