2024年10月2日水曜日

娘@メルボルンからの報告 気球

  私の母が娘と連絡が取れないと泣いて訴えてきた”事件” https://ar50-mom.blogspot.com/2024/09/blog-post_12.htmlから、娘とあまり連絡が取れなくなりました。先週は1週間ほど電話がつながらず、ずいぶん心配しました。ようやく週末に電話がつながりました。娘によると、「お天気が悪くて、誰とも話したくなくて、ずっと寮にこもっていた」といいます。

 メルボルンは時差が1時間なので、少し前までは、ダイニングテーブルに携帯電話を垂直に置いて、娘とフェイスタイムでつなげ、一緒(娘は大学の寮で)によく夕ご飯を食べました。そのほかにも、私と夫がそれぞれ娘に電話をし、おしゃべりを楽しんでいました。娘が一緒に暮らしていたときからそうでしたが、娘との会話が家族にとって癒しなのです。

 ですので、娘と連絡が取れなくなると、家族でパニックになります。それぞれが一日何回も電話をし、大変な量の着信になるので、メッセージに切り替えます。が、「心配だから、電話ください」というメッセージの応酬になってしまい、娘ももう読むのも嫌になったよう。こういうときに「我関せず」を貫くのは息子です。私と夫が大騒ぎしていると、息子がしらっ~とした表情で娘に電話をします。すると、娘も、弟からの電話には出るんです。で、安否確認ができる。やっぱり、きょうだいですね。

 ようやく電話につながった娘に聞いてみると、ずっと悩んでいたそう。で、悩んでいる間は人と話をしたくなかったと言います。

「それって、私ってなぜ生きているんだろう?とかいう哲学的な問題? それとも、学校の課題が多いとか絵が描けないとか現実的な問題? それとも、お友達とか恋とかそういう人間関係の問題?」

「うーん、大学卒業後に仕事が見つかるか? アートで食べていけるのか? という現実的な問題」

「そう。大学1年生なのに、もうそういうことで悩むの?」

「うん、この前、学校のフィールドワークで、アート専攻の卒業生たちのお話を聞く機会があったの。で、共通していたのが、職がないとか、生活するだけのお金が稼げないとか、そういう問題だったの。華々しく成功している人はいなかった」

「あぁ、そう」

 娘は夫の知り合いで、娘と同じ大学で同じアート専攻だった女性のお宅に時折伺ってご飯をご馳走になっています。とても有難いのですが、そこでも、思うようにならなかった人生の話になるらしく(同世代の私としては、そういう問題はご自身で解決してもらい、若者には希望を持ってもらうような話をしてほしい)、娘はアートを追求していく希望や夢が少しずつ薄れ、大学を卒業して仕事があるのだろうか?という現実的な悩みになってきているようなのです。

「あなたには才能があるから、今のまま絵を描くことに打ち込んでほしい。でも、アートの他に何か気になること、やってみたいことある?」

「うん、私、子ども好きだから先生になってみたいなぁと思う」

「そう。それなら、欧米の大学ではダブルメジャー(大学で2つの異なる専攻分野を主専攻として学ぶこと)が一般的だから、そちらを狙ってみたらどう? いくつか追加の単位を取って、教育実習を履修したら、1年ぐらいの延長で2つの専門分野で卒業できるかもしれないよ。でも、ダブルメジャーはそれなりに負担も大きいかもしれないから、まずはアート専攻の中に、将来アートを子どもたちに教える教職員への道がないかどうか調べてみて。若いころは全く別の仕事をしていたけど、年を取ってから学校の先生の仕事をしたくなって、学生時代に資格を取っておいたので出来たという話はよく聞くよ」

「あっ、そうか。そういう道もあるんだね」

「うん。卒業して、一念発起してまた大学に入り直すとかはかなりエネルギーがいるの。だから、学生時代に少し頑張って、将来に備えておくのもいいと思うよ」

「ありがとう。ママに相談して良かった。調べてみる」

 娘によると、今日は久しぶりの晴れで気持ちが少し上がってきて、家族に電話をする気持ちになったといいます。また、前日に、お友達数人とご飯を食べに行ったという楽しいイベントも心の在り様にプラスに働いたみたいです。

