今、息子と娘の間の”ブーム”は「ザリガニ捕り」です。息子は幼稚園から帰ると、「ザリガニ捕りの網」と虫かごを持ち、自宅から自転車で数分のところにある公園に出かけます。娘も学校帰りに合流します。
その公園には小さな池や小川があちこちにあり、ザリガニがたくさん棲んでいます。午後の早い時間には幼稚園児が、遅い時間には小学生が続々と集まります。息子は夢中になるあまりに、池に落っこちてびしょ濡れになったり、割りばしに紐と餌を付けただけの簡易な”釣り竿”でつり上げてはつかみ損ねたりしながら、コツをつかんでいったようです。
ある日息子はいつも子供たちが集まる池ではなく、公園内に流れる小川のよどんだところを、狙いました。聞くと、おねぇねぇが「そこにいるよ」とこっそり教えてくれたようです。息子は真剣に網ですくいとります。何度かすくった後、
「ママ、ザリガニ捕れた!」と歓声を上げ、私に見せてくれました。
「どれ、見せて?」
網の中にすくった泥の中をよくよく見れば、確かにザリガニのようなものが見えます。でも、動きません。
「死んでいるよ」と私。
「違うんだ。死んだふりしているんだ」と息子。
「そうかなあ・・・?」
「触ってみる?」。
息子は網の中に手を入れ、親指と人差し指でザリガニをつかんで、私に見せてます。確かに、指でつまむと、ザリガニは足をゴソゴソと動かします。
「ザリガニが死んだふりするなんて、誰が教えてくれたの?」
「おねぇねぇ」
”自然派”の娘は、小さいころから虫やカエルなどが大好き。それらの生態を、ちゃんと弟に伝授しているようです。
そうこうしているうちに、学校帰りの娘から「ママ、今、駅に着いたよ」と電話がありました。この日も、「先に公園に行っているよ」と朝、伝えてありました。ほどなく、娘が到着。
「ママ、私の網は?」
「もちろん、持ってきたよ」と私はピンクの網を渡しました。
娘と息子は、また、張り切って、小川のよどみに網を入れます。
この日の収穫は2匹。虫かごに入れた2匹の上から、小川の水をたっぷり注ぎ、娘と息子は満足そうです。そして、帰宅後は玄関前にすでに並んだ3つの虫かごの横にこれを並べます。もちろん、子供のことですから、これらの世話のことはすっかり忘れます。で、結局は私が世話をすることになります。
カブトムシ、ザリガニ、おたまじゃくし・・・。アラフィフィママは実のところ、これらがあまり得意ではありません。でも、「苦手なの」などと言ってられません。
「大人になってから、これらともう一度触れ合うことが出来るのは、子供を持つ醍醐味だわ」
土と淀んだ水と、ガサゴソ動く”中身”が入った虫かごを見ながら、そう自身に言い聞かせるのでした。
2016年6月13日月曜日
2016年5月20日金曜日
羽田空港で
羽田空港に母を見送りに行きました。2週間の東京滞在を終え、母は新千歳空港行きの飛行機に乗り、札幌に帰りました。
保安検査場を通った母がこちらを振り向き、手を振ってくれました。搭乗ゲートに向かう母を見えなくなるまで見送りました。空港で母に手を振るときはいつも、「これが母を見る最後になるのではないか」という不安に襲われます。遠方に住む高齢の親に会う人は多かれ少なかれ、別れ際に似たような思いを抱くのではないでしょうか。
私は長い間、同じような思いを母にさせてきました。
私は38歳で発病した血液がんに始まり、自己免疫疾患や心臓病など別の病気をいくつか併発し、血液がんも2度再発しました。その治療や手術のとき、また体調が悪化したときは、母はいつも父を引き連れ、私の家族を世話しに東京に来てくれました。
私の治療や体調がひと段落して、羽田空港に向かう日。私の自宅の最寄駅や、羽田空港行きのバス停で私に手を振りながら、母は「睦美を見るのは、これで最後かもしれない」と何度も思ったといいます。私に手を振った母はいつも、「体を大切にするんだよ」と笑っていました。が、その話をするときの母の顔はいつもゆがみ、目からはとめどなく涙が流れます。
それほど、私の体調は悪かった。そして、私は当時、札幌からわざわざ手伝いに来てくれた両親を羽田空港まで送る体力すらなかったのです。
そんな両親の思いなどそっちのけで、私は「自分が死ぬ前に、何としても娘にきょうだいを作りたい」と四十六歳で息子を出産しました。そして、不思議なことに、病気の連鎖はそこで途切れ、下降線をたどっていた体調は出産後、憑き物が落ちたように回復していきました。
