2018年1月7日日曜日

日本人母の悩み

 年が明けました。ありがたいことに、我が家は穏やかで良いお正月を迎えることができました。しかし、今年は「おせち料理」を巡り、深く考えさせられる出来事がありました。

 大晦日と元旦に食卓に並べた「うま煮」(煮しめ)。10種類の食材を別々に下煮してから、煮含めるこの手間のかかる料理を、私は母から受け継いだおせち料理の1つとして毎年作っています。元旦には出汁を取ったお雑煮も作ります。

 が、今年のお正月は娘からはっきりと言われてしまったのです。「お正月は好きじゃない。嫌いなお料理を食べなければならないから」と。そして、夫にも言われました。「来年のお正月は、子供たちには別の料理を用意したほうが良いかもね」と。

 私は平然とした表情で子供たちに、「これがお正月に食べる日本の伝統料理なの。あなたたちは半分日本人なんだから、和食をおいしく食べられるようでなきゃ駄目」と諭します。が、心の中でうなだれました。こうなったのは、私の責任だーと。

 我が家では、クリスマスやイースター(復活祭)、サンクスギビング(感謝祭)などアメリカの行事の日は夫が、お正月や節分、子供の日など日本の行事の日は私が料理を作ります。

 私はおせち料理やちらし寿司など母が作る「ハレの日」の料理が大好きでした。が、残念なことに子供たちはアメリカの行事のときに食べる料理は好きですが、日本の行事のときの料理は好きではないのです。日本人だったら、気持ちが華やぐであろうこれらの料理を、半分は日本人の血が流れる子供たちが嫌がるなんて、寂し過ぎます。

 行事の日だけでなく、普段の料理でも、子供たちは夫が作る料理が大好き。ピザ(クラストから作ります)、スペアリブ、リゾットなどです。子供たちは私が作るマカロニチーズやラザニア、ブイヤベースなど欧米の料理も大好きですが、和食のほとんどは「美味しくない」と言い、少量だけしか食べません。喜んで食べるのは、納豆巻きとジャガイモのお味噌汁、焼き鳥・焼き魚、サツマイモの天ぷら、生姜焼き肉、かぼちゃの煮付け、きりたんぽ鍋ぐらいでしょうか? 

 なぜ、こうなったのか? 調理の仕方が悪いかも?とも考え工夫したこともありました。が、煮物やちらし寿司などは誰が作っても大差はないでしょう。ついに私は、母にこれまでも何度か指摘され、認めたくなかった理由を受け入れることにしたのです。子供たちが幼いころに食べ慣れなかったからだ、という理由を。

 そうです。私は、アメリカ人の夫への遠慮から、あまり和食を作らなかったのです。夫は納豆はもちろんのこと海藻や魚のすり身、小魚、魚卵、鰹節、こんにゃくなどの食材が嫌いです。また、しょうゆ・みりん・酒・砂糖という和食の基本の味付けの中の砂糖を好みません。日本人だったら冬に恋しいおでんは嫌いです。私が愛するさつま揚げやひじきは大嫌いです。お味噌汁も好みません。ですので、私は夫が嫌いな料理は作らず、苦手な食材は使わず、煮物など作るときは砂糖をほとんど入れません。ですので、私が食べたい料理や味ではなくなるため、段々と作らなくなったのです。

 そして、私が和食を食べたいとき(頻繁にあります)は、一人分だけ作ったり、総菜屋さんで買ってきたり、冬はコンビニエンスストアでおでんを買ったりして、昼間など家族がいないときに食べていたのです。

 それが、子供たちに影響したに違いありません。娘が和食嫌いになったことを反省した私は、息子のときは少し努力しました。その母親としての当たり前の努力が実り、息子はワカメのお味噌汁やきんぴらごぼう、肉じゃが、豚汁、ひじき入りご飯などは好んで食べるようになりました。そう、赤ちゃんのころから、食べ慣れた味だからです。

 ちなみに、2人とも納豆が好きなのは「日本の食材の代表である納豆を食べないのは許されない」という私の強い思いから、夫に「匂いが耐えられない」と文句を言われつつも子供たちに食べさせていたからに他なりません。

