2017年6月27日火曜日

母の日のクッキー

 今年の父の日(6月18日)には、ウエストラインが気になり出した夫に、近所のスポーツクラブの会員権を贈りました。たまたま手数料や会費が割引になるキャンペーン中だったため、お手頃価格で8月分までの会費を支払えました。「気に入ったら、9月分からは自分で払ってね」と期間限定のプレゼントでしたが、夫は大層喜びました。子供たちからは素敵な絵が贈られ、良い父の日になったと思います。

 父の日が終わって落ち着き、私は冷蔵庫に大切に入れてあった「母の日」のプレゼントをもうそろそろ食べようと決断しました。息子が幼稚園で作ってくれた、私の顔の形をしたクッキーです。母の日の週の金曜日(5月19日)にプレゼントしてもらい、食べるのがもったいなくて1カ月間も冷蔵庫に入れていたのです。取り出して眺めてはまた仕舞うーを繰り返していましたが、「賞味期限が過ぎてしまうのでは」と気になり始めていました。

 息子の通う幼稚園では毎年、母の日の行事が行われます。円状に並べられた可愛らしい椅子に座った園児の後ろに、それぞれの母親が立ちます。園児たちは子供讃美歌「おかあさんだいすき」を歌ってくれ、手作りのプレゼントをくれるのです。毎年、プレゼントの内容は違い、幼稚園最後の今年はクッキーでした。目をつむって“サプライズ”でプレゼントをもらった母親たちは皆、子供を抱き締め礼を言い、隣の母親らとそれぞれのクッキーを見せ合い、幸せなひとときを過ごしました。

 その幸せな気持ちのまま息子を自転車の後ろに乗せて帰宅し、クッキーを冷蔵庫に入れたとき、私はふと7年前の母の日のことを思い出しました。娘が幼稚園年長組だったときのことです。そのとき私は入院中で、私の母が病院に「これ、母の日のプレゼントだよ」と娘が作ってくれたクッキーを持ってきてくれたのです。そのときももったいなくて、クッキーをしばらくベッド横の冷蔵庫に入れておき、毎日取り出しては眺め、娘を想っていました。

 息子にクッキーをもらったことで、そのときの記憶が蘇りました。私はがんの再々発の後、患っていた自己免疫疾患の薬を減量中に別の自己免疫疾患を発病して緊急入院という状態で、病気との闘いに疲れ切っていました。そのような中、娘の手作りのクッキーは私の心の癒しとなってくれました。ですが、娘がそのプレゼントを誰にどういう状態で渡したのかということに、思いが至りませんでした。当時は先の見えない治療で不安も多く、病気の連鎖の中「私はもう長くないのではないか」という予感もあり、娘に何を残せるのかを考えるのに必死でした。ですので、娘の世話については娘を溺愛する夫と私の両親がいるから大丈夫だという気持ちだったのです。

 私は息子からもらったクッキーを眺めながら、胸が詰まった気持ちになりました。娘は一人ポツンと、母親が後ろにいない状態で、この園で歌い継がれている「おかあさんだいすき」を歌ったのでしょうか? そのクッキーを手に持ち、皆が後ろを振り返り母親にプレゼントをしたとき、一人もじもじとしていたのでしょうか? 手伝いに来てくれていた私の母親が後ろに立ってくれたのでしょうか? それとも、幼稚園の先生が立ってくれたのでしょうか? いずれにしても、寂しい思いをしたに違いありません。

 先日、子供たちの習い事の送迎やPTA活動で忙しく少々疲れ気味だと娘に話したとき、娘はこう言いました。

「ママ、そういう風に元気にしていられて幸せだと思うようにしたほうが良いよ。私が幼稚園生のときはママ、ベッドやソファに寝てばっかりで、公園にも連れていってもらえなかったんだから。私はソファに寝ているママの横で絵ばっかり描いていたんだよ。まあ、だから絵が得意になったんだけど」

 そんな大人びた言葉を言うようになった娘に感心しつつも、娘が過ごしただろう幾日もの寂しい日々を申し訳なく思い、現在こうして元気に過ごせることに感謝しなければと気持ちを引き締めたのでした。

 娘に、あのときの母の日のクッキーは誰に渡したのか、聞いてみました。娘は、「覚えていないよ。幼稚園のときの記憶はほとんどない。悲しいことも楽しいことも覚えていないの。覚えているのは悔しい思いをした2つの出来事だけ。私は悪くないのに先生に叱られたことと、お友達にいじわるなことを言われて泣いたこと」とあっさり。過去を振り返り、切なく思うのは大人だけなのでしょうか? それとも辛くて悲しいことは忘れてしまうという防御反応が娘の脳に働いたのでしょうか?