すると、それに反比例するように、両親は弱くなっていきました。父は3年前に亡くなり、母は体のあちこちが病んできました。まるで、「自分たちの役割は終わった」といわんばかりに。
掃除・洗濯、食事の支度、スーパーへの食料品の買い出しや娘の幼稚園へのお迎えまでこなした母は今、痛む膝をかばいながらゆっくりゆっくり歩きます。それでも、母はあちこち傷んだ体を押して、私や子供たちに会いに東京に遊びに来てくれます。
そんな母と話をしながら、「やはり、死ぬ順番は何としても守らなければならない」と気を引き締めます。
78歳の母に、「あのときが、娘を見た最後だった」と残りの人生を泣いて暮らさせてはいけない。
それが、私の出来る唯一の親孝行だと思いつつ、その親孝行をするために、自分の体をいたわりながら生きたいと思います。
保安検査場を通った母がこちらを振り向き、手を振ってくれました。搭乗ゲートに向かう母を見えなくなるまで見送りました。空港で母に手を振るときはいつも、「これが母を見る最後になるのではないか」という不安に襲われます。遠方に住む高齢の親に会う人は多かれ少なかれ、別れ際に似たような思いを抱くのではないでしょうか。
私は長い間、同じような思いを母にさせてきました。
私は38歳で発病した血液がんに始まり、自己免疫疾患や心臓病など別の病気をいくつか併発し、血液がんも2度再発しました。その治療や手術のとき、また体調が悪化したときは、母はいつも父を引き連れ、私の家族を世話しに東京に来てくれました。
私の治療や体調がひと段落して、羽田空港に向かう日。私の自宅の最寄駅や、羽田空港行きのバス停で私に手を振りながら、母は「睦美を見るのは、これで最後かもしれない」と何度も思ったといいます。私に手を振った母はいつも、「体を大切にするんだよ」と笑っていました。が、その話をするときの母の顔はいつもゆがみ、目からはとめどなく涙が流れます。
それほど、私の体調は悪かった。そして、私は当時、札幌からわざわざ手伝いに来てくれた両親を羽田空港まで送る体力すらなかったのです。
そんな両親の思いなどそっちのけで、私は「自分が死ぬ前に、何としても娘にきょうだいを作りたい」と四十六歳で息子を出産しました。そして、不思議なことに、病気の連鎖はそこで途切れ、下降線をたどっていた体調は出産後、憑き物が落ちたように回復していきました。
すると、それに反比例するように、両親は弱くなっていきました。父は3年前に亡くなり、母は体のあちこちが病んできました。まるで、「自分たちの役割は終わった」といわんばかりに。
掃除・洗濯、食事の支度、スーパーへの食料品の買い出しや娘の幼稚園へのお迎えまでこなした母は今、痛む膝をかばいながらゆっくりゆっくり歩きます。それでも、母はあちこち傷んだ体を押して、私や子供たちに会いに東京に遊びに来てくれます。
そんな母と話をしながら、「やはり、死ぬ順番は何としても守らなければならない」と気を引き締めます。
78歳の母に、「あのときが、娘を見た最後だった」と残りの人生を泣いて暮らさせてはいけない。
それが、私の出来る唯一の親孝行だと思いつつ、その親孝行をするために、自分の体をいたわりながら生きたいと思います。
2016年5月3日火曜日
IL DEVO コンサート
夢のようなひとときでした。男性4人組ヴォーカル・グループ、「IL DEVO(イル・ディーヴォ)」のコンサートに行ってきました。日本武道館で開かれたそのコンサートには、母を連れていきました。母娘は美しい男性たちの、美しい歌声に酔いしれました。
「母の日のプレゼントに」と札幌でひとり暮らしをする母と一緒に行こうとチケットを購入したのは、もう数カ月も前。母に伝えると、とても喜び、この日を楽しみにしてくれていました。
「IL DIVO」のことを知ったのは、4、5年前になるでしょうか。 新聞の夕刊に彼らの特集が出ていたのを読み、興味を抱いたのです。グループは2003年結成、2004年イギリスでデビューしました。出身国がスペイン、フランス、スイス、アメリカとそれぞれ違い、かつ、グループ結成前に各自がすでに音楽活動をしていたことに興味を持ちました。また、スーツを着て歌うという正統派の雰囲気や、魅力的なルックスにも惹かれました。
早速、CDとDVDを購入。オペラ歌手のような圧倒的な声量と広い音域で、ポピュラー音楽を歌い上げる彼らの音楽に、感動しました。その感動を分かち合いたいと、母と義母、友人たちにCDをプレゼントしました。ですので、今回は念願のコンサートだったのです。