 さて、12月に1泊2日で母の様子を見に帰省した時、母は私の大好物のうま煮を作って待っていてくれました。

 本当に美味しかった。これぞ、母の味です。でも、将来娘や息子が独立し、久しぶりに帰省するときは絶対作らない料理でしょう。おそらく私が作る料理は、少なくとも日本人母としての矜持を保つため、コロッケなど「日本の洋食」ぐらいに落ち着くんだろうなと思っています。

 このうま煮。今年の元旦は娘に文句を言われましたが、私はあきらめるつもりはありません。今年の年末も作ります。もちろん、元旦までは夫の好みの砂糖をほとんど使わず作ったものを食卓に出し、2日に砂糖を加えて自分の好みの味(つまり母の味)にして食べるーという工夫は続けますが。

 しつこく作っているうちに、子供たちが「美味しいね」と食べてくれるようになることを願っています。

  

 

2017年12月31日日曜日

2017年、私の挑戦② 仕事を再開

 2017年の最も大きな挑戦は、仕事を再開したことです。今夏から、ニュースサイトで医療記事を書いています。きっかけは、ある出会いでした。

 春、久しぶりに何か学びたいと思い立ち、都内の大学の社会人講座に申し込みました。新聞広告が、たまたま目に留まったのです。「面白そう」と思い、夫に許可を得て、申し込んだ口座は2つ。1つは「今、ジャーナリズムを考える」(10回コース)、もう1つは「人体の神秘に迫る~がんと日本人~」(5回コース)でした。

 いずれも土曜日開催のため、夫に子供たちの世話を頼みました。夫は、私が仕事を辞めたことをとても悔しく残念に思っていることを、十分知っています。ですので、体調が良くなってきた私が社会復帰に向けて一歩踏み出すことを、とても喜んでくれます。そのときも毎回、気持ち良く私を送り出してくれました。

 「今、ジャーナリズムを考える」は、大学のメディア社会学科の教授を中心に、元新聞記者やジャーナリストらが講座を受け持っていました。どれも濃い内容でしたが、一番良かったのが、戦争を長く取材してきたジャーナリストによる講座でした。

 テーマは、「ロシア政治の闇」でした。とても迫力のある、興味深い内容でした。講座が終わった後は、参加者から質問が相次ぎました。私も、質問しました。その数日前にニュースになった北方領土に関するプーチン大統領の発言についてどう考えるか、という質問でした。

 講座が終わった後も、ジャーナリストを囲んで、参加者が意見交換しました。次の講座があるため、講義室を開けなければならず、「皆さん、もしよろしければ、続きを構内のカフェでしませんか?」と彼が呼び掛けました。その呼び掛けに、「ぜひ、お願いします!」と手を挙げたのが、私と若い女性の2人でした。

 カフェで、コーヒーを飲みながら話は盛り上がりました。彼は元新聞記者だったころから、親近感もわきました。私ともう1人の女性が自己紹介をしました。私は元新聞記者であること、厚生労働省担当だったこと、がんや自己免疫疾患などを患いその闘病記を出版社のノンフィクション賞に応募して最終候補に残ったことなどを話しました。私は、次の「がんと日本人」の講座があったため、彼のメールアドレスを聞いて、途中で退席しました。

 帰宅後、お礼のメールを送ったところ、すぐ返信が来ました。「新しいニュースサイトを開設予定です。ご興味があれば、デモサイトをのぞいてみてください」という内容でした。そして、何度かのメールのやり取りの後、「医療記事を書ける人をちょうど探していたところです。ニュースサイトの代表も交えて、ぜひお会いしましょう」との誘いを受けました。3人で会いました。代表は、民放テレビで解説委員をしているジャーナリストでした。

 ニュースサイトの概要を聞いた後、「医療記事を1本書いてください。2000字、写真付きで」と頼まれました。もちろん、「ぜひ、書かせてください」と即答しました。取材など、10年以上もしていませんので、自信はありませんでした。が、書く機会を逃すわけにはいきませんでした。

 会合の帰り、紹介をしてくれたジャーナリストに「2000字はどれくらいの長さですか?」という初歩的な質問をしました。新聞記事は「●行」と数えるため、「●字」と言われても大まかな長さが分からなかったのです。その後も、メールで「取材のため名刺を作ります。肩書きはどうしたらよいでしょう?」という間の抜けた相談までしました。彼は、いつでも迅速に、丁寧に、誠実に答えてくれました。