「今日はようやくお天気になったから、ママに電話をしようと思ったの。天気が悪いと気持ちも暗くなってしまって、誰にも会いたくないし、とにかく、部屋にこもっていたかった。今日はね、青い空に綺麗な気球が浮かんでいたの。それを見ていたら、気持ちが少しは晴れたの」といいます。

 夫と息子にも電話を回しました。娘は「ねぇ、楽しい話して!」といい、私たちの話を聞きたがりました。親が心配し過ぎるのは良くないとは分かっていつつ、日本にいたら駆け付けるのになぁと思ったり、いや、今が娘の成長のときだから見守ろうと思い直したり。親の私の心も揺れます。せめて、晴れてくれれば、と祈る日々です。


娘が送ってくれた画像。メルボルンの空に浮かんだ気球が綺麗

2024年10月1日火曜日

カラフルなゴミ箱

  遅ればせながら、この春から我が区の資源回収にプラスチックごみが加わりました。軽井沢ではずいぶん前から分別回収されていたのに、我が区ではペットボトルや瓶・缶、紙類は回収されていましたが、プラスチックの袋や発泡スチロールなどは燃えるゴミとして処理されていたのです。

 分別し始めると、燃えるごみのほとんどがプラスチックごみだということが分かりました。日々の暮らしで、野菜が入っている袋や肉・魚のトレー、お菓子の袋、洗剤のボトルなど多くがプラスチック製。ベーコンやお菓子が入っている袋などは中をスポンジで洗うなどして手間はかかりますが、これが資源となると思うとやりがいがあるというもの。

 分別するごみの数が増えましたので、これを機会に外に置いておくお洒落なゴミ箱を買いました。以前から欲しいなぁと思っていたのです。週末に家族で欧米の雑貨を売っている店に行き、まずは赤色を購入。送料が2千円ほどと高かったので、夫が持ち帰りました。猫の額ほどに狭い庭ですが、なかなか良い感じに収まりました。すっかり気に入って、緑と黄色を追加購入しました。

 カラフルなゴミ箱が来てから、分別がさらに楽しくなりました。日々の家事は楽しみながらやるのが一番。それと、やっぱり明るい色は気持ちが明るくなるものだなぁと実感したのでした。

 


 

 

 

 

2024年9月30日月曜日

休みの日には

  週末の文化祭の振替で、翌週の火曜日(月曜日は敬老の日で祝日でした)は息子の学校はありませんでした。こういう日は夫と私のいずれかが家にいることにしています。息子を家に一人にしておくと、終日パソコンでゲームをしていますので、どちらかが家にいてメリハリのある過ごし方をさせるように心掛けているのです。

 もちろん、息子は中1ですので、終日見張っているわけではなく、「勉強しなさい」というわけでもないのですが、「もうそろそろ、ゲームはやめなさい」「スーパーに一緒に買い物に行こう」「宿題はやったの?」「昼ご飯を一緒に作る?」などの声がけをするようにしています。 

 夫婦間で予定を調整し、その日は私が家にいることにしました。午前中早めの時間は息子と私の両方がダイニングテーブルでパソコンを広げて、それぞれやるべきことをしました。ひと区切りついたところで、息子に「ママ、キャラメル・ウォルナットタルトの作り方教えてくれる?」と言われたので、教えることに。これは私が家族のためによく作るお菓子で、子どもたちが大好きなのです。たまたま、材料も買ってありました。

 キャラメルはバターと砂糖を中火で溶かし、生クリームを加えて作ります。ポイントは加える生クリームの量をほんの少しずつにして、しっかりかき混ぜること。そうすれば、キャラメルが固まらずに、とろりとした状態でざく切りしたウォルナットを入れたクッキーの型に流し込むことが出来るのです。

 息子は私に言われた通りに、少しずつ生クリームを加え、ひたすら混ぜていきます。こういう根気のいることを出来るということは、やっぱり料理好きなのですね。

タルトにキャラメルを流し込む息子

 

