2019年9月9日月曜日

母の引っ越し ③

 「首が痛い!!!」と電話越しに訴える母の元に駆け付けるため、取る物もとりあえず飛行機に乗った私が実家の玄関に着いたのは8月12日午前0時半、東京の家を出て5時半後でした。慌てていましたので鍵を忘れました。玄関のベルを鳴らすと、「はーい」という母の声。電話で聞いたときより、ずっと元気です。母が玄関のドアを開けました。

「ただいま。ごめんね、遅くなって」
「無事着いて良かった。駅から時間がかかっていたから、心配していたよ」
「首の調子はどう?」
「あんたと話していたときより、大分良くなった」

  パジャマ姿の母は首を押さえながら、ゆっくりとですが、歩いていました。母の姿を見てひと安心です。夕方、電話で母と話していたときのあのざわざわとした気持ち。父のときのことを思い出し、もし翌朝、母が電話に出なかったからと想像したときの不安…。それらが、母の姿を見てすべて解消されました。

 母も私が来たことで安心したらしく、少し話をした後、「もう、遅いから寝よう」と父の仏壇がある和室に行きました。私も一緒に母の布団が敷いてあるその和室に行き、父の遺影を見て心の中で父に話し掛け、仏壇に手を合わせました。そして、2階に行き布団を敷いて眠りについたのでした。

 さて、翌朝、1階に下りてみると母がキッチンに立っていました。その姿を見て、私は思わず言いました。
「お母さん、朝ごはん作れるほど元気なの?」
「薬を飲まなきゃいけないから、何か食べなきゃいけないんだよ。食べないで薬を飲むと胃をやられるからね」
「・・・」

 ここで、私は顔には出しませんでしたが、心の中で不機嫌になりました。本当に体調が悪ければ、薬を飲むことなんて忘れます。覚えていたとしても、「胃がやられるからご飯を食べてから飲もう」なんて、考える余裕はないはず。朝ごはんを作れるほど大丈夫な母があと1日待ってくれれば、私は今日の夕方の便で子供たちと一緒に来るはずだったのです。でも、もう死にそう!というような母の訴えを聞いて、駆け付けたのです。3人分の新千歳空港行きの飛行機のチケットはキャンセル。当然、帰りの子どもたちの分のチケットもキャンセルです。夫は1週間、会社を休んで子どもたちの世話をしなければなりません。

 母の状態はかなり悪いと判断し、夏休みに読むべき本も持ってきませんでした。パソコンも置いてきました。昨年、北海道で大きな地震があったときに実家に駆け付けたとき、パソコンを持っていった私を母は「あんな大きな地震でも一人で頑張った母親を見舞うときに、パソコンを持ってくるなんて!!!」と体を震わせて、涙をぼろぼろ流して怒りましたので、今回は母の機嫌を損ねないように、持ってきませんでした。

 遠方に住む母親を支えるためにかなり無理をして出来ることはしているのに、どうして・・・?という気持ちがわいてきましたが、母は81歳。多難な人生を気丈な性格で乗り切ってきて、周囲に「気配りの人」と慕われていた母は80歳を越えた今、自らコントロールできない痛みに襲われ、すべてをさらけ出せる唯一の人間、一人娘の私にわがままを言いたかったのでしょう。わがままを言って聞き入れてくれるか、試したかったのかもしれません。それとも、その1日が待てないほど痛かったのでしょうか?

 母は、私が30代後半から40代前半にかけて、抗がん剤治療や放射線治療、心臓の手術で入院したとき、自己免疫疾患発病での緊急入院時はいつでも、体の不自由な父を連れて、東京に駆け付けてくれました(詳しくは闘病記「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」に。図書館でも借りられます)。だから、今が私が母にお返しをする番なのでしょう。母が何をおいても私のために駆け付けてくれたように、私も何をおいても母を支えなければ。