生で見る彼らは、写真で見るよりもずっと素敵でした。彼らの声は、CDで聴くよりずっと迫力があり、美しかった。一曲一曲を全力で歌っていることが観客にも十分伝わり、それが、観客を引きつけました。観客を喜ばせることに徹したパフォーマンスが、観客の心をつかみました。
4人は「MY WAY」など、多くの人の耳に馴染む曲をしっとりと歌い、ラテン音楽はキレの良い踊りを披露しながら、魅惑的に歌いました。会場は私が若いと感じられるほど、年配の女性が多かった。多くの人が、「IL DIVO」と書かれたペンライトを振りながら、一曲一曲にうっとりと聞き惚れていました。彼らが日本の童謡「ふるさと」を歌ったときは、母も私も、周りの観客も皆一緒に口ずさみ、会場が一体になりました。
観客の”静かな”熱狂は衰えることなく、コンサートは休憩時間を挟んで3時間近くになっていました。そして、彼らが「最後に」と歌ったのが、おそらく多くの人が待ち望んでいたであろう「TIME TO SAY GOODBYE」でした。この歌が終わったとき、78歳の母がよろよろと客席から立ち上がり、「ブラボー」とステージに向かって、何度も叫びました。私は、その母の姿を見て、目頭が熱くなったのでした。
さて、コンサートが終わり、興奮が冷めやらないまま、私たちは帰路につきました。自宅に戻り、椅子に座って、プログラムを読みながらコンサートを振り返っていたとき。母が顔を保湿クリームでピカピカにさせながら、私のところに現れました。
「見て、肌がつやつやなの」
私の方に顔を寄せてきます。いきなりの登場で、私は一瞬どう反応して良いか分からず、気の利いたコメントができませんでした。母は続けました。
「やっぱり、酔いしれると、ホルモンが出るんだねぇ。何て言ったっけ、こういうときに出るホルモン。そうだ、セレトニンだよ。セレトニン。ほらっ、さわってみて。つやつやだから・・・。こんなこと初めてだよ。あんな素敵な歌を聴いて、セレトニンが出たんだねぇ」
IL DIVOと母に、圧倒された夕べでした。
「母の日のプレゼントに」と札幌でひとり暮らしをする母と一緒に行こうとチケットを購入したのは、もう数カ月も前。母に伝えると、とても喜び、この日を楽しみにしてくれていました。
「IL DIVO」のことを知ったのは、4、5年前になるでしょうか。 新聞の夕刊に彼らの特集が出ていたのを読み、興味を抱いたのです。グループは2003年結成、2004年イギリスでデビューしました。出身国がスペイン、フランス、スイス、アメリカとそれぞれ違い、かつ、グループ結成前に各自がすでに音楽活動をしていたことに興味を持ちました。また、スーツを着て歌うという正統派の雰囲気や、魅力的なルックスにも惹かれました。
早速、CDとDVDを購入。オペラ歌手のような圧倒的な声量と広い音域で、ポピュラー音楽を歌い上げる彼らの音楽に、感動しました。その感動を分かち合いたいと、母と義母、友人たちにCDをプレゼントしました。ですので、今回は念願のコンサートだったのです。
生で見る彼らは、写真で見るよりもずっと素敵でした。彼らの声は、CDで聴くよりずっと迫力があり、美しかった。一曲一曲を全力で歌っていることが観客にも十分伝わり、それが、観客を引きつけました。観客を喜ばせることに徹したパフォーマンスが、観客の心をつかみました。
4人は「MY WAY」など、多くの人の耳に馴染む曲をしっとりと歌い、ラテン音楽はキレの良い踊りを披露しながら、魅惑的に歌いました。会場は私が若いと感じられるほど、年配の女性が多かった。多くの人が、「IL DIVO」と書かれたペンライトを振りながら、一曲一曲にうっとりと聞き惚れていました。彼らが日本の童謡「ふるさと」を歌ったときは、母も私も、周りの観客も皆一緒に口ずさみ、会場が一体になりました。
観客の”静かな”熱狂は衰えることなく、コンサートは休憩時間を挟んで3時間近くになっていました。そして、彼らが「最後に」と歌ったのが、おそらく多くの人が待ち望んでいたであろう「TIME TO SAY GOODBYE」でした。この歌が終わったとき、78歳の母がよろよろと客席から立ち上がり、「ブラボー」とステージに向かって、何度も叫びました。私は、その母の姿を見て、目頭が熱くなったのでした。
さて、コンサートが終わり、興奮が冷めやらないまま、私たちは帰路につきました。自宅に戻り、椅子に座って、プログラムを読みながらコンサートを振り返っていたとき。母が顔を保湿クリームでピカピカにさせながら、私のところに現れました。