焼き上がったタルト

 タルトをオーブンに入れた後、息子に「お昼ご飯は何食べたい?」と聞いてみました。「ケンタッキーかインドカレーのテイクアウトはどう?」と提案すると、息子はしばし考えて、「僕が作るよ」。

 ケンタッキーのフライドチキンやチキンフィレサンド、インドカレーのテイクアウトより、自分で作るほうを選ぶなんて、やっぱり息子は料理好きなんだなぁと改めて思いました。

 使いかけのニラやシイタケ、タマネギ、ベーコンがありましたし、炊飯器にはご飯も十分あったので、「オムライス」を提案しました。息子は「いいね!」と言い、早速、材料を切り始めました。

 みじん切りしたタマネギをサラダオイルを敷いたフライパンで炒め、その他の野菜やベーコンを切っていきます。それらをタマネギに加えてさらに炒め、ご飯を入れて混ぜ合わせてケチャップを入れます。塩コショウで味を調えて、お皿に。その流れがとてもスムーズで、見ていて気持ちがいい。

ケチャップご飯を炒める息子

 「ママ、薄い卵焼き作るの面倒だから、このままでいい?」と息子。

「もちろん! ケチャップご飯はそれだけでも美味しいから」と私。こうして、息子の作ったランチを美味しくいただいたのでした。


2024年9月29日日曜日

文化祭

  中1の息子の学校で「文化祭」が開かれました。最近、めっきり口数が少なくなってきた息子ですが、学校では友人たちと仲良くしている姿が見られ、ほっとしました。

 息子の学校は同じ学年に日本語で学ぶクラスと英語で学ぶクラスが併存する、ユニークな学校です。息子の学年は、日本語のクラスが3つ、英語のクラスが1つ。日本語のクラスは毎年クラス替えがあり、息子のクラスは高校3年生まで6年間一緒です。

 2022年に完成したという新校舎は都心にある12階建てのビルで、1階から6階までが息子の学校が、7階から10階までがインターナショナルスクール、11階が息子の学校とインターが共用する体育館、12階が屋上のフィールド(サッカーなどが出来る)です。

 娘の通っていた横浜・元町のインターにはグラウンドがなく、校舎の屋上と体育館で運動をすることになっていました。ですので、息子にはグラウンドで伸び伸び走り回らせたいーと願って中学受験をさせたのですが、唯一合格をいただいたのが都心にあるビルの中に入った学校という、何とも皮肉な結果に。でも、息子は毎朝自分で起きて、時間通り(7時ごろ)に家を出て、バスケ部での活動も楽しそうなので、こちらに合格をいただけて良かったと今は思っています。

 さて、文化祭です。子どもたちはそれは生き生きとしていて、紅茶と焼き菓子が食べられる「アリスの不思議な国」、タイムマシンに乗って未来に行きAIからの質問に答えを出していく「タイム・トラベラー」、迷路を舞台にした脱出ゲーム「インディアナ・ジョーンズ」、など様々なユニークなテーマがありました。もちろん、文化祭と言えば昔からある「お化け屋敷」も。体育館では吹奏楽部や軽音楽部の演奏も行われました。

 炒飯と餃子が食べられる中華料理店や、ワッフルとコーラが楽しめるアメリカの店、自分でカスタマイズできるシューアイスの店など、食べ物も充実していました。子どもたちはお揃いのTシャツを着たり、女子は浴衣を着たり、と楽しそう。皆の顔が生き生きとしていて、元気いっぱいで、私と夫も安心したのでした。

 娘が通っていたインターとの違いは、販売している食べ物の価格です。国からの助成がないインターでは親が支払う授業料で全てが賄われます。ですので、教材や運動用具、楽器などはバザーの収益で賄われます。そのため、バザーなどで提供される食べ物が、割高。でも、息子の学校は普通の私立学校ですので、ワッフルセット(ドリンク付き)が300円、炒飯が350円、焼きそばが250円、フランクフルトが100円と子どもたちがお小遣いで楽しめる価格。そこがいいな、とも思いました。