 書くテーマは迷いました。新聞や雑誌・書籍で医療関係のニュースは追っていたつもりですが、ブランクが長過ぎて、何をテーマにしてもしっかりとした記事を書ける自信がなかったのです。夫に相談しました。夫はネットで海外ニュースを日々読んでいます。英米を中心にローマ法王やトランプ米大統領までコメントを出すほど大きな話題になっているニュースはどうだろうか?と提案してくれました。新聞のデータベースで調べると、日本ではほとんど記事になっていませんでした。人工呼吸器をつけて生きている、進行性の難病を患う乳児の話です。

 テーマをそれに決めました。インターネットで英米の新聞・雑誌記事を探してプリントアウトして読み込み、英国の病院や裁判所、大学などのサイトを調べて関連資料を探して読み、日本での取材先を探して(困難を伴いました)取材をして、1週間家にこもって記事を書きました。

 家族で他県の保養地でのんびりとする予定でしたが、私は行かずに、家で資料の読み込みと記事執筆に集中しました。夫はそのときも快く、子供たちを連れて行ってくれました。

 そして、ようやく記事が出来上がり、投稿したのは8月2日。その後は、取材すると次のテーマが見つかるーという良い循環の中で、1カ月に1本程度ですが、家事・育児をやり繰りしながら下調べや取材・執筆をして、出稿しています。現在は、少し長めの原稿に取り組んでいる最中です。

 ブランクの長さにも関わらず、ジャーナリズムの世界に再び呼び戻してくれた2人のジャーナリストには感謝の気持ちでいっぱいです。また、全面的に協力してくれる夫にもとても感謝をしています。

 先日、「お茶を一緒にした女性とは連絡を取っているのですか」とジャーナリストに聞いてみました。その女性は熱心に彼に質問し、自分の意見も持っている人でした。彼によると、その女性はあの後会社を辞め、アメリカに留学したそうです。彼女も、あの講座で何かきっかけを掴んだことが、人生の転機となったのかもしれません。

 考えているだけでなく実際に行動することで何かに出会えたり、きっかけがつかめる。その出会いやきっかけを大切にすることで、前に進むことが出来る。今年はそんなことを学んだ1年でした。

2017年、私の挑戦① トゥシューズを履く

 2017年は、2つの新しいことに挑戦しました。1つは念願のトゥシューズを履いたことです。そうです。あのバレエのトゥシューズです。

 私がバレエを始めたのは、49歳のときです。40代にそれまで躊躇して出来なかったことを思い切ってやってみようと挑戦したことの1つでした。気になっていた近所のバレエスタジオの門を叩きました。体験レッスンを申し込むための、教室の主宰者へのメールには「バレエは初めてです。40代です」と書きました。

 「今年、50歳になります」なんて、書きませんでした。何せ、「40代に始める」というところに、意味があるのですから。

 ちなみに、40代最後の年にした、それまで躊躇して出来なかった、もしくは機会を逸して出来なかったほかの2つは、①コンバースのスニーカーを履く②ダッフルコートを着るーです。いずれも、”若い人”の装いです。これらもハードルが高いと感じていましたが、バレエと同様、「挑戦してみたら、意外と普段の生活にすんなりと馴染む」ものでした。

 そのスタジオの主宰者は、かつてイギリスのバレエ団に所属し、後進を育成するために帰国してスタジオを開いたという容姿の美しい30代の女性でした。もちろん、子供のレッスンが主ですが、大人向けのレッスンも行っています。

 午前中のレッスンを体験し、さっそく入会を申し込みました。午前9時半から始まるレッスンに参加していたのは主婦やパートタイムで働いている人がほとんど。子供のころにバレエを習っていたという人も幾人もいました。

 1年ほど週1回のレッスンをこの時間帯に受けていましたが、途中で夜のレッスンに切り替えました。夜のレッスンにはフルタイムで働いてへとへとの状態のワーキングウーマンが来ます。レッスン中の、「うちの上司、使えなくてさぁ」「最近の若い新入社員は・・・」「今度こそ、部署替えだと思う」などという、話を聞くのが面白い。

 私は主婦ですのでこれらの話には参加できませんが、ワーキングウーマンの話を聞くとほっとするのです。夜のレッスンに切り替えた理由は、これです。場に馴染みやすかったのです。

 週1回、夫が早く帰って来られるときに子供たちを頼み、午後7時半から8時45分までのレッスンに参加します。スタジオは自転車で数分の場所にありますので、「雨が降ったら、行かない」という”緩い”感じで、3年間続けました。そして、3年を過ぎた今夏、恐る恐る先生に聞いてみました。