 私は、引っ越しの荷物を出し、母と一緒に実家を出る18日朝まで、一世一代の「母の引っ越し」に付き合うことにしました。

2019年9月2日月曜日

母の引っ越し ②

 「首が痛い!一人ぼっちで辛い!」と電話口で弱々しく泣く母のところに駆け付けるため、取る物も取り敢えずタクシーに飛び乗った私は、午後7時30分に羽田空港に着きました。息子を水泳教室に送った直後に母に電話をし、電話口の母の様子から、「今日札幌に向かったほうが良い」と決断してから、約1時間半後でした。子どもたちを連れて帰省する予定だった前日の8月11日のことです。

 JALの国内線カウンターに向かい掲示板を見ると、新千歳空港行きの飛行機はちょうど私が着いた時間に出たばかり。次の便は午後8時半発です。幸運なことに空席がありました。お盆直前の週末で、空席がないのではとタクシーの中で心配していましたので、とりあえず、安堵しました。

 カウンターの女性スタッフに札幌に住む母親の調子が悪くて駆け付けることを説明すると、その女性は前方の座席を指定してくれました。12日夕方の便で子どもたちと一緒に札幌に行く予定で、その分の航空券を購入していましたので、自分の分をまず、キャンセル。中3と小2の子どもたちだけで飛行機に乗せ札幌に向かわせるかどうかは私だけでは決められませんので、夫に電話をしました。夫はちょうど、プールから出てきた息子を迎えて駐車場に向かうところでした。

「とりあえず、8時半の飛行機のチケットは取れたの」
「それは、良かった」
「明日はどうしたら良い? 子どもたちだけで飛行機に乗ってもらったら、私が新千歳空港に迎えに行くから」

娘は中3で、息子は小2です。夫に羽田空港まで送ってもらえば、2人でも飛行機に乗れるでしょう。航空会社には、子どもだけでの搭乗をサポートするシステムがあります。また、自分たちだけで飛行機に乗るという”冒険”に、はしゃぐ2人の様子が目に浮かびます。が、夫はこう切り出しました。

「うーん、やっぱり子どもたちだけでというのは、不安だな」
「大丈夫だと思うけど・・・」
「それに、今回はお母さんの体調も悪いし、子どもたちがいると逆に君は大変じゃないだろうか? お母さんの世話はしなければならないし、子どもたちはずっと家にいると飽きてしまうから、どこかに連れて行かなければならないだろう? 」
「確かに。公園やプール、温泉・・・いつも連れて行っているところに行きたい!と子どもたちはせがむかもしれない」
「今回は残念だけど、キャンセルしたほうが良いと思う。今週はお盆で会社の人も休んでいる人が多いし、僕も仕事の予定はそれほど入っていないから、休みを取れるよ。仕事は家でもできるし、会議は家から電話で参加すれば良いしね」
「うん、わかった。ありがとう。でも、子どもたち、札幌に行くのを楽しみにしていたから、残念がるだろうなあ」
「こういう事態だから、仕方ないよ」

 残念でしたが、子どもたちの飛行機もキャンセルすることにしました。チケットが取れたので、母にも電話をしました。

「お母さん、8時半の飛行機が取れたの。安心して」
「ありがとう」
「首はどう?」
「さっきより少し良くなった」
「それは良かった。家に着くのは夜12時を過ぎると思うから、寝ていてね」
「わかったよ。ありがとう、待っているよ」

 今回の東京引っ越しで、母はお盆休みに札幌に帰省する私と子どもたちが東京に帰る18日に一緒に東京に来て、1週間ほど滞在して入居予定の賃貸マンションを見てから一旦帰札し、私が再び9月に札幌に行って、ご近所などに一緒にご挨拶をして引っ越しの荷造りを手伝い、私と2人で実家から旅立ちたいという希望を持っていました。

 私は母の希望を叶えようと、母の往復航空券も購入していました。が、今回、私が札幌に行く予定の前日に母の元に駆け付けなければならなかったこと、母もその1日が待てなかったことで、東京に帰る私と一緒に飛行機に乗るだけで精一杯かもしれない、東京ー札幌往復は無理だろう、と予想しました。

 で、ご近所や近くの親戚へのご挨拶はおそらく、今回の滞在中になるだろうと予想し、いつもの手土産より奮発して「銀座千疋屋」のフルーツゼリーを購入しました。町内会の方々にもご挨拶をするかもしれませんので、予備のお土産として「ひよ子」もいくつか買いました。それらを持って保安検査場を通り、搭乗口へ。飛行機は予定時間より10分ほど遅れて、無事離陸したのでした。

 新千歳空港に着くと、いつも利用している札幌行きバスは最終便が出た後で、札幌行きのJR「快速エアポート」も最終便がもう少しで出発するというタイミングでした。私はここでも胸をなでおろし、JRに乗り込みました。母にも無事着いたことを連絡しました。母の声は、先ほど羽田空港で電話をしたときより元気です。このときです。私の心に?マークが灯ったのは。

 お母さん、さっきの死にそうな声はどうしちゃったの?