 息子からもらったクッキーは、ほんのりと甘く、素朴で優しい味がしました。記憶の中にある、病院のベッドで一口一口味わうようにして食べた、娘からもらったクッキーと同じ味でした。



 

2017年6月18日日曜日

世界中が見えた?

  普段より帰りが遅いため心配し始めたころ、娘から電話が来ました。
「ママ、これから帰るから」
「遅いから心配し始めていたよ。今、どこ?」
「学校」。娘は即答します。

 携帯電話を通して娘の声の背後に聞こえるのは、街のざわつきでも、友人の家の静けさでもありません。大きな建物の中での人の行き来や作業、会話が作り出す雑然とした物音です。娘は嘘をついていないでしょう。

「学校? もう5時半よ。3時半に授業が終わってから今まで何していたの?」
「友達と遊んでいたの」
「学校で? とにかく、遅くなるから帰ってらっしゃい」
「うん」

 ほどなく夫からメールが来ました。早めに仕事が終わったので、娘と連絡を取り、一緒に帰ってくるといいます。私はほっとして、夕ご飯の支度に戻りました。娘の電話から約1時間後、「そろそろ、家に着くころかしら?」と思っていたころ、玄関から夫が娘を厳しく叱る声が聞こえました。何事かと、玄関に。ドアを開けた夫が開口一番、言いました。

「放課後、学校の屋根に上ったというんだ。先生に見つかって叱られたらしい。今日は午前中雨だったんだ。屋根が濡れていて、もし足を滑らせて落ちていたら、今ごろ病院だよ。本当に信じられないことをする」

 夫はかんかんに怒っています。続いて玄関に現れた娘は大泣きして、私の体に覆いかぶさるようにして抱き付き、言います。
「ごめんなさい。ママ。もう、絶対、屋根には上りません」

 中1の娘が、学校の屋根に上って先生に叱られたー。私は、胸をなでおろしました。先生方に迷惑をかけて不謹慎ですが、娘の帰りが遅くなった理由が子供らしかったからです。

 身長165cmで長い手足を持つ娘は、外見は高校生に見えます。椅子に座り、足を組み、長い髪をかき上げる後ろ姿は、親の私がドキリとするほど大人びています。少女から女性に成長しつつある娘を持つ親なら誰もが心配することを、私も心配し始めています。そんな心配が吹き飛ぶような、娘が取った子供らしい行動に、私は愛おしさを感じずにはいられませんでした。

 そんな私の心の動きが見えない夫は、娘への叱責を続けます。
「もう、絶対に屋根に上っては駄目だ。いいかい? 本当に、まかり間違えば、致命的な怪我になったかもしれないんだよ」。感心するほど、子供たちの安全を気遣う夫の言うことは、もっとも。だから、私は泣きじゃくりながら私に抱き付く娘の耳元でこっそりと聞いてみました。

「で、楽しかったの?」

 娘は私から体を離し、驚いた顔で私を見ました。そして、涙の滲んだキラキラとした目で説明してくれました。

「うん。楽しかったよ。屋根から見える景色は、すごくきれいだった。横浜の海も見えたんだよ。世界中が見える感じがした」

「そうなの。それは良かったね。でも、危ないからもう屋根には上っては駄目よ」
「うん」。娘は泣くのを止めました。

 後日、学校に行き、娘が上ったという建物を見上げました。幼稚園児が学ぶ校舎で、三角屋根が可愛らしい三階建ての建物です。屋上の一部が遊び場になっており、建物の外壁に地面から屋上に続く階段が付いています。娘によると、この階段を上って遊び場に入り、そこから続く屋根に上ったといいます。同じくお転婆な友人と一緒でした。

 屋根とそこから広がる空を見上げながら、私はわくわくしました。今でしか出来ないことを、娘はしたのです。友人と屋根の上に座って眺めた風景を、娘はきっと忘れないでしょう。そんな素朴で素敵な思い出を作れた娘を、頼もしく誇らしく思ったのでした。


