2025年1月12日日曜日

大学の相談所へ

  私は現在、博士課程3年目です。医学系の研究科なので、修了に必要な規定年数は4年。ですので、来年度が最終学年となり、順調にいけば博士論文を提出します。

 あと2カ月で3年目も終わりますが、博士課程でのこの3年間は、辛いことが多かった。考え方を変える、視点を変える、などして「辛い」という受け止めを変えるよう努力をしてきましたが、定期的に「もう精神的に限界かもしれない」というときがあります。現在抱える問題とは別の問題が重なるときです。別の問題はそれだけを見ると対処可能に見えますが、積み重なっている頭と心の疲労にそれが加わると、頭と心がシャットダウンしそうになるのです。

 その状態は、治療などでギリギリまで持ち堪えますが、それ以上の苦痛になると「もうこれ以上は無理」と病と闘う気力が一気になくなり、「もういい」と諦めてしまう感覚に似ています。

 昨年12月もそうでした。「もう、限界かもしれない」と思うときがありました。気持ちが塞ぎ、どうにもできないときは、札幌の親友に電話をし話を聞いてもらいますが、そのときは私にとっての最後の砦である、親友に電話をすることが出来なかった。だから、スーツケースにとりあえずの荷物を詰め、ホテルを予約しました。

 今、振り返ると荷物をまとめホテルを予約するというアクションが取れていますので、本当の意味での限界ではなかったのですが、それ以上耐えるとベッドから起き上がれなかったり普段できていることが急にできなくなるかもしれないーという危機感というか恐怖心を抱いた。だから、今いる環境から離れようと考えたのです。娘は大学生、息子は中1で自分のことは自分で出来る年齢ですので、まずは子どもについての心配はないと判断しました。

 そこに至るまで、当然、本も毎日読んでいます。何らかのヒントを得るために、精神科医の本、僧侶の本、ビジネス書、小説などベッドの横に常に10冊ぐらい積み、携帯電話にはkindleのアプリを入れて、読んでいます。運動をして気分転換もしています。子どもたちと過ごし頭の中から問題を追い出します。でも、やはり、それらを終えるとまたむくむくと頭の中が抱えている問題でいっぱいになる。

 突破口が見いだせず、さらに自分を何とかなだめすかして問題をやり過ごすために用いる考え方「ネガティブ・ケイパビリティ(どうにも答えの出ない、対処しようのない問題に耐える能力・イギリスの詩人ジョン・キーツがその概念を作り、イギリス人の精神科医が臨床心理の場で広めたとされる)」で耐え抜くにも限界があるーと考えてしまうと、自分自身がシャットダウンするかもしれないーという予感がするのです。

 ”家出”を取りやめ、精神的な危機を脱し、何とか持ち堪えようという状態までに心が落ち着いたところで、ふと、人に相談することをもう一度してみようと思い立ちました。私の問題は小さなころの家庭問題、その後の病気、出産にまつわること、そして博士課程での問題と、それぞれを独立させて受け止めるもしくは解決するべき問題が実は絡み合っていることをある時点で認識しましたので、それからは心許す人に話はしますが、意見を求めるなど相談はしないようにしています。

 でも、別の視点がほしくなりました。問題を解決するための助言ではなく、その問題を別の視点で見る、別の観点で捉えたほうが良いと思いました。私は読書によりたくさんのことを学びましたが、やはり自分が選ぶ本・もしくは書評で選ばれた本・識者が勧める本では限界があるのではと思い至ったのです。

 まずは、先月で退職し、海外の研究所に行った研究員に年末に相談しました。彼女は外国人なので別の視点から見てもらえると期待しました。彼女からは「研究室は狭い世界なので、大学に行ったほうが良い」と勧められました。大学は若い学生たちがたくさんいて、エネルギーを感じられる。パソコンを持って行き、論文は図書館で書くなど試したらどうか、と。そして、大学の相談所のカウンセラーと話をすることを勧められました。そこでは学業や人間関係に関する相談を受け付けるそうなのです。

 先週の金曜日(1月10日)にその相談所の予約を入れました。大学に行くのは数カ月ぶりで、すがすがしい気持ちでキャンパス内を歩きました。相談所はキャンパスの奥まったところにありました。カウンセラーは40代ぐらいの経験を積んでいそうな女性。約1時間話をしました。自分はかなりメンタルが強いほうだと思いますが、過去を振り返り、思わず涙がこぼれてしまった場面もありました。これから、2週間に1度30分間、カウンセリングをしてもらうことにしました。