 母は言います。
「何時ごろに着きそう?」
「零時を過ぎると思うよ。もう遅いから寝ていてね」
「待っているよ」

 札幌駅から電車に乗り継ぎました。実家最寄り駅に着いてからも母に電話をしました。午前零時を過ぎていました。タクシーもいませんでしたので、スーツケースを引っ張り、重たい千疋屋のゼリーと「ひよ子」が入った袋を肩から下げて、とぼとぼ実家へ向かって歩きました。そうすると、母から電話が。

「あんた、遅いから心配で」
「タクシーが拾えないの。歩いて帰るからね」

 東京は猛暑ですが、札幌の夜は涼しい。Tシャツだけで歩いていると肌寒い。私は歩道でスーツケースを広げて、カーディガンを取り出して、着込みました。そうするとまた、母から電話が。

「どうしたの?」
「寒いから、カーディガンを着たの。スーツケースの中に入っていたから時間がかかって。もう少しで着くから」
「最近、ほら、夜中に襲われて殺されるようなニュースがあるでしょ。心配で・・・」
「大丈夫だよ。もう少しだから」

 母の”ひん死”の訴えを聞いて、何もかも投げ出し、取るものも取りあえず、東京から駆け付けた私。でも、当の母は、何度も電話を出来るほどの状態です。これはいったいどういうこと?

 私はこれまでいくつも大病を患い、何度も救急車のお世話になりましたので、それがどういう状態か身に浸みています。そんなときは周囲を気遣う余裕はありません。自分の体すら動かせない。あれよあれよという間に体調が悪化し、意識も混濁してくるのです。救急車で病院に運び込まれても、何とか自力で病院にたどり着いても、そのまま入院で、数日間はベッドから起き上がれない状態でした。

 母は、翌日私と子どもたちが札幌に行くことを十分承知で、その前日に「首が痛い。一人ぼっちで辛い!」と訴え、消え入りそうな声で、その辛さを私に訴えたのです。「じゃあ、今、札幌に行くからね」という私に対して、「大丈夫だよ。明日来るのを待っているから」とは言わなかった。だから、救急車を呼ぼうかという状態だったはず。電話口から聞こえたのは、今にも死にそうな声だった。

 母はいったいどんな状態なの? 私はとりあえず、実家への道を急ぎました。 

2019年8月28日水曜日

母の引っ越し ①

 毎日電話で安否確認をしていた札幌の母が、「首が痛い」と言い出したのは6月でした。それまでは連日「膝が痛い」と嘆いていましたが、「膝の痛みなんて比べ物にならないほど痛い」というのです。
 
 長年通う最寄りの整形外科のクリニックでMRIを撮ってもらっても、「加齢」による頸椎の変形という診断で痛み止めの薬をもらうだけ。その薬は効かず、知り合いに勧められ鍼灸院に行き施術してもらいましたが、症状は悪化。

 母は長年、周囲に対して「事なかれ主義」を貫いてきました。が、耐えられない痛みだったのでしょう。何十年もお世話になってきたクリニックの先生に勇気を振り絞って、「セカンドオピニオンをもらいに大学病院に行きたい」と訴えました。が、先生には逆に「セカンドオピニオンを取りに行くなら、もうこちらでは診ません」と嫌な顔をされたらしく、万事休す。一連の話を聞いてきた私は、ついに7月初旬、これまで何年間も言い続けてきたことを改めて母に言ったのです。