 「入会して3年経つのですけれど、そろそろトゥシューズを履いてもよろしいでしょうか」、と。

 勇気が要りました。何せ、普通のバレエシューズででさえ、きちんと踊れないのですから。ですので、策を練りました。同時期に入会した女性を誘ったのです。彼女も、私より少し若いぐらいの”すっかり大人”の女性です。

 「いいですよ。今度、シルビア(バレエ用品を売る店)さんがスタジオにトゥシューズを販売に来てくれるんですよ。そのときにフィッティングしてもらったらどうですか?」

 意外にもすんなり「OK」が出ました。でも、側で会話を聞いていた入会2年の女性の、「先生、私も始めていいですか? 私、来年還暦なんです。それまでにトゥシューズ履きたいんです!」という切なる願いは聞き入れられませんでした。先生曰く、「今の状態で履くと怪我をするかもしれない。危ないのでもう少しレッスンに慣れてから」ということでした。

 「還暦」という言葉を持ち出して、先生の情に訴えたその女性の度胸には感心しました。私も50代に入りずいぶん図々しくなったと思いますが、上には上がいるものです。

 さて、トゥシューズを履いた感触はというと、やはり「痛い」のが一番の感想。でも、うまく立てたときに鏡に映った自分は、少し普段より綺麗に見えるような気がします。首と背筋がすっと伸びていて、足もトゥシューズ分だけ長くなるからです。つま先だけで立つためにお腹に力を入れますので、普段はたるんでいるお腹も一瞬だけ引き締まります。フロアに降りた瞬間、お腹はまた緩みますが。

 ぼちぼちと続けているバレエ。数年後には発表会に出られるように、頑張ります。
 

 

遠方の親、どう見守る?

 遠方で一人暮らしをする親をどう見守るかー。これは働き盛りの人たちの大きな悩みではないでしょうか? 私も、札幌で一人暮らしをする母のことを常々心配しています。逆に母は、私が子育て真っ最中で忙しいことを気遣ってくれ「お母さんは大丈夫だよ」と言い、痛む膝を引きずりながらも自立して暮らしてくれています。ありがたいことです。

 全く大したことはできませんが、私自身の体調が良くなってから、出来る範囲で様子を見に行っています。春・夏休みは子供たちを連れ、週末にかけて帰るときは幼稚園生の息子を連れて帰りました。そして、10月に初めて、夫に子供たちを預けて一泊二日の強行スケジュールで帰省。それが案外うまく行ったので、今月中旬にも一人で帰省しました。子供や夫にもさほど迷惑が掛からず、私自身にもストレスがかからず、母も気兼ねなく私との時間を楽しめたようです。  

 スケジュールは次のような感じです。朝5時半に自宅近くのバス停から直通バスに乗り、羽田空港へ。4、50分で空港に着きますので、7時半発の飛行機で新千歳空港へ。同空港から札幌行きの直通バスに乗り、終点ターミナルで路線バスに乗り換えます。実家に着くのは午前11時半。ドア・ツー・ドアで6時間です。

 実家では母が、私の好物を料理して待ってくれています。二人でたっぷりおしゃべりしてから夕食。夕食後はお風呂に入って、枕を並べて寝ます。翌日もゆっくりとして、午後のバスで新千歳空港へ。飛行機が順調に飛べば、家族との夕ご飯に間に合います。

 その話を仙台の友人にすると、函館に一人暮らしの母がいる彼女は、「新幹線が函館まで通って、本当に助かっている」と語ります。「仙台から3時間もかからないの。おばあちゃんっ子の大学生の息子も、時折一人でおばあちゃんに会いに行っている」とのこと。なんて、幸せなおばあちゃんでしょう。

 仕事仲間の男性は、小樽で母親が一人暮らしをしています。小樽は坂の多い街。車を運転しない母親の、食料品や日用品の買い物を手伝うために、冬は頻繁に帰省しているようです。彼の場合は新千歳空港でレンタカーを借りて、小樽に向かうと言います。「スタッドレスタイヤで坂道を走るのは不安でしたけど、地元の人に冬道の運転の仕方を教えてもらってから、不安が減りました」と苦笑します。