大学の相談所の入り口

 問題を解決していくのは自分で、問題を解決する方法を考えるのも自分です。でも、別の視点で捉えてみたら、こんな方法もあるのだーという気付きがほしい。私は以前、がん患者専門のベテラン精神科医に8回のカウンセリングを受け、「先生には私の問題を理解していただけなかった。ですので、自分で何とか生きていきます」と啖呵を切って診察室を出たほどの面倒な人間です。

 ですので、大学の相談所のカウンセラーの方との対話で、自分の問題が解決できるかどうかは分かりません。でも、話を聞いてもらうことに遠慮はいらないと思いました。友人の貴重な時間を使ってしまうこととは違います。カウンセラーの方は給料が支払われる仕事として私に向き合い、大学側も学生たちのメンタルのサポートをするために予算を配分している。私は大学に授業料を払っています。国立ですので税金も投入されている。ですので、ここは遠慮なく、話を聞いてもらうことにしました。

 久しぶりの大学のキャンパスで見上げた空は青く澄んでいて、気持ちが晴れました。学食で学生たちに交じって、お昼ご飯を食べました。大盛りのご飯の上にキャベツの千切りが載り、その上に鶏の唐揚げが載り、たれとマヨネーズがたっぷりとかかっている、若者用のカロリー高めな丼ものです。ワカメとお豆腐のお味噌汁も付けました。食後はコーヒーを買い、ベンチに座って飲み、図書館に向かいました。

学食で食べた昼食

相談所から図書館に向かう間にある安田講堂。近くのベンチでコーヒーを飲みました

 図書館の机でパソコンと資料を広げ、作業をしました。珍しく、眠気を感じ、気が付いたら、机に突っ伏して寝ていました。オバサンが医学図書館で、若い精鋭たちに交じって、机に座り、パソコンのキーボードを打っているうちに、途中で机に突っ伏して寝だしたー。そんな滑稽な自分に、心の中で苦笑した私でした。

 

2025年1月11日土曜日

メルボルン滞在記 ⑤オーストラリア警察はすごい

  メルボルン滞在5日目(12月29日)は、娘がお世話になっている現地在住のIさんとパートナーのNさんとビクトリア州立王立植物園に行きました。前日もご自宅で食事をご馳走になり、メルボルンの名所をぜひ案内したいとお誘いいただいたのです。

 お二人は60代で、12年前に知り合い、一緒に暮ら始めたそうです。Iさんは娘と同じ大学の大学院をアート専攻で修了したアーティストで、Nさんは建築家。Iさんは大の日本びいきで、夫の友人の従姉妹というご縁で、親しくさせていただき、我が家にも昨年、夫の友人ご夫婦とIさんNさん4人で遊びに来てくださいました。

 また、娘をメルボルン内の美術館や博物館に連れていってくださったり、ご飯をご馳走してくださったりと、とても親切なカップルなのです。

 Iさんはとても知的な女性で、NさんはIさんを心から尊重している感じが傍から見ていても伝わります。Nさんは、私が抱いているオーストラリア人男性のイメージ通りの人です。おおらかで、いつもリラックスしていて、仕事とプライベートのメリハリが出来ている、人生を楽しんでいるタイプ。

 Iさんの語りを、Nさんはいつもにこにこしながら聞いています。大人の素敵なカップルだなぁと思います。そのお二人とお話しながら、植物園をのんびりと散歩しました。Iさんが持参してくれた美味しいパンを園内の芝生の上に座っていただきながら、Iさんの日本移住計画を伺いました。60代で他国に移住する計画を進めているなんて、素敵だなぁと思いました。

ビクトリア州王立植物園

美しいハスの花

あまりに美しいのでハスの花をアップで撮影

 

太い木の幹に触れる息子

 私は日本が大好きですが、もし、機会があるなら、のんびりとしたオーストラリアに住んでみたい。私の場合は、既往症が多過ぎ、日本以外の国の医療保険ではカバーしきれないと言われているため、夢のまた夢ですが…。

 IさんNさんとお別れした後、中心街に行き、衣料品を安価で購入できる「Kマート」という店に行き、夫と娘の服や靴を買いました。2人とも背が高く、手足も長く、足のサイズも大きいので、日本では衣料品はなかなか探せないのです。