「お母さん、東京においで」と。

 母は、これまで「私はこの家が好きなの。札幌がいい」と頑なでした。40年以上住んだ家には当然愛着がありますし、ご近所も良い方ばかりです。80代、90代のきょうだいも、札幌とむかわ町に4人います。さらに、私が30代後半から大病を患ってきたため、「子育て真っ最中のひとり娘に迷惑は掛けられない」という思いもあったと思います。が、今回ばかりは、もろもろの事情も「仕方ない」と思うほどの痛みだったのでしょう。電話口の母は弱々しい声で言いました。
 
「うん、分かった。東京に行く。東京に行けば、あんたに一緒に病院に行ってもらえる。入院や手術をしても、あんたが側にいてくれたら、安心だ」

 母は81歳にして、娘の住む東京に引っ越すことを決断したのです。
 
 それから、母の住居探しが始まりました。我が家は狭く母を迎え入れるスペースはありませんので、近所で賃貸マンションを探すことにしました。折しも、私が大学院の期末試験とレポートの準備に追われていた時期。「タイミング悪すぎ!せめてレポート提出後だったら良かったのに・・・」と泣きそうになりながら、勉強と仕事と育児の合間を縫って、物件を探しました。

 理想は我が家から徒歩10分以内で、電車の駅の近く。ボケないように、閑静なところより、にぎやかなところ。一軒家に住んでいた母がみじめな気持ちにならないような広さで、綺麗な住まい。

 夏休み中の娘と息子を連れて近所を散策して、良い物件に目星を付けて、帰宅後にネット検索をしてみましたが、どれも「現在、募集はしていません」。 一方、母は連日電話で「首が痛い!食べられない!やせた!」とか細い声で訴えます。

 ようやく見付けたのは、近所の分譲マンションの空き物件。オーナーがおそらく海外赴任なのでしょう。3年間の期限付きで賃貸に出しているものでした。予算オーバーで、3年後に再び引っ越しするのが面倒かもしれませんが、背に腹は代えられません。私が望んだ条件の全てを満たしていたので、さっそく内見を申し込みました。

 手続きしてくれたのは、我が家から数ブロックしか離れていないところにある自宅兼事務所の不動産屋さん。ネット上の写真を見ると、私と同世代に見える女性で、まずは電話でご挨拶。「ラインのほうが連絡のやり取りが便利」と、近所の道端で待ち合わせて、スマートフォンを取り出しラインアドレスの交換をしたのでした。

 しかし、さっそく翌日内見というときに、不動産屋さんからラインが。
「すみません!あの物件、一足先に契約が入ってしまったんです!」

 残念!振り出しに戻りました。が、残念がる時間もありません。母の首の状態が悪くなれば、引っ越しも出来なくなります。そうした場合、私が札幌に行って母の介護をすることになりますが、下の子どもはまだ小2。家を長く開けることは出来ません。ですので、母が動けるうちに東京への引っ越しを敢行しなければ。

 不動産屋さんが早速ほかの賃貸マンション数件を見繕って間取りのコピーをくれました。そのうちの1つに早速、内見を申し込みました。我が家からも徒歩10分以内にあり、徒歩圏内にスーパー5件、ドラッグストア、銀行、郵便局、区役所の出張所、そして電車の駅と商店街もあるところが気に入りました。

 母の条件は「日当たりが良くて、2LDK、膝が痛いから坂のないところ」。その物件は、マンションの4階で窓が南東向きの2LDK。日当たりも良さそうです。駅までは坂もありません。自転車でさっと外観と玄関を見に行きましたが、なかなか立派です。これなら、母もみじめな気持ちにならないでしょう。

 翌日、午前中に私と不動産屋さんとで内見したところ、日当たりも良く、部屋の中はとても綺麗でした。夜、夫と子どもたちを連れて再度内見して、全員が気に入りました。母には事前に間取りのコピーを郵送で送っておき、スマホで撮影した部屋の中の写真十数枚を母の携帯電話に送りました。母も気に入ってくれたようでしたので、早速、契約の申込をしました。