 何より、息子がお友達と食べ物を一緒に食べたり、笑ったりしているのを見られたのが良かった。息子が歩いていると横に何人かの男子が来て、息子の肩に腕を回して楽しそうにおしゃべりしている様子を後ろから眺めながら、「この学校にご縁をいただけて、良かった」と心から思ったのでした。

1980年代のアメリカを再現した店。ワッフルとコーラが美味しかった
学校が中華料理店に?テーブルも本格的です

こういうの、今風ですね。生徒の自主性を尊重した学校もなかなか良いです


2024年9月28日土曜日

アサガオやっと咲く

  相変わらず慌ただしい日々を送っています。毎日、ブログで報告したいことがあるのですが、朝起きて息子のお弁当を作り、朝食を食べさせ、身支度をして家を出て電車に乗って研究室に行き(週4日)、帰宅して夕ご飯を作って、洗濯物を取り込み、夕ご飯を食べて、片付けて、洗濯をして、パソコンでゲーム三昧の息子にお風呂に入って歯を磨くよう口うるさく言い、パソコンとスマホを取り上げ、化粧を落としてお風呂に入ったら、もう寝たくなってしまいます。

 そうしているうちに、あらら、あっという間に前回のブログから1週間も経ってしまいました。順不同になりますが、今日から頑張って報告します!

 まずは、最近、とっても嬉しかったことから。毎年たくさん咲いていたアサガオが今年はさっぱり咲かず、残念に思っていたのですが、ようやくこの1週間ほど毎日小さな花を咲かせてくれています。

 アサガオは息子が小学校1年生のときに学校で育て、秋に持ち帰ってきた種を翌年から毎年植えています。春に息子と一緒に玄関前の花壇に植え、夏に花を楽しみ、秋にはまた種を採り、茎を乾燥させてリースを作ります。口数が少なくなっている息子もアサガオの種を植えることは一緒にしてくれます。

 例年、花壇に2本の支柱を立て、1本の支柱につき3、4つの種を植えていたのですが、今年はもっと沢山の花を見たいと10個ぐらい植えたのです。そうしたら、なんと、葉がぼうぼうに茂って、夏は花がほとんど咲きませんでした。6年間植えていますが、こんなことは始めてでした。

 で、思い切って、葉や茎をかなり間引きし、様子を見てました。が、まったく咲かず。もう今年は諦めようと思っていたら、なんと、青い小さな花が咲き始めたのです。例年よりかなり小ぶりですが、可愛らしい。

「今年は沢山、植えちゃったからだね。来年はまたいつものように少しだけにしよう」と息子。やっぱり、欲張っちゃダメなんですね。 



 

2024年9月22日日曜日

熱海温泉へ

  敬老の日、86歳の母を熱海の日帰り温泉に連れていきました。母は「いつもテレビで見ていて、行きたいなぁと思っていた。嬉しい!」と思いのほか喜んでくれ、ランチを含めて半日の滞在でしたが、夫や中1の息子も楽しんだ良い日となりました。

 母は新型コロナウイルスの感染者が国内で初めて確認された半年前の2019年夏に東京に引っ越してきました。当時81歳だった母にとって、住み慣れた土地を離れるのは大きな決断だったと思います。

 東京での暮らしに少し慣れたころにウイルスの感染が拡大し、不要不急の外出が制限されました。私は、母をこちらに呼んで正解だったと胸を撫でおろしました。息子も小学生でしたし、私の病気の一つがウイルスにより再燃する恐れがあり飛行機による移動での感染が心配だったことから、札幌への帰省は難しかったからです。

 コロナ禍が収まりつつあった2022年8月、母が東京に引っ越して3年後に札幌の家を手放しました。この間の3年間、母もいろいろと考えたと思います。が、私と一緒に日帰りで札幌に戻り、家の売却手続きをしたときはもう、札幌や自分の家への未練は一切ありませんでした。とにかく、自分がまだ元気なうちに、片付けられるものは自分の手で片付けることが出来て良かったという安堵感に満ちていました。