「見て、肌がつやつやなの」
私の方に顔を寄せてきます。いきなりの登場で、私は一瞬どう反応して良いか分からず、気の利いたコメントができませんでした。母は続けました。
「やっぱり、酔いしれると、ホルモンが出るんだねぇ。何て言ったっけ、こういうときに出るホルモン。そうだ、セレトニンだよ。セレトニン。ほらっ、さわってみて。つやつやだから・・・。こんなこと初めてだよ。あんな素敵な歌を聴いて、セレトニンが出たんだねぇ」
IL DIVOと母に、圧倒された夕べでした。
2016年4月23日土曜日
きのこヘア
「ママ、今日はかっこいい髪にしてください」。息子が自分の髪をさわりながら、私に言いました。
娘と夫を送り出した平日の朝、ギーコーギーコーとヴァイオリンの練習をしていたときのことです。
「ここをこうやって、ここをこうやって・・・」と息子は自分の前髪を立てたり、横髪を立てたり、自分がしてほしい髪型を見せます。そして、続けました。「きのこみたいじゃなくて・・・」。
私は思わず、吹き出しました。娘がいつも、息子の髪を「きのこみたいだよ」とからかうのを、実は気にしていたのですね。先日は、娘が私の目を盗んで「きのこヘアなおしてあげる!」と息子の右側の髪をバッサリと切ったばかり。それも、単純にまっすぐハサミを入れたため、後から気付いた私が調整するのに、すいぶん労力を要しました。が、仕方なく少し刈り込んだ髪は意外にも息子に似合い、いかにも「男の子」という雰囲気になったのです。
私は息子に聞きました。
「だれか、お友達でなりたい髪の子いる?」
「うん、●●●君みたいな髪がいい」
時折、ムースで髪を立たせてくる格好良い男の子です。
「そうなんだね。●●●君みたいになりたいんだ。あの髪はね。固めるゼリーみたいなものが必要なの。今度買ってきてあげる。そうしたら、ああいう風に格好良く出来るから」
「うん」
息子はうれしそうに、また、ヴァイオリンを弾き始めました。
「きのこヘア」。これは今も昔も、男の子の髪型をからかう適当な表現のようです。私は、高校時代の同級生のことを思い出しました。
当時、ちょうどお菓子の「きのこの山」が発売されて間もなくだったと思います(考えてみれば、ロングセラーなのですね)。私は友達と一緒に、ある男子を「きのこ」と名付けました。彼の髪がきのこのような形をしていたからです。もちろん、彼には内緒です。そして、「きのこの山」をポリポリと食べながら、彼の話で盛り上がりました。箸が転んでもおかしい年頃。よく、「きのこ」だけであれだけ笑えたものだと、今振り返って、当時の自分がうらやましくなるくらいです。
彼は少しウェーブのかかった髪をふんわりとさせた、それこそ「マッシュルームカット」にしていました。彼はピアノを習っていました。マイペースな男子だったと記憶しています。ピアノを弾くという当時の男の子としては珍しい習い事をしていた彼に、その髪型はピッタリと合っていました。
息子も「きのこヘア」で、楽器を習っています。今はピアノを習っている男の子は珍しくありませんが、まだ、ヴァイオリンを習っている男の子はそんなに多くありません。普通、女の子がする習い事を息子にさせる親は、そもそも、「男の子っぽい髪」にこだわりがないのかもしれません。その男子の母親もきっと、息子の「きのこヘア」を愛おしく見ていたのかもしれません。今の私が、息子の「きのこヘア」をたまらなく愛おしく感じるように。
その男子には数年前、東京で開かれた同窓会で会いました。普通の髪型になっていて、彼だとは全く気が付きませんでした。
でも、私にとっては、今の彼の髪型は、彼のイメージに全く合わなかった。普通のおじさんになってしまった彼を見ながら、普通のおばさんの私は、「きのこヘアのままが良かったのに」と少し残念に思ったのでした。
まだ長めの息子の髪も、早晩、本人の希望で普通の男の子のような短い髪型になるのでしょう。「きのこヘアのままがいいのに・・・」。息子の髪をなでながら、残念に思う今日このごろです。
娘と夫を送り出した平日の朝、ギーコーギーコーとヴァイオリンの練習をしていたときのことです。
「ここをこうやって、ここをこうやって・・・」と息子は自分の前髪を立てたり、横髪を立てたり、自分がしてほしい髪型を見せます。そして、続けました。「きのこみたいじゃなくて・・・」。