 契約は夫に頼みました。借主が夫で、住むのが私と母の2人ということにしました。81歳の女性の一人暮らしでは、契約が難しいらしく、世帯主が私で母と同居という設定です。不動産屋さんの提案で、「近所に住んで、いつもお母さまの様子を見に行くのですから、同居と一緒です!」という力強いお言葉をいただきました。その不動産屋さんは、「私の両親も80代です。お気持ちはとても分かります」と言ってくれたのです。

 賃貸マンションの契約は、簡単ではありませんでした。夫の源泉徴収票、日本在留許可証や運転免許証のコピーを提出。私が連帯保証人になり、実印を押して、印鑑証明書を提出。さらに家賃を保証する保険会社にも十数万支払いました。この間、私は大学院の期末試験とレポートに取り掛かっており、目が回るような忙しさでした。

 8月6日最後のレポートを提出し、翌日の7日不動産屋さんと一緒に契約書に必要事項を記入しました。次は引っ越しの準備です。

 私と子ども2人は、12日月曜日に札幌に帰省する予定でした。
「お母さん、18日に東京に帰るときに一緒に来ない? 札幌滞在中にみんなで引っ越しの準備をして17日に荷物を出したらどう?」
「私は、9月がいい。孫がきたときにバタバタと東京に引っ越すのは嫌だ。9月にあんたと一緒にご近所に挨拶して、きちんと旅立ちたいの」
 長年住んだ札幌を離れるのが辛いのでしょう。涙声です。

 ここは、母の気が済むようにしようと、とりあえず、18日に母の飛行機のチケットも買って、一緒に東京に来てもらい、マンションを見てもらって、1週間ほど東京に滞在して札幌に戻るというスケジュールを立てました。9月はまた大学院が始まりますので忙しくなりますが、母の納得のいくようにしようと決めました。札幌の家は母の体調が良くなったときにいつでも戻れるように、そのままにしておくことにしました。

 ところがです。一連のスケジュールを立てて、航空券も全て購入し、翌日に子どもと一緒に札幌に行くという11日、母の首の状態が悪くなってきました。朝から電話を何度かしていましたが、「痛い!痛い!」と連発します。この日は夜6時15分から息子のプール教室がありましたので、6時過ぎに息子をプールの前で降ろして、駐車場に車を停めて母に再び電話をしました。すると、母が泣きながら言います。

「首が痛いの!」
「お母さん、救急車を呼んで」
「救急車を呼ぶのは嫌だ」
「お母さん、でも、これ以上具合が悪くなったら大変だし」
「首が痛い! 痛い! これまでお父さんやあんたやみんなが具合が悪いときにあんなに尽くしてきたのに、私が具合が悪いときに一人ぽっちで辛い!!!」

 体全身で、絞り出すような声で叫びます。でも、頑として救急車を呼ぶのは嫌だと言います。間に合わなかった父のときのことが頭に浮かびます。あの時は最終便に乗れず、一睡もせずに翌朝を待って、朝一の便で札幌に向かったのです。

 私は意を決して、言いました。
「分かった。これから、札幌に行くから。待ってて!」

 夫に電話をし、事情を説明して、7時15分に息子を迎えに行ってもらうように頼みました。プール教室から家までは車で約20分。私は6時15分に駐車場を出て自宅に戻り、夫が入れ替わりに車で息子を迎えにプールへ。帰宅後、私は急いでスーツケースに思い付くものを詰め込んで、タクシーに飛び乗り羽田空港に向かったのでした。

 タクシーの中でJALに電話をしましたが、何回かけてもつながりません。ネットでもつながりません。タイミング悪く、お盆直前の週末です。もしかしたら、空席がないかもしれません。仕方ないので、普段使わないANAのホームページを見て航空券を買おうとしましたが、慌てているせいか、なかなか航空券の購入手続きができません。電話もつながりません。そうこうしているうちに羽田空港に着きました。午後7時半でした。

「満席だったらどうしよう・・・」
不安にかられながら、私は小走りでJALのカウンターに向かいました。 

2019年8月11日日曜日

大学院、今年度の前期終了!