 買い物が終わり、店を出て、ホテルに帰ろうとしたときに、娘がハンドバッグをKマートに忘れたことに気付きました。戻って探しましたが、どこにもありません。たまたま、夫の携帯電話に娘と息子の携帯電話を追跡するアプリをインストールしていたため、それで探そうと考えましたが、娘は日本のSIMカードを外していましたので、追跡できません。  

 そのとき、夫が、娘のiPod(イヤフォン)も登録していたことを思い出しました。で、それを鳴らしてみました。追跡できたらしく、Kマート内にあることが分かりました。夫の携帯電話の画面を見ながら、Kマート内でそのアプリの画面が示す場所を探しましたが、ありません。そうこうするうちに、画面が示す場所が店外に移動しました。我々もそちらのほうに行きましたが、もうどうしようもありません。諦めて、警察に届けることにしました。

 さっそく、街中にある警察へ。担当の若い警察官は娘と夫にたくさん質問をし、詳細をメモをした後、「すぐに、Kマートに連絡して、探します。見つかったかどうかはお父さんのメールに連絡します。帰国された後にも連絡できるよう、こちらにお知り合いがいらっしゃっいましたら、連絡先を教えてください」と言います。夫がIさんに連絡して了解を得て、Iさんのメールアドレスをお伝えしました。

 警察官は申し訳なさそうな表情で「せっかく旅行に来てくださったのに、残念です。でも、残りの日を楽しんでください」と言ってくれました。親切な警察官でした。

 ホテルに帰り、気を取り直して夕食を作りました。そのとき、夫の携帯電話に「ハンドバッグが見つかりました。KマートのInformation に行ってください」との連絡が。夕食を食べ終えて、駅前で警察官にお礼に差し上げるドーナツを買い、Kマートへ。

 娘のハンドバッグはトイレで見つかり、携帯電話は店の入り口で見つかったとのこと。娘のハンドバッグを見つけた人の行動はいろいろ推測できましたが、とにかく、すべて戻ってきて何よりでした。迅速に対応してくれたオーストラリア警察に本当に感謝です。

 ドーナツを持って、警察に行きました。担当してくれた警察官は窓口にはいませんでしたが、まだ署内にいるようで、窓口の方が呼びに行ってくれました。

 警察官が出てきてました。真面目な表情で、「なくなったものはありましたか?」と聞き、娘が「全部戻りました。ありがとうございます」とお礼を言うと、「良かったです」と一言。娘が「これ、ドーナツです。召し上がってください」と差し上げると、警察官は「いいえ」と最初は断りましたが、「娘がお礼をしたいとお小遣いで買ったんです」と私が説明すると、はにかみながら受け取ってくれました。

メルボルンの警察署

警察署内の窓口

  迅速に、誠実に対応してくれたオーストラリアの警察には、本当に感動しました。今回の件で、私たちはさらに、オーストラリアを好きになったのでした。

娘のハンドバッグが戻ったのでワインで乾杯。スナックはツアーで行ったチーズ工場で買ったカマンベールチーズとクラッカー、ホテル近くのスーパーで買ったマンゴーとネクタリン

ワイナリーで買ったピノ・ノワールをあけました


2025年1月10日金曜日

おねぇねぇはアーティストだから

  昨日から、息子のお弁当作りが再開しました。私の日々の楽しみの一つなので、素直に嬉しい。夫も出勤だったため、張り切って家族全員のお弁当を作りました。


 今週は月、火と研究室に行き、水木と家で論文を書いていました。家にいるとやるべき家事が限りなくあるので、なかなか集中できませんが、娘と一緒にいられます。昨日はお天気も良かったので、近くの公園で娘と一緒にお弁当を食べようと計画しました。

 でも、我が娘は毎日、お昼近く(時にはお昼過ぎ)まで寝ています。娘は寝るのが大好きで、寝る子は育つということわざがあるように、身長がぐんぐん伸びました。でも、もう成人なので本来なら注意すべきなのでしょうが、娘の場合、なぜか注意をするのがためらわれるんです。娘が小さいころからそうでした。息子はいつも、「もう起きなさい!」「歯磨きなさい!」とうるさく注意するのですが。