私は思わず、吹き出しました。娘がいつも、息子の髪を「きのこみたいだよ」とからかうのを、実は気にしていたのですね。先日は、娘が私の目を盗んで「きのこヘアなおしてあげる!」と息子の右側の髪をバッサリと切ったばかり。それも、単純にまっすぐハサミを入れたため、後から気付いた私が調整するのに、すいぶん労力を要しました。が、仕方なく少し刈り込んだ髪は意外にも息子に似合い、いかにも「男の子」という雰囲気になったのです。
私は息子に聞きました。
「だれか、お友達でなりたい髪の子いる?」
「うん、●●●君みたいな髪がいい」
時折、ムースで髪を立たせてくる格好良い男の子です。
「そうなんだね。●●●君みたいになりたいんだ。あの髪はね。固めるゼリーみたいなものが必要なの。今度買ってきてあげる。そうしたら、ああいう風に格好良く出来るから」
「うん」
息子はうれしそうに、また、ヴァイオリンを弾き始めました。
「きのこヘア」。これは今も昔も、男の子の髪型をからかう適当な表現のようです。私は、高校時代の同級生のことを思い出しました。
当時、ちょうどお菓子の「きのこの山」が発売されて間もなくだったと思います(考えてみれば、ロングセラーなのですね)。私は友達と一緒に、ある男子を「きのこ」と名付けました。彼の髪がきのこのような形をしていたからです。もちろん、彼には内緒です。そして、「きのこの山」をポリポリと食べながら、彼の話で盛り上がりました。箸が転んでもおかしい年頃。よく、「きのこ」だけであれだけ笑えたものだと、今振り返って、当時の自分がうらやましくなるくらいです。
彼は少しウェーブのかかった髪をふんわりとさせた、それこそ「マッシュルームカット」にしていました。彼はピアノを習っていました。マイペースな男子だったと記憶しています。ピアノを弾くという当時の男の子としては珍しい習い事をしていた彼に、その髪型はピッタリと合っていました。
息子も「きのこヘア」で、楽器を習っています。今はピアノを習っている男の子は珍しくありませんが、まだ、ヴァイオリンを習っている男の子はそんなに多くありません。普通、女の子がする習い事を息子にさせる親は、そもそも、「男の子っぽい髪」にこだわりがないのかもしれません。その男子の母親もきっと、息子の「きのこヘア」を愛おしく見ていたのかもしれません。今の私が、息子の「きのこヘア」をたまらなく愛おしく感じるように。
その男子には数年前、東京で開かれた同窓会で会いました。普通の髪型になっていて、彼だとは全く気が付きませんでした。
でも、私にとっては、今の彼の髪型は、彼のイメージに全く合わなかった。普通のおじさんになってしまった彼を見ながら、普通のおばさんの私は、「きのこヘアのままが良かったのに」と少し残念に思ったのでした。
まだ長めの息子の髪も、早晩、本人の希望で普通の男の子のような短い髪型になるのでしょう。「きのこヘアのままがいいのに・・・」。息子の髪をなでながら、残念に思う今日このごろです。
2016年4月12日火曜日
父の命日に思う
父が亡くなって3年になります。命日に合わせて、子供たちを連れて札幌に帰省しました。札幌はまだ厚手のコートが必要なほど寒く、子供たちが雪だるまを作れるほどの雪が残っていました。春の兆しはあちらこちらに見かけるけれども、気分が塞ぐ冬がでんと居座るこんな時期に父は亡くなったんだな、と切ない気持ちになりました。
父の遺骨を納めるお寺に行くときに、NTTドコモの代理店を通り過ぎました。父が亡くなった後、母と一緒に携帯電話の解約の手続きに行ったことを思い出しました。年金事務所を訪れて父の年金を母の年金に切り替え、区役所を訪れて父の障害者手帳を返納する・・・。父がこの世に存在したことを示すものを1つ1つ消していく作業は、とても悲しい、辛いものでした。
そのとき代理店では、解約の手続きとともに、父の数か月分の通話記録を頼みました。ポツン、ポツンと発信履歴がある、そのささやかな記録の中に、2件、数カ月間の間に複数回かけている電話番号がありました。私はその2件の番号に電話をしました。
電話に出た2人はいずれも、高齢の男性でした。私は自分と自分の父の名前を名乗り、父が亡くなったことを告げました。
そのうち1人は父や母からよく名前を聞いた、父の”脳梗塞仲間”でした。初めはカラオケに行ったり、外食をしたりしていたようです。しかし、5、6人いた仲間が1人亡くなり、また1人亡くなり・・・と減っていき、父ももうその仲間と外出することがなくなりました。
私は電話口に出た男性に、生前父と親しくしていただいた礼を述べ、電話を切りました。