 彼の主な仕事はプログラミング。「小樽にいても出来る仕事を1週間分ぐらいまとめて帰省するようにスケジュールを組んでいるんです」と語ります。

 住宅リフォーム会社に勤めていた知り合いの建築士の男性は、昨年50歳を目前に会社を辞めました。函館に一人暮らしの父親がおり、数か月に一度、帰省して様子を見に行っているうちに、故郷の魅力を再認識したと言います。そして、東京の会社で培ったリフォームの技術を故郷で活かしたいと、函館に事務所を構えました。

 函館は港町として栄えた、魅力的な街。モダンなデザインの建物も多く残っているといい、その活用に彼の知識と経験を活かしてほしいと地元で期待されているようです。彼は現在、妻と大学生の子供2人と東京に住み、函館に出張する形で仕事に取り組んでいます。「いずれ子供たちが独立したら、函館に移り住みたい」と夢を語ります。

 ”内地”(北海道から見た本州)に出てしまった子供(中年の)にとって、故郷北海道はやはり海を渡る遠い地。また、親にとっても内地は、たとえ子供から「こちらに来て一緒に住まない?」と提案されても、おいそれとは行ける場所ではありません。やはり、子供が子育てや仕事をやり繰りして、時折親の様子を見に行くのが精いっぱいでしょう。

 それを「たいへん」と思わずに、発想を転換して、前述の2人の男性のように親の住む地で出来る仕事を開拓している話は、聞いていて気持ちが明るくなります。また、私の友人のように大きくなった子供が祖母の様子を見に行くーという話も、「うちの子どもも、もう少し大きくなったら」と参考になります。

 では、親が要介護の状態になったらどうするか。横浜在住の友人で、札幌で一人暮らしの父親が車いす生活になってしまった人がいます。彼女はその時に思い切って、横浜市内に特別養護老人ホームを見つけて、父親を入居させました。何件も探し、部屋に空きが出るまで待ったと言い、「入居出来て、ラッキーだった」と振り返ります。

 車いすに乗る父親を新千歳空港から飛行機に乗せるのは大変だったと言いますが、頻繁に父親の見舞いに行けて、洗濯などの世話も出来て安心なようです。彼女の話を聞いていると、親は自立して生活できるギリギリまで自宅で生活し、要介護という状態になったら、子供の近くの施設に入居するーという形が現実的なのかもしれない、と思います。

 さて、今月帰省したときに、母が杖を見せてくれました。杖の先端に雪道でも使えるよう金具の滑り止めが付いているものです。ワンタッチで、金具を出し入れ出来る優れものです。

母は、「1500円払って、オプションで、どこでも杖を立てかけられる部品を付けたの。これが便利なのよ」と自慢げに話します。杖を使うようになって落ち込んでいるかな?と想像していましたが、意外にも気にしていない様子でした。

「杖をついて歩くことなんか、全然気にしていない。だって、若い人だって杖ついて歩いているもの。世の中、膝が痛い人は結構いるのよ」

母のこんなサバサバとした言葉も、娘を心配させまいという気遣いからなのだろうな、と思っています。遠方の親を見守っているつもりでも、やっぱり見守られているのはこちらのほうなのですね。
 

2017年12月25日月曜日

サンタさん、信じてる?

「おねぇねぇ起きて!サンタさん、来たよ!サンタさん、来たよ!」
 クリスマスの朝、息子の弾んだ声が娘の部屋から聞こえてきました。イブの夜はサンタさんが来るのを待って、娘の部屋で一緒に寝たのです。息子が嬉しそうにサンタさんからのプレゼントを持ってきて、私と夫に見せてくれました。

「サンタさん、来てくれたんだね。良かったね。おねぇねぇにもプレゼントくれたみたい?」
「うん」
  娘の部屋をのぞくと、娘は起きていましたが、まだベッドの中。でも、「サンタさんがプレゼントくれたの」と嬉しそうな、そしてほっとしたような表情を浮かべています。

 前日は2人ともサンタさんを迎える準備で大忙しでした。娘は1時間以上かけて、サンタさんにイラスト入りの手紙を書きました。 
部屋の窓の鍵を開け、サンタさんが入って来やすいように、窓の下に踏み台を置きました。サンタさんにはアップルパイとクッキーと牛乳を、トナカイさんにはニンジンを用意し、机の上に置いておきました。そして、インターネットでサンタさんの居場所をチェックしながら、「いま、太平洋を渡っているよ!もう、寝なきゃ」と興奮しながら2人で一緒にベッドに入り、ようやく10時過ぎに眠りについたのです。