 その1年半後の今年3月末、再び日帰りで一緒に札幌に行きました。父の遺骨を納めていた納骨堂をお寺に返し、遺骨を東京に持ってくるためです。すべての手続きを終え、母の気がかりだったことはすべて片付け、骨壺を大きなバッグに入れて母が大好きだった「かに本家」というかに専門店で食事をしたときは、母は晴れ晴れとした表情をしていました。

 そんな母の持ち物は2DKの賃貸マンションにすっきりと収まり、母は娘家族の家から徒歩5分のその住まいを“終の棲家”として、快適に暮らしています。体のあちこちに不具合がありますが、「年だから仕方ない」と割り切っているようです。

 さて、熱海の温泉です。海と一対化したような露天風呂につかりながら、母は思い出話をたくさん聞かせてくれました。ほとんどが、お姉さん6人とあちこちを旅行した思い出です。母たちは道内だけでなく、九州や沖縄、ハワイにも足を延ばしています。熱海にも来たそうです。

 母と伯母たちは1カ月に一度、それぞれの家に集まる「姉妹会」を開いていました。7人分の料理を準備するのは大変だったと思いますが、母にとっても伯母たちにとっても月に一度集まり、それぞれが腕によりをかけて作ったお料理を食べながら夕方までおしゃべりをするのは何よりの楽しみだったと思います。その姉妹会のときに旅行代として一人5千円を積み立てたそうです。お金の管理はしっかり者のフミコ伯母の担当。旅行の計画は一番若い母の担当だったそうです。

 「皆、すごいお金持ちでも、貧しくもなくて、同じぐらいの暮らしぶりだった。当時のひと月5千円の積み立ては結構な額だったけど、皆がそれを出来て、お金が貯まったら旅行に行けて幸せだった」と母。

 ツアーに参加し、他のツアー客も一緒の夕食会で7人が揃って挨拶したときは皆に驚かれたといいます。一番上のトシコ伯母が「私が一番上です」とあいさつ。そして順番に一言ずつ挨拶し、姉妹であちこちを旅行していると話をすると、皆から大きな拍手が起こったそう。そんな話を嬉しそうに母は語ります。

 赤ちゃんのころ養女に出されたもう一人の姉が何度か参加し「私も皆と一緒に育てられたかった」と大泣きしたこと、姉たちが少しずつ記憶力が落ちてきて「指輪がない!」と大騒ぎになって敷いたばかりの布団を皆でひっくり返して探したこと、一番上の姉からだんだん歩くことが難しくなっていったこと…。そんな切ない話にもなり、「皆、死んでしまって…。思い出話をする人もいなくなってしまった」と母は涙ぐみます。「まぁ、私が一番下だからね。仕方ないんだけど」とも。

 母の話を聞きながら、人の晩年は、人生で何を成しえたか、何を所有したかではなく、どれだけ楽しかった思い出を持てたかが大切になるのだなぁと思いました。母には、今回の熱海の日帰り温泉も楽しかった思い出として折々に振り返ってほしい。改めて、母が元気なうちに、こうした思い出をこれからも作っていきたいと思ったのでした。

温泉の休憩所から見える風景




2024年9月18日水曜日

諦めないこと

  先週の土曜日、新聞記者時代にお世話になったFさんに何年かぶりに会いました。Fさんは元西日本新聞記者で、現在は福岡で地元女性議員を増やすための活動をしています。今回、女性議員が多い東京都内の区議会を視察しにいらして、私に会う時間を作ってくださいました。

 Fさんとの出会いは20年以上も前に遡ります。Fさんと私は同じ記者クラブに詰めており、国会、政党、政治家や官僚への取材を一緒にし、取材手法や記事の書き方など、たくさん学ばせてもらいました。私ががんの治療で2ヶ月近く休んだときも、親身になって助けてくださいました。私が新聞社を退職した後も、親しくさせていただいています。