もう1人には、何度話しても、理解してもらえませんでした。私は、私が何者であるかということと、電話をしている理由を説明することをあきらめ、礼を言って、電話を切りました。
その通話記録は、私にとって救いとなりました。晩年、父がその安否を気遣う友人がいたことをただただ、嬉しく思い、通話記録を抱き締め、泣きました。
几帳面な父は、見事なまでの”老い支度”をしていました。日記や手帳などさまざまなものを処分していました。今、札幌で一人暮らしをする母と2人で、病弱で超高齢出産をした1人娘に迷惑をかけまいと、自立した生活をし、身辺整理を着々と進めていました。
そのような中、父は私に1冊のファイルを残していました。私の闘病記録を、ワープロで打ちプリントアウトしたものです。父は脳梗塞で右手が使えなくなったため、ワープロを使って文章を書くことが多かったのです。そこには38歳で血液がんを患った娘を気遣う気持ちが、控え目な表現で書かれていました。
私はそのファイルと、父が使っていたメガネケース、財布、ベルト、帽子、私がプレゼントして父がよく着ていたセーターを持ち帰りました。そして私の家に置いてあった靴と新品の下着と、父が糊付けして修理した娘の絵本と一緒に小さな箱2つに詰めました。
父のベルトは中肉中背の私のウエストにピッタリと合いました。父はこんなに痩せていたのだなと、使った跡がある穴がどんどん内側になっていく父のベルトを触りながら、改めて思いました。
父は帽子が好きな人でした。持ち帰った帽子は今でも、父の匂いがします。
父の遺骨を納めるお寺に行くときに、NTTドコモの代理店を通り過ぎました。父が亡くなった後、母と一緒に携帯電話の解約の手続きに行ったことを思い出しました。年金事務所を訪れて父の年金を母の年金に切り替え、区役所を訪れて父の障害者手帳を返納する・・・。父がこの世に存在したことを示すものを1つ1つ消していく作業は、とても悲しい、辛いものでした。
そのとき代理店では、解約の手続きとともに、父の数か月分の通話記録を頼みました。ポツン、ポツンと発信履歴がある、そのささやかな記録の中に、2件、数カ月間の間に複数回かけている電話番号がありました。私はその2件の番号に電話をしました。
電話に出た2人はいずれも、高齢の男性でした。私は自分と自分の父の名前を名乗り、父が亡くなったことを告げました。
そのうち1人は父や母からよく名前を聞いた、父の”脳梗塞仲間”でした。初めはカラオケに行ったり、外食をしたりしていたようです。しかし、5、6人いた仲間が1人亡くなり、また1人亡くなり・・・と減っていき、父ももうその仲間と外出することがなくなりました。
私は電話口に出た男性に、生前父と親しくしていただいた礼を述べ、電話を切りました。
もう1人には、何度話しても、理解してもらえませんでした。私は、私が何者であるかということと、電話をしている理由を説明することをあきらめ、礼を言って、電話を切りました。
その通話記録は、私にとって救いとなりました。晩年、父がその安否を気遣う友人がいたことをただただ、嬉しく思い、通話記録を抱き締め、泣きました。
几帳面な父は、見事なまでの”老い支度”をしていました。日記や手帳などさまざまなものを処分していました。今、札幌で一人暮らしをする母と2人で、病弱で超高齢出産をした1人娘に迷惑をかけまいと、自立した生活をし、身辺整理を着々と進めていました。
そのような中、父は私に1冊のファイルを残していました。私の闘病記録を、ワープロで打ちプリントアウトしたものです。父は脳梗塞で右手が使えなくなったため、ワープロを使って文章を書くことが多かったのです。そこには38歳で血液がんを患った娘を気遣う気持ちが、控え目な表現で書かれていました。
私はそのファイルと、父が使っていたメガネケース、財布、ベルト、帽子、私がプレゼントして父がよく着ていたセーターを持ち帰りました。そして私の家に置いてあった靴と新品の下着と、父が糊付けして修理した娘の絵本と一緒に小さな箱2つに詰めました。
父のベルトは中肉中背の私のウエストにピッタリと合いました。父はこんなに痩せていたのだなと、使った跡がある穴がどんどん内側になっていく父のベルトを触りながら、改めて思いました。
父は帽子が好きな人でした。持ち帰った帽子は今でも、父の匂いがします。
2016年4月3日日曜日
Japanese Culture Day ②