 娘に注意することがためらわれ、息子には当たり前のように注意するのは、おそらく息子はあらゆる面で普通で、娘は感覚が少し普通とは違うからだと思います。たとえば、娘は注意したときの反応が普通ではないので、こちら側が注意する気がそがれるのです。というより、ここで注意をしなくてもいいのではないか?と逆にためらってしまう場面が多々ある。

 たとえば、2017年のブログ。このころ、すでに私は娘の躾について考えを巡らせています。https://ar50-mom.blogspot.com/2017/10/blog-post_29.html

 昨日もこんな反応です。

「もう10時だよ、起きてね。起きて、カーテン開けてね。毎日少しずつでもいいから部屋を片付けよう」

「ママ、いま私、とっても素敵な夢を見ていたの。もう少し寝ててもいいかな?」

 不機嫌そうに「分かった」とか言われれば(息子のように)、「さっきから分かったって言っているけど、起きてないでしょ」とか言えますよね。「休みぐらい寝かせて」とか言われると、「毎日休みでしょ。休みでも朝はきちんと起きたほうが生活のリズムが出来るんだよ」とか言い聞かせられますよね。

 娘のような反応をされると、素敵な夢を見ている娘を、起こすのはどうかな? と逆に自分自身に問いかけてしまうのです。以前も、「寝てばっかりいないで…」と注意したら、真顔で、「ママ、私は遊び歩いて親に心配かけるわけでもないし、悪いこともしていないんだよ。誰にも迷惑かけず、自分の部屋で、ただ幸せに寝ているだけなんだけど」と静かに反論されてしまいました。

 すると、そうだよね、出かけて夜遅くて親に心配をかけるわけでもなく、自分の部屋で娘が幸せに寝ている。お腹が空いたり、十分寝たら、起きてくる。だったら注意しなくても…と思わされる。

 一方で、母親としての心配もあります。たとえば、思い出すのは、遠い昔の従兄弟のYちゃんとの会話です。当時、Yちゃんは年下の可愛らしい女性と付き合っていました。Yちゃんによると、アパートにその子が泊まりに来て、Yちゃんが朝出勤して夕方帰宅すると、その子がまだパジャマ姿でいた。あまりのだらしなさに幻滅し、それが別れる理由になったという話。

 当時は、「そうだよなぁ、夕方までパジャマ姿でいるなんて、ちょっと…」とYちゃんに共感しました。でも、でも、我が娘だって、さすがに夕方まではパジャマ姿ではいませんが、午後までなら、頻繁にあります。娘に好きな人が出来て、その人のアパートに泊まりに行って、午後まで寝ていて幻滅されたら…。だったら、今のうちに母親の私がきちんと躾けたほうがいい。

 私はこうして、日々逡巡するのです。こんな悩みに息子が、ストレートな表現で考え方を提示してくれました。

「おねぇねぇはアーティストだから。ほらっ、アーティストって変わっている人多いっていうじゃん」

 おねぇねぇがお昼近くまで寝ていても許されるけど、自分はなぜか起こされてしまう。おねぇねぇはずっとアニメを見ていても許されるけど、自分はずっとゲームをしていると叱られる…。息子としては理不尽と感じているかもしれませんが、一方で「姉はアーティストだから、違うんだ」と受け止めている。おもしろいなぁと思いました。確かに、娘の絵とヴァイオリンの才能は、家族の欲目かもしれませんが、家族全員が認めています。

 さて、昨日は午前11時半ごろ、「お天気がいいから、公園でお弁当食べよう!もう11時半だから、起きたら?」という声掛けで、ようやく娘が起きました。ベッドからむくっと起きた娘は、「うっ、ふぅ~」とうぐいすのような声で第一声を出し、「おはよう、ママ」とご機嫌です。

 私は娘のこのうぐいすのような声が大好き。その声を聞くと、気持ちが明るくなります。こうして、親を明るい気分にしてくれる娘ですので、毎日、昼過ぎまで寝ていることぐらい、良しとしようと思ってしまいます。

 支度をして、お弁当とお茶を持って、近くの公園に行きました。娘は「お天気が良くて気持ちいいね」とにこにこと幸せそうでした。その楽しいひとときを味わうと、まぁ、いいかと、朝の私の心配はどこかに吹き飛んでしまったのでした。

 