 大学院の今年度の前期が8月5日に終了しました。30年ぶりの学生生活は戸惑うことばかりでしたが、何とか無事すべての課題を終えることができ、ほっとしています。


 私が今回、履修したのは5課目。一番苦労したのは、やはり、英語です。基本的に講義は英語で行われるのですが、医学専門用語が大変でした。病名、体の部位名、診療科名など耳慣れない語彙ばかりで、これらを理解しないと、講義そのものが理解できないのです。分からない単語を読み飛ばして全体像を把握するなどという手法は通用しませんので、辞書を使います。昔重宝した小ぶりな携帯用辞書は、字が小さ過ぎて読めない。電子辞書は、①開ける②電源を入れる③アルファベットを打ち込むーという手間が面倒。結局、スマートフォンで使える「英辞郎」というウェブ上の辞書に落ち着きました。

 次に苦労したのは、あの「パワーポイント」です。自慢ではありませんが、私は一度もパワーポイントを使ったことがありません。が、「医療倫理」のクラスで、各自テーマを選んでプレゼンテーションをするーという課題があり、発表時に使うスライドを作りました。グラフを作ったり、表を作ったり、参考にした論文から図表などを取り込んで張り付けたりなど、難しいことばかり。プレゼンテーションも事前に7回練習したのですが、時間内に終わらせようと早口になり、いまひとつの出来でした。他の人を見ていると、パソコンを見ながらゆったりと発表しており、”慣れ”は大切なんだと実感しました。

 このような苦労もありましたが、面白かったのは2本の期末レポートの執筆です。まず、自宅では海外の論文を読むのには手間と費用がかかりますが、大学に行けば、簡単にしかも無料で閲覧できます。基本的に分からないことを調べる、疑問点を掘り下げるということは好きですので、この調べるときの自由さがありがたかった。

 レポートの準備をしているとき、先生とのやりとりで、気付きもありました。「医療政策」という課目で提出したレポートです。テーマは自由。英語で2000語(A4で5、6枚)という条件です。先生からの指示は「自分の経験を盛り込むこと」。私が所属するのは公衆衛生学研究科で、学んでいるのは医師・看護師ら医療関係者がほとんどですので、彼らには十分経験があるでしょう。でも、私は医療を取材する側です。どうやって自分の経験を盛り込むの? 患者としての体験を書いてもレポートにはならないし、、、と恐る恐る先生に質問してみると、、、。

「そうです。あなた自身の経験を盛り込んでください」
「つまり、私は、、、という書き方でもいいのですか? 期末レポートに?」
「いいんです。自分の経験を盛り込んでくださいと指示する理由は、コピペを防ぐためなんです」
「コピペ?」
「いまは、なんでもネットで調べられる時代です。検索してコピぺしてレポートを仕上げるのは簡単なんです」
「なるほど、、、」

 「コピーアンドペースト」など、思い付きもしませんでしたが、言われてみればネット検索が容易になった今そういうこともあるのだと納得。自分の体験を盛り込んだレポートは、素人っぽい書き方のような気がしましたが、自分の患者体験の中から浮かび上がった医療政策上の問題点について、調べて提言するという内容にしました。

 今学期履修した5課目の中で、一番やりがいがあったのはプレゼンテーションで苦労した「医療倫理」の期末レポートです。期末レポートは、プレゼンテーションで選んだテーマを掘り下げ、海外での最新の研究やプレゼンテーション後のクラスでの議論を盛り込んで書くというもの。私が選んだテーマは、日本で議論が始まったばかりの「子宮移植」。海外の論文は目を見張るような内容ばかりで、勉強になりました。この期末レポートについては、先生からのフィードバックで「クラス、最高点です」というコメントをいただき、とても嬉しかった。

 「何で今ごろ大学院?」というよく質問を受けます。卒業後、職業に活かすことを考えると54歳での入学は遅いですが、人生という長いスパンで考えると遅過ぎることはないと信じたい。来学期は9月2日から始まります。とても、楽しみです。 

2019年7月25日木曜日

アサガオ咲いたよ

  我が家の玄関前にある小さな花壇に植えたアサガオが、大輪の花を咲かせています。小2の息子と一緒に育てました。家を出入りするたびに、薄紫色の花を見て、心が癒されています。