娘の通うインターナショナルスクールで開かれた「Japanese Culture Day」で、ヒヤリとする"事件"がありました。息子のことをすっかり忘れて、別の場所に移動してしまったのです。最近、物忘れが多くなったとはいえ、息子の存在を忘れてはいけない、と気を引き締めました。
息子はいま、最も目が離せない4歳。ですので、娘の学校でイベントがあるときは幼稚園の保育時間内に行くか、夫が行くかのいずれかで調整するようにしています。が、この日は、幼稚園が春休みに入った日で、かつ、私が「デコ巻き」作りの”講師役”になっていましたので、どうしても息子を連れていかなければなりませんでした。
「デコ巻き」作りの時間は、他のママに教室の外で見守ってもらい、無事乗り切りました。親が持ち寄った料理を子供たちが食べる「ポットラックランチ」では、息子も機嫌よくお相伴にあずかりました。子供たちが一巡した後は、私も他のママたちと一緒に、美味しい料理に舌鼓を打ちました。私が早起きして作ったコロッケも早々に”売り切れ”、また、「デコ巻き」作りも無事終了し、私は安堵感に満たされました。
さて、ランチの後は、講堂での「和太鼓」鑑賞です。子供たちが講堂に向かった後の教室内を、他のママたちと談笑しながら後片付け。すっかりきれいになりました。
「和太鼓、間に合うわよ。急ぎましょう!」。他のママ2人と急いで教室を出て、別の棟にある講堂まで走りました。講堂の重いドアを開けると、演奏が始まっていました。ステージでは法被を着てねじり鉢巻きをした若者が威勢よくバチを振り上げ、太鼓をリズミカルにたたいています。
「席、空いているわよ」と前方の席まで腰をかがめて走り寄り、3人並んで座りました。
「やっぱり、和太鼓は迫力あるわねぇ」と、ステージの若者の力強いバチさばきに見入り、講堂中に響き渡るダイナミックな音に聞き惚れること15分。
「あれっ?」と感じた違和感。「息子が、いない?」
私は我に返りました。慌てました。記憶をたどると教室を出たときから、息子を忘れていたようです。隣のママに耳打ちしました。
「息子を忘れちゃったわ」
隣のママは今にも吹き出しそうな顔をして、その横のママに耳打ちします。一人っ子を育てる二つ隣のママの顔は引きつっています。「えっ? どこに?」
「探しに行くわ」と私。隣に座るママが笑いをかみ殺しています。そして、私に耳打ちしました。
「忙しいと、やっちゃうのよねぇ。私はデパートに息子を忘れたわ」。その人は男子3人を育てるママ。太っ腹な反応で、私の心に広がりつつある罪悪感を和らげてくれました。
さて、慌てて講堂を出て隣の棟まで走り出すと、その棟の入り口から不安そうな表情をした息子が、事務の女性に手を引かれて出てきました。私は息子に駆け寄り、抱き締めました。私は焦った表情をしていたと思います。その女性はにっこりと笑って私に言いました。
「良かったわね。講堂で和太鼓やっているわよ。見に行ったら?」
軽口をたたくのが好きな私も、さすがに「今、見ていました」とは言えませんでした。
息子の手をしっかりとつないで講堂に向かいながら、息子に謝りました。もちろん、理由は説明せずにシンプルに・・・。
「ごめんね」
「いいよ。でも、ママ、ちゃんと僕のこと見ていたほうが良いよ」。泣くこともせず、親を責めることもせず、4歳にしてはとても落ち着いた反応でした。
「どうして、あの女の人のところに行ったの?」
「ママがいないから探していたら、掃除をしているおじさんが『ママがいないの?』って話しかけてくれたの。そして、あの先生のところに連れていってくれたの」
「そう。で、あの先生には何か話したの?」
「うん。 『My name is・・・ . My sister's teacher is Mr.・・・』って言った」
親が抜けていると、子供は必然的にしっかりとするようです。自分の名前と、姉の担任の先生の名前という、手掛かりになる情報をきちんと伝えていました。
さて、「Japanese Culture Day」のプログラムが全部終了し、私は娘と息子と一緒に帰路につきました。浴衣を着た娘に、教室を出る前に脱ぐように指示しましたが言うことを聞かないため、コートの下から浴衣が見える不思議な恰好で、電車に乗り込みました。
私はくたくたに疲れていました。朝から働きっぱなしです。息子を忘れるというとんでもない”失態”をやらかして、反省もしていました。
しかし、横に座る娘と息子がふざけ始めましたので、私は「電車の中では静かにしなさい!」と横を見て、叱りました。すると、なんと、娘がコートを脱いで、浴衣姿になっているではありませんか?