2025年1月9日木曜日

制服の裾伸ばし

  昨日、中1の息子の学校が始まりました。昨日からは裾を伸ばしたズボンをはいて行ったので、足元が寒くなることなく、過ごせたようです。

 昨春の入学時に購入したズボンが短くなり始めたのは夏。夏休みに近所のお直し屋さんに持っていって裾伸ばしをしていただこうと思っていたのですが、連日部活動があり断念。秋はズボンが短いまま、学校に行ってもらいました。

 そして、冬になり、「ママ、足が寒いんだけど…。立っているときはいいけど、座るとズボンが上がってすごく寒いんだ」と息子。

「冬休み中にお直ししてもらうから、終業式の日はちゃんと帰ってきてね。次の日から旅行だし、お正月はお直し屋さんが休みだから、終業式の日しか持っていく日がないからね」

 息子の学校の終業式は12月23日。翌日の24日は成田発メルボルン行きの飛行機に乗るため午後早い時間に家を出る予定でしたので、23日の午後にお直し屋さんに持っていくことにしていました。

 ところが、念を押したにもかかわらず、午前中に終業式が終わり午後に帰宅するはずの息子は「友だちと昼ご飯食べるから」とメッセージを送ってきて、帰宅したのは夜6時過ぎ。24日午前は家族全員が荷物詰めに忙しく、裾伸ばしのことはすっかり頭から消えていました。

 旅行を終えて帰国し、お正月を迎え、裾伸ばしのことを思い出しました。さてどうするかと考え、自分ですることにしました。実は私、縫い物は得意なほう。いろいろ縫いたくて布などを買ってきていましたが、縫う時間が作れず今に至ります。で、この際、必要に迫られてではありますが、お裁縫の機会を楽しむことにしました。

 さて、お正月三が日をお正月らしく過ごすと、「To Do List」が一杯になります。たとえば、義母に誕生日プレゼントを贈るとか(内容を記述した送付状を作って印刷するなど時間がかかる)、息子の定期券を買うとか、各種振り込みとか…。そして、研究論文の執筆を再開しなければなりません(あぁ、気が重い…)。このブログだって書きたい。6日からは研究室通いが再開します。

 で、ズボンの裾伸ばしを1回でやろうとすると他にやるべきことの時間を使わなければなりませんので、2回に分けてすることにしました。8日水曜日が始業式ですので逆算して、余裕を持って7日朝にはクリーニングを終えた状態にしたい。そうするとクリーニング屋さんに取りに行くのは6日夜。ですので、持っていくのは5日日曜日。で、5日の午前中にまつり縫いを終える計画を立てました。

 ということで、4日の夜、まずは裾のまつり縫いを取ることにしました。ズボンの裏を見ると、後側の下のほうに縦1㌢、横8㌢ほどの布が縫ってあります。恐らく、かかとで踏んで布地が擦り減るのを防ぐ目的なのだと思います。それを、丁寧に外します。

 次にまつり縫いを外します。まつり縫いの糸を外すときは、ロックミシン(裁ち目をかがるミシン)の糸と間違えないように注意が必要。こちらも丁寧に外します。これらにかかった時間は1時間。

 翌朝は気持ちの良い作業です。まずは裾上げの部分にアイロンをかけます。ギリギリまで伸ばします。そして、まつり縫いを始めます(まち針でとめるのを省略したら曲がってしまったので、途中からまち針を刺しました)。縫い終わったら、まち針を外し、アイロンをかけて終了。ここまでの作業で1時間。裾を8㌢伸ばすことが出来ました。


 息子さんが違う中学校に通うママ友に聞くと、その息子さんの制服のズボンの裾上げ部分は15㌢ぐらいあるそう。息子のはそれほど長くなく、8㌢しか伸ばせませんでした。息子の背はぐんぐん伸びていますので、3学期をこのズボンで過ごすぐらいで精一杯でしょう。2年生になるときに新しいズボンを買うことにしました。

 息子にはいてもらうと、ちょうど良い長さでした。息子に褒めてほしくて、「ねぇねぇ、ママ、ちゃんとお母さんしてる?」と聞くと、「うん、してるよ。ありがとう」と褒めてくれました。満足して、クリーニング屋さんに持っていったのでした。

 昨日朝、制服を着た息子を送り出しました。これまではズボンが短くて格好悪く、母親として後ろめたい気持ちだったのですが、昨日は「いってらっしゃい!」と気分良く息子を送り出せたのでした。

 