2017年6月6日火曜日

ついにこの日が・・・

「ねえ、背伸びしているの?」
朝、洗面台の鏡に向かって娘と並んで歯を磨いているときに聞きました。娘の顔が、私の顔よりずっと上に映っていたからです。
「してないよ」と娘。「本当?」と疑いながら娘の足元を見ると、かかとがしっかりとフロアについています。

 私は鏡をまじまじと見ました。小顔で首がすっきりと長い娘に比べ、横に立つ私はずんぐりむっくりとした体から伸びる短い首に大きな顔がくっついていて、それはバランスが悪い。「まあ、いいか。バランスが悪いまま52年も生きてきたんだから」と、鏡に向かって”諦め顔”を作ります。

 「背測ってみる?」。鏡の中の娘に聞いてみました。「うん!」と娘が元気に答えました。リビングの壁に娘を立たせて、巻き尺を伸ばして測ってみると、なんと165cm。私よりも5cmも高い。どうりで、背伸びをしているように見えるはずです。

 「ついにこの日が・・・」と、娘の背が私を追い越したことに気が付いたのは半年前。それも、今回のように、洗面台の鏡に向かって歯を磨いているときでした。それからあれよあれよという間に差が広がりました。夫は身長195cmですので、体形が夫に似ている娘の背はもう少し伸びるでしょう。本人は「180cmぐらいにまで伸びればいいな」と希望しているようですので、どうせならそこまで伸びるのを期待したいところです。

 背が伸びるのに伴い、足もサイズも大きくなっています。今は26cm。もちろん、日本では中1の女子が履くような、シンプルでフラットな靴は探せませんので、アメリカに住む義母に送ってもらっています。「もうそろそろ、止まってくれれば良いのだけれど・・・」と、送ってもらったばかりの新しい靴が小さくなるたびに、ため息が出ます。娘の足のサイズが、私のサイズ(24cm)より大きくなったのは、娘が小学校4年生のとき。あのときは感慨深いものがありましたが、娘に越されていくのも、慣れてきました。

 先日、娘の学校のママ友達に、娘の身長の話をすると、逆の話をしてきました。その人は白人のアメリカ人。背も高い。彼女が言いました。「中3の息子の身長が、まだ私より低いのよ。もう少し伸びてくれれば良いのだけれど」と少し困った顔で言いました。彼女の夫は小柄なアジア人。アジア人の血を引くと、たとえ片方の親が大きくても、背が小さくなるケースもあるのでしょう。

 さて、子供の成長が早い時期は、いろいろなものが間に合わずに、困ることがあります。今年の2月、娘が学校のスキー旅行に行ったときです。昨年のスキー旅行のときに準備した、ユニクロの厚手の女性用ソックスが「小さくて、かがとがきちんと入らないの」と言います。前日の準備でもう時間がない。窮余の策で思い付いたのが、夫の靴下です。夫のクローゼットの引き出しを開け、何回か洗って縮んだ靴下を引っ張りだしました。

 夫の靴下を娘に履かせるー。そのときも「ついにこの日が・・・」と苦笑しました。もちろん、”お年頃”の娘にはその事実は言いません。何せ、夫の靴サイズは31cmなのですから。

 「ママの靴下、大きくて履いてなかったの。これはどう?」
 嘘も方便です。履いてみた娘は「ちょうど良いよ、ママ。ありがとう」と嬉しそうな表情でスキー旅行の荷物詰めを続けました。

 乙女心を傷付けずに、乙女サイズをすっかり越してしまった娘に、無難に対処する。「母親の手腕は、こんなところでも問われるのだわ」と私は心の中で胸を張ったのでした。 

 

2017年5月11日木曜日

ポール・マッカトニーコンサートへ

 ポール・マッカートニーのコンサートに行ってきました。2年ぶりに行われた日本ツアーの最終日、4月30日の東京ドーム公演です。ポールは「ビートルズ」のときと変わらぬ歌声で、ドームを埋め尽くした観客を魅了。私も、夢のような時間を過ごしました。
 


 ポール・マッカートニーのコンサートに行ったのは2年前に続いて2回目。前回と同様、熱烈な「ビートルズ」フォンの夫と行きました。チケットは、販売サイトにチケット発売が決まった段階で連絡がもらえるよう事前登録し、抽選を経て入手しました。