 昨年夏、息子が学校でアサガオを育てました。途中、間引きした枝を牛乳パックで作った容器に入れて教室内で育て、家に持ち帰ってきてくれました。その苗を花壇に植え替え、横に棒を立てると、ツルを巻き、見事な花を毎日咲かせてくれました。秋になって茶色くなった種を何粒もとり、小さなケースに入れて取っておきました。それを今春、息子と一緒に花壇に植えたのです。



 息子が人差し指で土に3つ穴をあけ、その中に種を入れて、軽く土をかぶせました。
「どうぞ、芽が出ますように」
と2人でお祈りをし、毎日、水を上げました。

 1週間ほどして、小さな葉っぱが土の上に顔を出しました。息子と大喜びしました。昨年使って取ってあった棒を周りに差しました。アサガオのツルは次第に伸びてきて、隣の花に巻き付いたりしましたが、それを息子と2人で丁寧にほどき、棒に巻き付けました。その後は、順調に巻き付いてくれました。

 気を良くした私たちは、その隣にも種を3つ植えました。でも、芽が出てこなかったので、もう一度、3つ植えてみました。すると、2つの芽が土の上に顔を出しました。


 花が咲いたのは、7月1日。2人で大喜びしました。その後はほぼ毎日、美しい花を咲かせてくれています。

 今日は4輪の花が咲いていました。息子が花の横についているつぼみのようなものを指さして、
「ママ、これが種になるんだよ」と教えてくれました。
 
 アサガオの花を堪能した後、秋になって息子と一緒に種を取るのも楽しみです。毎年、こうして息子との
共同作業を続けられたら、と願っています。

2019年7月24日水曜日

娘の中学校卒業パーティ

 娘の中学校(8年生)の卒業式を控え、1学年下の7年生主催のパーティがありました。娘が着ていく服に選んだのは、私の友人からお下がりでもらった赤いドレス。細いストラップがついて、ウエストをギュッと絞った素敵なドレスです。


 昨年、娘が7年生のときに主催した卒業生のためのパーティでは、娘は私が若いときに着た花柄の白いドレスを着ていきました。車で迎えに行ったとき、フランス人の男子からダンスを誘われたことをとても嬉しそうに報告してきたときは、私もそのドレスを着て夫とフランスを旅行したなぁとそのドレスがつむぐ”物語”のようなものを感じたものです。

 娘は去年も今年も、新しいドレスを欲しがらず、私や私の友人が処分し切れず何十年も持っていた”思い出の服”を、喜んで着てくれました。こんな素直さが、娘の一番良いところだと私は常々感じています。そして、私と友人のドレスも、こうして世代を超えて着てもらえて、喜んでいるに違いないなどと思いを巡らせています。成熟した女性のドレス姿も素敵ですが、少女から女性に成長しつつある女の子のドレス姿もまた、初々しさという違った魅力があるのです。

 さて、娘が通うのはインターナショナルスクールですので、厳格な日本の中学校とは趣が違い、卒業パーティとなると、女子はドレス、男子はスーツを着て、ダンスを踊るというのがコンセプト。男子・女子がカップルになり参加することもあります。ですので、パーティの数カ月前から、誰が誰を誘ったとか、断ったとか、申し出を受けたとか、ドレスは何を着ていくのか、などの話題で娘と友達らは盛り上がっていました。もちろん、その話を聞いた母親たちも、ランチ会で情報交換。あるとき、ママ友達から、「今年のドレス赤が多いよね。うちも、結局赤にしたわ。かぶってゴメン!」などというラインがきたことも。

 ガッツのある娘の友達が、ある男子を誘って断られたときは連日夜、その友達から娘に電話がかかってきて悩み相談。娘も真剣に慰めていました。また、ある冴えない男子が、クラスで一番人気の女子を誘ってOKをもらったことも、女子の格好の話題に。

 娘とそんな話題で盛り上がるときは、「ねぇ、誰かから誘われないの?」とワクワクしながら聞いてみましたが、娘には誰からも誘いがなく、娘はそれを気にする風でもなく、逆に誰かを誘うわけでもなく、、、という状況。結局、カップルは2組で、他の男子・女子らは、お友達同士でダンスを楽しむ、ということになったようです。