 2人が窓の下に置いた踏み台には、ニンジンのかけらがいくつか落ちています。 

「トナカイさんが、落としていったんだね」と息子。「サンタさんはアップルパイとクッキー食べたかな?」と聞くと、「食べたよ。急いでいたんだね、残しているけど」と娘が答えます。机を見ると、皿の上のアップルパイは食べかけで、クッキーはなくなっています。牛乳も半分ぐらい飲んでいるでしょうか?ニンジンはいくつか机の上にこぼれています。
 

 今年は2人ともサンタさんに手紙を書いたのがクリスマスイブだったため、机の上に置いておきました。私も夫も「サンタさんに送って!」と頼まれましたが、「もう、今から送っても間に合わないよ」と机の上に置いておくように説得したのです。

 サンタさんは手紙は読んだらしく、封は切ってありました。が、持ち帰らなかったようで、皿の横に置いたままになっていました。娘のサンタさんへの手紙はとても良く描けていました。「サンタさん、持っていかなくて良かった。素敵に描けているから、額に入れて飾ろうね」と私。

 娘はプレゼントの袋を開けた瞬間、歓声を上げました。魔法の杖の使い方説明書と「ハリー・ポッター」の本が入っていたのです。娘は3年前にサンタさんにお願いして魔法の杖をもらったのですが、何度杖を使っても魔法をかけることが出来ず、翌年とその次の年に魔法の杖の使い方説明書をお願いしていたのです。今年、やっと念願がかないました。息子には「フラッシュ」の本でした。
 

「サンタさん、いるのかなあ?」とイブの夜、少し不安そうに私たちに聞いた娘。
「友達が皆、サンタさんは親なんだ、親がプレゼントを用意してくれるんだって言うんだよね。私はサンタさんはいるって信じているんだけど」
夫が答えました。
「うーん、ティーンエイジャーは微妙な年齢だからなぁ。もう、プレゼントをもらえないかもしれない。ダディもプレゼントをもらえなくなったのは君ぐらいの年だった」
「あら、サンタさんはサンタさんを信じている子供にはプレゼントをくれるらしいわよ」と私。
3人でそんな会話をした翌朝、娘は枕元にプレゼントを発見し、ほっとしたようです。

  うちの子どもはまだサンタを信じているかー。これは小学校高学年ぐらいの子どもを持つ多くの親がクリスマス前に考えるテーマではないでしょうか? 私も娘の学校のママ友達と、忘年会で盛り上がりました。
「うちの娘は友達からサンタは親だって言われて、今年はもう信じていないのよ」
「あら、うちには去年からサンタは来ないわよ」
「えっ?そうなの?」

 忘年会に参加していたのは12、13歳の子どもを持つ母親5人。その中で、サンタさんの存在を信じていたのは、13歳の私の娘だけでした。娘は「サンタさんは絶対いる」と頑なでした。いいえ、いると信じたかったのだと思います。が、だんだんその気持ちも揺らいでしまい、クリスマスイブの「サンタさん、いるのかなあ?」という弱気な発言になってしまったようです。

 さて、サンタさんからプレゼントをもらって喜んだ娘は、さっそく魔法の杖の使い方説明書を読み、杖を使ってみることにしました。まずは、鍵のかかっているドアを開けることにしました。息子が寝室に入りドアを閉めて鍵をかけました。娘がドアの外から魔法をかけます。

「Alohomora!」

「開くかなあ?」
娘がドアノブを回します。
「開いたよ!開いた!」
「すごいねえ」と感心する私。

 どうして魔法をかけられたのか分かりませんが、とにかくドアは開きました。魔法が効いたということで、私は娘に聞いてみました。
「ねぇ、ママの顔のシミも魔法で消えるかな?」
「・・・。たぶん、そういう魔法はないと思う」と娘は申し訳なさそうな顔で答えます。が、すぐにこりと笑って「でも、あるかもしれないよ。後から説明書をじっくり読んでみるね」と言ってくれました。