 開演2時間前には東京ドームの入り口に並びました。会場と同時に入場。ポールの大型ポスターの横で夫の写真を写してあげたり(撮影の順番待ちをしました)、タオルやキーホルダーなどのグッズを購入したり、ホットドッグとビールの軽食を食べたりし、開演前の待ち時間も満喫しました。

 とてつもなく大きなドーム内に入り座席に座って見渡すと、周囲の観客の多くは中高年。若者はぱらぱらいる程度です。私の向かいの座席には50代と思われる中年男性4人組、左横は母娘、右横は中年カップル、後ろは60代と思われる人たちが並んでいます。開演時間が過ぎ、心を躍らせながら待つこと30分。いきなり「ア・ハード・デイズ・ナイト」の前奏が始まり、ポールが軽やかにステージに登場しました。老若男女が一斉に立ち上がりました。割れんばかりの歓声です。

 ビートルズ時代の曲、ウイングス時代の曲に新曲も交えて歌い、楽器もベースギターからピアノ、アコースティックギターへと曲に応じて変え、観客を飽きさせません。ジョン・レノンに捧げる「ヒア・トゥデイ」、ジョージ・ハリソンへの「サムシング」では、観客もおそらくジョンやジョージを思い浮かべながら、歌を口ずさんだと思います。ポールは一曲歌い終わるごとに「サンキュー、サンキュー」と礼を言い、日本語を交えながら語り、観客の声援に応えました。

 白いシャツに黒いスリムパンツ姿でギターを弾きながら歌う姿は74歳とは思えないほど若く、ピアノを弾きながらマイクに向かって歌う姿は、ほれぼれするほど魅力的でした。「ポールは何十年もこうして、ピアノを弾きながら曲を作り、歌ってきたのだな」とステージ横の大型スクリーンに映し出されるポールの後ろ姿に見入りながら、バラードを聴きました。

 「今年は、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売されて50周年なんだよ。信じられるかい? 僕はまだ52歳だっていうのに」

 ポールの冗談に、会場からは笑いがはじけました。私はさらに、「そうなんだ、52歳(私の年齢です)は『もう、52歳』ではなく、『まだ、52歳』なんだと、思いがけなくポールから励まされたような気分になりました。

 コンサートの終盤、「オブラディ、オブラダ」では、ポールが歌った後に観客だけが歌う場面もあり、会場とポールが一体となりました。

 締めの歌は、待ちに待った「ヘイ・ジュード」です。ここでは、観客は事前に配布された、発光する棒を振りながら、一緒に歌いました。東京ドーム全体が水色に染まりました。
 
 アンコールは、”これを聴かずには帰れない”、「イエスタディ」。この曲を、会場を埋め尽くしたフアンは、ある人はうっとりと、ある人はしみじみとした思いで、聴いたに違いありません。そして、ポールの「君たちは素晴らしかった。僕らも楽しかったよ。また、会おう」のあいさつで、約3時間のコンサートの幕が下りたのでした。

 東京ドームを出ました。しばしドームの周辺をぶらぶらと歩くと、家には12歳の娘と5歳の息子が待っているという現実が戻ってきました。息子の”ベビーシッター”を頼んだ娘に電話をすると、息子はすでに寝息を立てているということ。「私も歯を磨いて、ベッドの中。もう寝ようと思っていたの」と言います。その声を聞き安堵し、「もう少ししたら帰るからね」と伝えました。

 そして、まだコンサートの余韻が覚めない夫と私は、「一杯だけね」と言いつつ、ドーム近くのイングリッシュパブに寄り、立ち飲みでビールを飲みました。もちろん、BGMはビートルズ。コンサートを振り返りながら、冷たいビールを一気に飲み干し、家路を急いだのでした。

2017年5月3日水曜日

伯母にさよなら

  伯母の葬儀に参列するため、北海道に帰りました。思い出のたくさんある伯母の訃報が届いたのは、遅咲きの桜が満開だった4月7日。翌日、12歳の娘と5歳の息子を夫に預け、羽田空港から新千歳空港行きの飛行機に乗り、苫小牧の斎場に向かいました。