 コロナ禍の数年間は電話やズームでお話ししていましたが、今回、ようやくお会いできてとても嬉しかった。

 Fさんと話をしていると、現在の自分の無意識の行動が、実は新聞記者時代に培ったものだと気付かされます。仕事上で、その分野の専門家から「それは無理です。お金を払って専門家に頼んだほうが良い」と言われ奮起して、本を読んだり、無料相談を活用したりしてやり切った話をしたところ、Fさんが大笑い。

「その人、禁句を言ってしまったんだね。『あなたには無理』なんて」

「あははっ、確かに。私、無理とかダメとか言われると俄然やる気が出てしまう」

「それって、やっぱり記者やっていたからでしょう。私も、若い人が取材を断られたってしょげていたら、何言っているの!そこがスタートでしょうと発破をかけるもの」

「そうですよね。断られたところから取材が始まる」

  Fさんの指摘で、実は自分では自分自身のことを分かっているようで分かっていなかったことに気付きました。私は諦めが悪く、可能性がゼロでない限り何か方法はあるはずと思うタイプ。でも、単に諦めが悪いのではなく、「あなたには無理」「それは不可能」と人に突き放されたことで、逆に体の奥底からマグマのようなエネルギーが出てきて、そのエネルギーで猪突猛進することが多かった。普段はネガティブに考えがちだし、塞いでいることも多いのですが…。

 抗がん剤治療前に凍結した受精卵をがん克服後の7年後に子宮に戻して46歳で出産に至ったときもそうでした。45歳のときに不妊治療のクリニックの受付の女性から「こちらのクリニックでは治療は45歳までです。たとえご自身の受精卵でももう治療はできません。他のクリニックを探してください」と肩たたきにあいました。そこで奮起し、私の病歴から治療をしぶっていた院長先生に頼み込んで、子宮に戻してもらった。で、生まれたのが今中1の息子です。私が諦めのよい性格だったら、息子はこの世にいなかった。

 自著も、大手出版社のノンフィクション賞の最終候補に残り出版の予定で話は進んでいたのですが、突如担当編集者から「売れないという声が社内から上がったため、今回は断念させていただきます」と言われ奮起。自分で出版社を作って会社として登記し、編集も校閲も組版もデザインも印刷もすべて外注に出して、出版にこぎ着けたのでした。現在は2冊目出版に向け取材中です。

 軽井沢の家も、不動産屋さんの担当者に高飛車に「軽井沢で家を買うなら、3千万円はご準備いただかないと」と言われ奮起し、あちこち不動産屋さんを回り、「我々の仕事はお客様のご予算内で良い物件を見つけることです」という真っ当な不動産屋さんに出会い、ずっと安い価格で購入出来たのでした。

 現在通う博士課程も「あなたは医学のバックグラウンドがないし、年だから無理」と最初に目指した講座の教授に言われましたが、別の講座に出願。合格をいただきましたが、その指導教員からアカデミックハラスメントにあい一時は退学も検討。が、針の穴のような僅かな可能性を見つけ、何とか切り抜け、現在は別の教授の下、研究を進めています。大学としての責任からか私を引き受けざるを得なかった現在の教授も含めてアカデミアの世界ではずいぶん疎まれていますが、なんとか3年目まで来て、来年度博士論文提出の目途が立ちそうです。博士号を私に授与するかしないかは大学側が決めることで私の力の及ばないところ。ですので、目指せ!博論提出!です。 

 Fさんも女性議員を増やして女性の声を政治に反映させようと頑張っていらっしゃる。それも、地方から変えていこうという果敢な取り組み。地方は旧態依然とした体制も残り、高い壁が立ちはだかっていると思いますが、しなやかに、そして精力的に活動していらっしゃる。現在の女性の社会進出は、かつての諦めなかった女性たちやFさんのような力のある女性が切り開いてくれた道の上にあるのです。

 諦めずに、自分が出来ることをコツコツとやるー。自分の限界は人が決めるのではなく、自分が決めるー。定年退職後もより良い社会実現のため活動を継続されているFさんを目標に、私も微力ながら社会の役に立つよう頑張るぞ!と思ったのでした。

 

Fさんと行ったフランス料理店のメインディッシュ。白身魚のパイ包み