 信じる者は救われるーというではありませんか。私もサンタさんの存在と魔法を信じることにしましょう。

2017年12月24日日曜日

カセットテープ

  私は39歳のときに、新聞記者の仕事を辞めました。血液がん治療後の高齢妊娠で、「仕事か子供か」の選択を迫られ、熟慮の末「子供」を選びました。苦渋の決断でした。後に仕事への思いを断ち切れない自分を責め、集めた書籍や資料、仕事用スーツ、膨大な量の名刺など、あらゆるものを処分しました。その中で捨てられなかったものがあります。1つは自分の記事のスクラップブック、もう1つは1個のカセットテープです。

 カセットテープは、イギリスの作家へのインタビューを録音したものです。私はその作家が大好きで、来日したときに取材する機会に恵まれました。英語でのインタビューを試みようとしたため、記事執筆時に表現等の確認をすることもあると考え録音したのです。作家は、今回ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロです。

 彼へのインタビューで覚えているのは、まなざしの優しい、穏やかな話し方をする人だったことです。そして、果敢にも英語でのインタビューを試み、途中、彼が話す英語の表現が分からず質問を繰り返した私に、優しく「通訳の方にお願いしても良いのですよ」と言ってくれたことです。私は恐縮しながら、同席していた通訳の方に頭を下げ、途中で日本語でのインタビューに切り替えたのです。

 カズオ・イシグロは、ノーベル賞候補と期待されている村上春樹と比較されることが多々あります。また、この二人は友人同士だとも聞きます。私は村上春樹も大好きで、作品はほとんど読みましたが、やはり、カズオ・イシグロのほうが好きです。

 両者はともに才能溢れる素晴らしい作家で、私は、彼らの作品を読むときは至福のときを過ごします。が、私にとって大きく違う点は、村上春樹の作品は私の心の奥には残らず、カズオ・イシグロの作品は心の奥底まで深く染み入り、残り続けるということです。

 カズオ・イシグロの作品には、生きることのやるせなさ、切なさがとても良く描かれています。私がカズオ・イシグロを最も好きな作家と挙げる理由はその点にあります。彼の作品を読むと、心を大きく揺さぶられるのです。自分の心の奥深くあるものと共鳴するのかもしれません。

 彼の作品の中で1番好きなのは「日の名残り」、そして次に「わたしを離さないで」です。いずれも、抑制の効いた筆致で描かれていますが、心に深く残る作品です。

 今回、このブログを書くにあたり、屋根裏部屋に行き、スクラップブックをしまってある黒い大きなスーツケースを開けてみました。暗がりの中で、スクラップブックをまとめた紐にはさみを入れ、カズオ・イシグロの記事を探しました。見つけた記事の中の彼は、髪が黒く、若い。日付は2001年11月7日、16年も前です。記事を読むと、作品の中に息づく「日本人性」に焦点を当て、彼の「これまでも今後も、私の作品の根底には、日本人としてのアイデンティティーがあるのではないでしょうか」という言葉で締めくくっています。
スクラップブックのページをめくると、次のページには「ハリー・ポッター」を翻訳・出版した出版社の女性社長のインタビュー記事を貼っています。写真も記事としての扱いも、カズオ・イシグロの記事より断然大きい。あのころは、彼が将来ノーベル文学賞を受賞するとは、誰も想像しなかったと思います。私も、発表のニュースを見るまで、全く想像しませんでした。

 彼の肉声はどのような感じだったのだろう、とカセットテープを聞こうと思い立ちました。が、どこを探しても自宅にはカセットレコーダーが見当たりませんでした。この16年の間に、録音機器も大きく変わったのです。

 今度家電店に行ったときにでも買って聞こうか、それとも、また机の引き出しの奥にしまい「いつか、聞いてみよう」と楽しみにするのが良いか、迷っています。

2017年12月19日火曜日

娘の反抗

 私は幼稚園から中学校まで、エレクトーンを習っていました。鍵盤が2段(3段)あり、足で弾く鍵盤も付いている楽器です。昭和13年生まれの母が、「近所の友達がオルガンを弾いていて羨ましかった」という思いをずっと抱いていたため、一人娘の私に当時流行していたその楽器を習わせてくれたのです。

 高校生になり、運動部の活動が忙しくなったため続けられませんでしたが、私が今でも一応楽譜が読めて、つっかえながらでも鍵盤を弾けるのは、母のお陰です。そんな経験から、子供たちにも「何か楽器を」という気持ちがあり、たまたま娘がサンタさんに頼んだことがきっかけでヴァイオリンを習わせることになりました。その流れで息子にもヴァイオリンを習わせています。