 新千歳空港でJRに乗り継ぎました。室蘭行きの「特急すずらん」に乗り、南千歳駅で函館行きの「スーパー北斗」に乗り換え、苫小牧の駅に降りました。まだまだ寒さの残る駅のホームに降りる人はまばらで、ホーム全体には寂しげな雰囲気が漂っていました。道内で良く見かける、そして忘れかけていた風景を懐かしく、いとおしく感じました。

 一足先に母が斎場に着いていました。札幌に住むいとこが車で送ってくれていました。母は私に「ご苦労さん」と言い、伯母のところに連れて行ってくれました。

 祭壇の遺影は、ピンク色の花に囲まれていました。その花と同じピンク色のTシャツを着た伯母は、こちらを見て微笑んでいました。その包み込むような微笑みには、世話好きだった伯母の人柄が良く表れていました。棺の中で眠っている伯母の顔を見に行きました。寝たきりだった生活が長かったためか、透き通るような白い肌をしていました。すっと通った鼻筋が昔のままで、若かったころの伯母を思い出させてくれました。

 伯母は昭和3年、男4人女7人の11人きょうだいの4女として北海道勇払郡むかわ町で生を受けました。11人きょうだいのうち、次男は戦死。長女は30代で子供2人を残して亡くなりました。若くして亡くなったその2人以外は皆、60代までは元気に生き、70代以降に一人またひとりとあの世に旅立っていきました。そして伯母は88歳でこの世を去りました。今残っているのは、92歳になる次女、3女、6女、4男、そして79歳になる一番年下の母です。

 伯母は子供好きな人でした。夏休みには、苫小牧の伯母の家に甥っ子姪っ子が集まりました。私が遊びに行っていたのは小学生のころ。伯母の嫁入り道具だった箪笥が並ぶ畳の部屋で、当時すでに社会人になっていた伯母の娘と中高校生だったいとこが、箪笥に寄りかかりながら、フォークソングを歌っていた記憶が今も鮮明に残っています。

「あなたにさよならって言えるのは今日だけ~」(22歳の別れ)
「君とよくこの店に来たものさ~」(学生街の喫茶店)
 
流行の歌を歌う年上のいとこたちを、おそらく私は憧れるような気持ちで、眺めていたのだと思います。いとこたちの歌声と、時折声をかけにくる伯母の明るい声が、今も耳に残っています。

 伯母が作るシュウマイは天下一品でした。葬儀でもまず話題になったのは、シュウマイの話です。訃報を夫に告げたときも、夫がこう言いました。
「この前、睦美はその伯母さんの話をしてくれたばかりだよ。君はシュウマイを作っていて、シュウマイが上手な伯母さんの話をしてくれたんだ。小さいころ、夏休みに家に遊びに行った話も懐かしそうにしていた」

 虫の知らせでしょうか。大好きだった伯母のことをふと思い出し、夫に話していたのです。通夜振る舞いの席で、私の思い出の中でフォークソングを歌っていた5歳年上のいとこにその話をすると、いとこは「そう、伯母さんのシュウマイ美味しかったよね。ラーメンも」と大きくうなずきました。「ラーメンの上に乗っていた、魚肉ソーセージが美味しくってね」と懐かしそうに語りました。

 通夜と翌日の告別式では、母はずっと泣いていました。きょうだいの中で一番年下で、19歳と早くに母親を亡くしたためか、母はきょうだいに対する思いが深く、きょうだいのことをいつも案じ、あの世に旅立った親きょうだいの話をするときはいつも目に涙を浮かべます。肩を震わせながら泣く母の横に座っていた私は、母の心から深い悲しみがにじみ出るように感じ、とても切ない気持ちになりました。

 告別式も終わりに近づき、参列者一人ひとりが棺の中の伯母に花を手向けました。最期のさよならを言い終わった参列者は、大きな輪を作り、伯母を囲みました。そして出棺のとき。
 92歳の伯母がよろよろと棺に近付きました。88歳の妹に言葉をかける92歳の伯母の姿は、再び参列者の涙を誘いました。伯母に続いて、私の母、亡くなった伯母の娘ら最も近しい人たちが棺の側に寄り、それぞれの言葉で最期の別れを告げました。