 ダンスパーティの当日。終了時間少し前に会場に迎えに行った私は、ママ友達と一緒にこっそり会場に入ってみました。会場内は真っ暗でところどころに照明が灯っています。音楽に合わせて子どもたちが楽しそうに踊っていて、笑い声が響き渡り、その様子をテーブルに座る先生らが温かく見守っています。

 パーティが終わり、会場内が明るくなると、娘が私を見付けて満面の笑顔で手を振ってくれました。身長176㌢で、友達より(男子より)頭一つ分大きな、赤いドレスを着た娘を見ながら、「手の平に載るほどに小さかった娘が、こんなに大きくなったんだなぁ」と目頭が熱くなりました。
 
 娘の友達は皆、ドレスに合わせて素敵なサンダルを履いているのに、娘の足は大き過ぎて日本では買えないため、通学用の黒い革靴を履いていきました。「こんなことなら、ネット通販でアメリカからサンダルを取り寄せれば良かった」と胸がチクリと痛みました。でも、娘はそんなことを気にする風もなく、友達と楽しそうにおしゃべりしています。

 去年の白いドレスを着た娘の姿同様、赤いドレスを着た娘の姿をしっかりと目に焼き付けました。娘が成長したら、きっとこの姿を思い出すのだろうな、と思っています。
 

 

2019年7月18日木曜日

久しぶりに夫とデート

 アメリカの独立記念日の7月4日、久しぶりに夫とデートをしました。誘ったのは私。何気ない日常の会話がきっかけでした。

 品切れしていた日用品を買いに、駅近くのドラッグストアに車で買いに行ったとき。時計を見ると、午後6時過ぎ。もしかしたら、夫は帰宅途中かもしれないと、電話をかけました。電話に出た夫は、案の定電車の中。それも、駅にほど近い駅を通り過ぎたばかりだと言います。

「あら、丁度良かった。私、車で駅近くまで来ているの。迎えに行こうか?」
「それは、助かるよ」
「じゃあ、駅の前で待っているね」

駅から出てきた夫は上機嫌で、「ありがとう」とにこにこしています。私はふと、思い付いたことを提案してみました。外はまだ、日が暮れる前です。

「ねえ、久しぶりに食事に行く?」
「いいねえ。今日は独立記念日なんだ。美味しいビールを飲みたいよ」
「そうだった? じゃあ、久しぶりに2人で出かけようか?」
「そうしよう」

家に帰って、早速、準備していた夕食を作り始めます。この日の夕食のおかずは、トラウトサーモンのローズマリー風味。サーモンが嫌いな息子にはつくねを準備していました。さっそく、夫と2人で子どもたちに夕食を作り、お盆に載せて、ダイニングテーブルへ。

子どもたちに伝えるときに、いつもと違う言い方をしてみました。
「ダディとデートしてくるね」
「オッケー。ねえ、じゃあさ、ベビーシッター代500円」と中3の娘。
「小2の弟のベビーシッター代はないでしょう。しかも、家にいるだけなんだから」
「でもさ、火事になったら連れ出さなければならないでしょ」
「じゃあ、火事になって連れ出してくれたら300円あげる」

そんな会話を娘としていたとき、息子が夫に聞きます。
「Are you going out on a date with MOM?(ママとデートするの?)」
「Yes」
「Finally(ようやく...)」と息子。

ようやくってどういう言う意味でしょう? やっと、親が出掛けてくれるということ? やっと仲良くしてくれるってこと?

まあ、どちらでも良いとして、子どもたちは2人とも上機嫌。きっと、夜、親が出掛けて自分たちだけという、いつもとは違う”イベント”にワクワクしているに違いありません。

 さて、子どもたちを置いて、出掛けた私たち。どのレストランにしようかあれこれ迷い、結局は美味しいビールが飲めるメキシカンレストランに行くことにしました。夫が「とりあえず・・・」と注文したのはコクがあるビール「IPA」、私は軽やかな味わいの「コロナビール」。


料理は、「今日は独立記念日だから、これを食べなきゃ」と夫が言う「スペアリブ」を。


夫の会社の話、私の学校の話と会話は弾みました。それぞれに2本目のビールを注文しながら、なんかこういう日も良いなと思ったのでした。