 エレクトーンで弾く曲の中で、とても好きな曲がありました。「エストレリータ(小さな星)」という曲です。エレクトーンで弾く曲はクラシックよりもジャズやボサノバなどが多いため、ヴァイオリンと重なることはあまりありません。が、そのメキシコの作家による「エストレリータ」だけは、幾人もの著名なヴァイオリニストのCDに収められており、私は車を運転するときなどによく聴いていました。

 流れるように美しい旋律で、特に転調するときの心を揺さぶられるような、終わりに向かうときの心にしみ入るような音色には、何度聞いても胸を打たれます。
https://www.bing.com/videos/search?q=arthur+grumiaux+estrelita&&view=detail&mid=97A914BC7022695F9BA997A914BC7022695F9BA9&FORM=VRDGAR

 この大好きな曲を来年1月に開かれる発表会で弾いてほしいと娘に頼みました。娘は「いいよ」と嬉しそうに答えてくれ、先生にも楽譜を探してもらいました。そして、毎日、娘が練習する「エストレリータ」を聞いて、私は気分良く家事をしていました。

 ところが、ある日。練習が終わり、私が「もう一度弾いて」と頼むと、娘が「どうして、ママがリクエストするたびに弾かなければならないの?」と言葉を返したのです。娘には珍しい反応です。私は「いいよ、また、明日聞かせてもらうね」と答えました。娘は「ごめんね、ママ」と言って、ヴァイオリンを仕舞いました。

 そして、次のヴァイオリンのレッスンのとき。先生に「全然、素敵に弾けていない。どういう風にこの曲を弾きたいかイメージがしっかり出来ていないから弾けないのよ」と注意されていました。私には十分素敵に聞こえましたが、先生の期待するレベルはずっと高いのでしょう。娘はこう先生に答えました。

 「私は、この曲を全然素敵だと思っていないんです。だから、素敵になんか弾けない」と。そして、続けました。「この曲は、ママに勧められて発表会の曲に選んだんです。私が弾きたいわけではない」と。娘の目には涙が浮かんでいます。

 先生は毅然として娘に言いました。
「あなたがママのリクエストに応えて弾くと決めたのだったら、たとえ自分が好きでなくても、ママに素敵だ感じてもらえるように弾きなさい」
「ママはいつもCDでこの曲を聴いていて、素敵でしょ、って言うけど、私は全然素敵だと思わない」
「素敵だと思わなくても良い。素敵だと思わない曲を弾くことはこれからだってたくさんある。でも、たとえあなたが好きだと思わなくても、お客さんに素敵だなと思ってもらえるように弾かなければ駄目なの。今回の発表会の課題は、自分が乗らない曲をいかに素敵に弾けるか、お客さんを感動させられるかにしましょう」

 レッスンが終わり、私は先生に言いました。
「先生、申しわけありませんでした。私がこの曲が好きで娘に頼んだのです。この曲は止めてもらっても構いません」
娘は発表会で、もう1曲、娘が選んだ曲を弾くことになっています。

 私は娘にも謝りました。「ごめんね、申しわけないことしちゃったね。大丈夫だよ、弾かなくても良いよ」

 娘は涙を浮かべて言いました。「私は、ママに喜んでもらいたくてこの曲を弾くことにしたの。だから、弾く」と言います。
 先生は、「この曲、素敵なんですけどね」と私に言います。私も、「そうなんですよね。私もとても良い曲だなって思っているんですけど・・・」と答えました。

 そのレッスンの日から次のレッスンの日までの1週間、娘は一度もヴァイオリンに触れませんでした。もともと、私に言われなければ、練習しませんでした。「楽器を弾けると子供たちの人生がより豊かになるかもしれない」と考えていた私の希望で、続けさせていたのです。娘はその私に素直に従い、弾いていただけだったのかもしれません。

 練習をしないで臨んだレッスンの次の週も、レッスン日の前日まで一度もヴァイオリンに触れませんでした。前日、気が付いた夫が「練習しなさい」と言い、30分ほど弾いただけでした。

 発表会は来年1月21日。いったい、どんな風になるでしょう。娘の気持ちを考えず、自分の好きな曲をリクエストしてしまったことを、私は深く反省しています。娘がヴァイオリン嫌いにならないことを、願うばかりです。