 火葬場には伯母の娘家族、私の母や伯父伯母、そしていとこたちが行きました。帰りの飛行機の時間が迫っていた私は、クラクションを鳴らして、斎場から出て行くバスを見送りました。小さくなっていくバスを見送りながら、祖父の野辺送りの場面を思い出しました。お寺から、男のいとこたちが棺を担いで出てきます。棺の中には、私が編んで祖父に贈った帽子が入っています。肩に棺を担ぎ、泣きじゃくりながら歩くいとこたちを、小学生だった私も泣きながら見守りました。

 もうずいぶん前にあの世に旅立った祖父と、伯母はいまごろあの世で楽しく語り合っていることでしょう。亡くなった伯父伯母も一緒に違いありません。伯母さん、どうぞ安らかにお眠りください。そして、この世に残った伯父伯母、母をお守りください。合掌。

 

2017年4月14日金曜日

四つ葉のクローバー

 「四つ葉のクローバーだよ。ママにあげる」
息子が花壇に生えたクローバーを摘んで持ってきました。私にくれたのは、三つ葉のクローバー。四つ葉であろうが、三つ葉であろうが、子供がくれるものは何でも嬉しいもの。私は有り難く、そのクローバーをもらって手の平に乗せました。

 「ありがとう。あら、素敵。何か良いことあるかな?」
 「めっちゃいいことあるよ」
 「たとえば?」
 「たとえば、ダディが早く帰ってくるとかさ」
 「・・・」

 一瞬、言葉に詰まった私でしたが、息子の純粋さに改めて感動しました。「そうか、息子にとって”めっちゃいいこと”は、新しいおもちゃを買ってもらうとか、どこか楽しい場所に連れていってもらうとか、そんな物質的なことではなくて、ダディと遊ぶことなんだ」と。
 
 さて、その後息子とのんびりと家で過ごし、学校帰りの娘を駅まで迎えに行き、ひと息ついた17時50分。夫から電話がありました。今日は早めに会社を出て、もう駅に着いたということです。なんと、息子の希望は叶ったのです。
 「子供たちを近くの公園に連れていくよ。準備させといて」
 外を見ると薄暗くはなっていますが、まだ、十分遊べそうです。

 子供たちに、夫が公園に連れていってくれることを伝えると、大喜び。
 息子が言いました。

 「ねっ、ママ。言ったじゃん、四つ葉のクローバーを見つけたらいいことあるって」

 息子は待ちきれないというばかりに、「玄関の前でダディを待ってるね」と言い、自転車用のヘルメットを被って外に飛び出しました。娘も大急ぎで制服をTシャツとジーンズに着替えて、玄関を出て行きました。

 間もなく夫が帰宅。はしゃぐ子供たちと一緒に近くの公園に向かいました。3人の後ろ姿を見送りながら、私はほんわかとした気持ちに包まれたのでした。

2017年4月4日火曜日

ママの新学期

  4月3日月曜日から娘の学校の新学期がスタートし、娘は元気いっぱい登校しました。3月にいくつかの別れがあり、気持ちが沈んでいた私も娘に倣い、元気に”ママの新学期”をスタートさせました。

 節目の3月は、別れの月。私の場合は今回、14年間診てもらっていた国立がん研究センター中央病院の主治医の定年退職で動揺し、落ち込み、途方に暮れました。それから間もなく、長らく髪をカットしてもらっていた美容師さんの転勤と、毎月会話を楽しみにしていたネイリストの産休・育休で、寂しさは倍に。日ごろ人に会うことが少ない主婦にとって、暮らしの一部となっている人たちとの別れは堪えるものなのです。

 しかし、そうも言っていられません。「気持ちを切り替えなければ」と、新学期前日に積極的に動きました。
 まず、お花屋さんに行き、普段より多めに花を買って、ダイニングから見えるフェンスに飾りました。気持ちが明るくなりました。

 次に自宅に近い美容室に行き、カットとカラーをしてきました。その美容室は清潔感のある、ゆったりとした造りで、若い女性の美容師さんの腕も良く、仕上がりも満足のいくものでした。値段は以前通っていた美容室の半額で、少し得をした気分も味わえました。

 3日は娘と夫を送り出した後、お弁当を持って息子と最寄りの公園に行きました。ベンチに座っておしゃべりしながら、楽しくお弁当を食べました。
 
 人との別れで沈むこともあるけれど、日常の何気ないことを工夫したり、時に変化を楽しみながら、日々の暮らしを大切にしようと思ったのでした。