2025年1月8日水曜日

メルボルン滞在記 ④アボリジニ文化センターへ

  メルボルン滞在4日目(12月28日)はメルボルン博物館のバンジラカ・アボリジニ文化センターに行きました。オーストラリアの先住民族アボリジニについて学ぶのは今回の旅行の目的の一つでもありました。

メルボルン博物館内のバンジラカ・アボリジニ文化センター入口。アボリジニの言葉で「ようこそ」という文字が書かれている

アボリジニのアート作品

 アボリジニは700を超える部族があったと言われ、それぞれが独自の言語を話していたそうです。文字を持たないため、部族に伝わる掟や様々な知恵を岩壁に描いたり、物語にして語り継いできたそうです。自然に畏敬の念を持ち、調和しながら生きており、北海道に住む北方先住民族のアイヌに似ています。

 アボリジニの人々は、イギリスの植民地時代に虐殺され、居住地を追われ、オーストラリアが独立した後も迫害され続けました。アボリジニの子どもや白人との混血児は親から隔離され、民族としてのアイデンティティを喪失させる政策も長い間取られました。

 アボリジニの市民権がようやく認められたのは1967年。オーストラリア政府がアボリジニに正式に謝罪したのは2008年です。娘が生まれた4年後で、いかにアボリジニの人々の闘いの歴史が長かったかを痛感します。

 今回、メルボルンを訪れて強く感じのは、国を挙げてアボリジニに敬意を表し、その固有の文化を守り、植民地時代から続く負の歴史も後世に伝えていこうとしていることでした。娘によると、大学の講義が始まる前には毎回、先生たちが「自分たちは今、先住民族アボリジニが住んでいた土地を使わせていただいている」という趣旨の言葉を言い、アボリジニの人々に感謝の意を表するそうです。

 また、娘が通う芸術・音楽の学部のキャンパスのあちこちに、大きな半円形のオブジェがあるのですが、これはこの土地にキャンパスを建てるときに掘った土を処分したり他の土地に運ばず、この地に置いたままにするためにオブジェの中に土を入れることにしたからだそうです。大学の入り口には「Welcome」(ようこそ)という文字の横にアボリジニの言葉「Wominjeka」が併記されています。

 メルボルンの街では、中心街に建つ壁にアボリジニのアートが描かれていたり、アボリジニの人々の肖像画が描かれている壁もありました。訪れたワイナリーではアボリジニのアーティストによる絵が飾られていました。

 今回、バンジラカ・アボリジニ文化センターで歴史を学んだ後、ギフトショップで義父母にアボリジニのアーティストが作った美しいカトラリーと木製の皿、母と私たちの家にもお皿を買いました。私たちはアボリジニの歴史・文化について学び始めたばかりですが、小さな工芸品を普段の生活で使うことで学びを深めるきっかけになればと考えています。

メルボルン博物館の入り口近くのモニュメント。この日は空が綺麗でした

メルボルン博物館の横に建つ王立展示館とカールトン庭園。世界遺産に登録されている


メルボルン博物館のギフトセンターで買ったアボリジニのアーティストが作った皿。一枚一枚に作家の写真とデザインの意味などが書かたカードが添えられている




2025年1月7日火曜日

松の内最終日に思う

  今日は松の内の最終日。玄関の締め飾りを外しました。昨日は研究所の方々に新年のご挨拶かたがた、オーストラリア土産のコアラやカンガルーをかたどったチョコを配りました。指導教員にも笑顔で渡すことができました。

 昨日の朝は、その指導教員と笑いながら雑談する夢を見ました。必要に迫られてではありますが(年に数回)、話しかけるたびに無表情で簡潔な答えしか返ってこないため、せめて笑顔で話してほしいーという願望があり、そうした夢を見たのでしょう。また迷惑そうに受け答えされるかな、それなら新年のご挨拶なんてしないほうがいいかなと逡巡しながらも、勇気を振り絞ってドアをノックし、挨拶できた自分を褒めてあげたい。

 松の内の最終日になると、何となく”今年”が定着したような気持ちになるから不思議です。昨日当たりで、おもちも食べ終わり、夫も会社に行きましたので、今年が本格的に始動した感じがします。

 今、机に座って、目の前に飾ってあるカレンダーを眺めています。室蘭のナオミちゃんから、毎年送っていただいているカレンダーです。このカレンダーは月ごとに室蘭の名所の写真が使われており、折々にその写真を眺めては、室蘭を懐かしく思い出しています。

室蘭の名所の写真が掲載されているカレンダー。下にあるのは30年以上も前、室蘭の若手職人グループ「室蘭手わざ」が作った文鎮

  昨年、軽井沢の家の屋根裏をリフォームして本棚を作り、大学時代や新聞記者時代のアルバムをようやく整理することが出来ました。2冊は初任地室蘭時代の写真で、そこには20代の私と40代の先輩ヤマモトさんが、職場の仲間と一緒に笑顔で写っていました。ヤマモトさんとはここ10年ほど毎年お会いし、一昨年には娘と一緒にお宅に伺い、昨年末には奥様と一緒に我が家に来ていただき、家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。

 今年こそ、思い出がいっぱい詰まった室蘭を訪れ、ナオミちゃんや、今も年賀状のやり取りをさせていただいている当時の室蘭市役所の広報担当キノシタさん、国際交流担当ミタニさん、当時よく通ったイタリアンレストランの共同オーナーマサ子さん、アケミさんにもお会いしたい。

 カレンダーの写真を見ながら、室蘭に思いを馳せるのでした。

2025年1月6日月曜日

寂しい、年賀状じまい

 2025年の元旦に全国で配達した年賀状などの年賀郵便物は約4億9052万枚で、前年より34%減ったそうです。昨秋に郵便料金が大幅に上がった影響だそうで、「年賀状じまい」が加速していると報じていました(1月3日朝日新聞)。

 時代だから仕方ないかなぁと思いつつ、私は年に一回の年賀状のやり取りが好きなので、いただいた年賀状に「今年で年賀状じまいさせていただきます」という添え書きを見ると、とても寂しく思います。

 年賀状を差し上げ、いただく方々は遠方に住んでいる方も多く、機会があったらお会いしたい方ばかりですので、なおさらです。

 実は、昨年年賀状じまいの連絡をいただいていたのに、つい今年も書いてしまったのが、父方の従妹のヒデちゃんでした。ヒデちゃんは70代で、母方の従妹のジュンちゃんと同様、姉のように慕っている人です。そのヒデちゃんとの年賀状のやり取りがなくなると思うと、それは寂しく、ついつい出してしまったのです。

 出した翌日、その事を母に言うと、「失礼だよ。私も年賀状じまいしますと書いたのに、甥っ子から喪中ハガキが来たときは、どうしてだろう?と思ったもの」と言われたので、慌てて、ヒデちゃんに手紙を書いて送りました。私の家族のこと、亡父への思い、これまで長い間年賀状をいただいたことに対しての感謝の気持ちをつづりました。

 31日にオーストラリアから帰国し自宅のポストを見ると、ヒデちゃんから返事が来ていました。私からの手紙をとても喜んでくれ、また、亡父のことも書いてくれました。

「父の兄弟の中でおじさんは一番のハンサムで、出世して、、、。おじさんが帰ってくるとうれしくて、うれしくて、恋人に会う様な気持ちだったんだよ。父もおじさんを一番信頼していたので、弟たちのことを相談したり、お金も出してもらっていたみたい。本当に、大好きなおじさんでした」

 亡父のことを良く知っているヒデちゃんからの優しい手紙は、本当に嬉しかった。

 ヒデちゃんは4人姉妹でしたが、一番上のお姉さんを幼少期に溺死で、2番目のお姉さんを20代、妹を50代でいずれもがんで亡くしています。とても辛い人生でしたが、「今は穏やかに暮らしています。このまま私がダンナさんを送って、私は一人でゆっくりあの世に行こうと思っています」とつづっていました。

 私たちはヒデちゃんの姉妹のほかに、従姉妹を2人亡くしています。2人は私と同い年で、一人は30代で自死、もう一人は40代でがんで亡くなりました。従姉妹たちに不幸が多く、私も30代でがんになったので、ヒデちゃんに「家系に何かあるのかな?」と電話で聞いてみたことがあります。

 ヒデちゃんはお姉さんを亡くした後は、従姉妹の中で一番上でしたので、四国にあった家族代々の墓を仕舞ったそうです。「誰か分からない遺骨もあったの」と語っていたヒデちゃん。その遺骨も含めて供養をしたそうで、大変な仕事だったと思います。 

 ヒデちゃん、今まで本当にありがとう。来年から年賀状は出さないけど、また手紙を書きますね。