「何で、コート脱ぐの? 恥ずかしいじゃない。だから、浴衣は脱ぎなさいって言ったでしょ?」
「いいじゃん。別に」
私は、その言葉にどっと疲れが増して、ただただ、自宅のある駅に着くのを待ちました。
すると、私にとどめを差すような言葉が、私たちの向かいに立つ中年の女性から発せられたのです。
「お嬢さん、浴衣の合わせが反対ですよ」
「だから、何なの? 娘の浴衣の合わせなんて、どうでもいいのよぉ!」と私は心の中で叫びましたが、恐縮した表情で「娘はインターナショナルスクールに通っているもので・・・」と、分けの分からぬ言い訳をして、そのまま黙り込みました。そして、駅に着くと、子供たちを急かして、電車を降りました。
何とも、ドタバタの「Japanese Culture Day」でした。
娘の教室で行われた、ポットラックランチ。
バイキング形式で、親が持ち寄った料理を食べました。
息子はいま、最も目が離せない4歳。ですので、娘の学校でイベントがあるときは幼稚園の保育時間内に行くか、夫が行くかのいずれかで調整するようにしています。が、この日は、幼稚園が春休みに入った日で、かつ、私が「デコ巻き」作りの”講師役”になっていましたので、どうしても息子を連れていかなければなりませんでした。
「デコ巻き」作りの時間は、他のママに教室の外で見守ってもらい、無事乗り切りました。親が持ち寄った料理を子供たちが食べる「ポットラックランチ」では、息子も機嫌よくお相伴にあずかりました。子供たちが一巡した後は、私も他のママたちと一緒に、美味しい料理に舌鼓を打ちました。私が早起きして作ったコロッケも早々に”売り切れ”、また、「デコ巻き」作りも無事終了し、私は安堵感に満たされました。
さて、ランチの後は、講堂での「和太鼓」鑑賞です。子供たちが講堂に向かった後の教室内を、他のママたちと談笑しながら後片付け。すっかりきれいになりました。
「和太鼓、間に合うわよ。急ぎましょう!」。他のママ2人と急いで教室を出て、別の棟にある講堂まで走りました。講堂の重いドアを開けると、演奏が始まっていました。ステージでは法被を着てねじり鉢巻きをした若者が威勢よくバチを振り上げ、太鼓をリズミカルにたたいています。
「席、空いているわよ」と前方の席まで腰をかがめて走り寄り、3人並んで座りました。
「やっぱり、和太鼓は迫力あるわねぇ」と、ステージの若者の力強いバチさばきに見入り、講堂中に響き渡るダイナミックな音に聞き惚れること15分。
「あれっ?」と感じた違和感。「息子が、いない?」
私は我に返りました。慌てました。記憶をたどると教室を出たときから、息子を忘れていたようです。隣のママに耳打ちしました。
「息子を忘れちゃったわ」
隣のママは今にも吹き出しそうな顔をして、その横のママに耳打ちします。一人っ子を育てる二つ隣のママの顔は引きつっています。「えっ? どこに?」
「探しに行くわ」と私。隣に座るママが笑いをかみ殺しています。そして、私に耳打ちしました。
「忙しいと、やっちゃうのよねぇ。私はデパートに息子を忘れたわ」。その人は男子3人を育てるママ。太っ腹な反応で、私の心に広がりつつある罪悪感を和らげてくれました。
さて、慌てて講堂を出て隣の棟まで走り出すと、その棟の入り口から不安そうな表情をした息子が、事務の女性に手を引かれて出てきました。私は息子に駆け寄り、抱き締めました。私は焦った表情をしていたと思います。その女性はにっこりと笑って私に言いました。
「良かったわね。講堂で和太鼓やっているわよ。見に行ったら?」
軽口をたたくのが好きな私も、さすがに「今、見ていました」とは言えませんでした。
息子の手をしっかりとつないで講堂に向かいながら、息子に謝りました。もちろん、理由は説明せずにシンプルに・・・。
「ごめんね」
「いいよ。でも、ママ、ちゃんと僕のこと見ていたほうが良いよ」。泣くこともせず、親を責めることもせず、4歳にしてはとても落ち着いた反応でした。
「どうして、あの女の人のところに行ったの?」
「ママがいないから探していたら、掃除をしているおじさんが『ママがいないの?』って話しかけてくれたの。そして、あの先生のところに連れていってくれたの」
「そう。で、あの先生には何か話したの?」
「うん。 『My name is・・・ . My sister's teacher is Mr.・・・』って言った」
親が抜けていると、子供は必然的にしっかりとするようです。自分の名前と、姉の担任の先生の名前という、手掛かりになる情報をきちんと伝えていました。
さて、「Japanese Culture Day」のプログラムが全部終了し、私は娘と息子と一緒に帰路につきました。浴衣を着た娘に、教室を出る前に脱ぐように指示しましたが言うことを聞かないため、コートの下から浴衣が見える不思議な恰好で、電車に乗り込みました。
私はくたくたに疲れていました。朝から働きっぱなしです。息子を忘れるというとんでもない”失態”をやらかして、反省もしていました。
しかし、横に座る娘と息子がふざけ始めましたので、私は「電車の中では静かにしなさい!」と横を見て、叱りました。すると、なんと、娘がコートを脱いで、浴衣姿になっているではありませんか?
「何で、コート脱ぐの? 恥ずかしいじゃない。だから、浴衣は脱ぎなさいって言ったでしょ?」
「いいじゃん。別に」
私は、その言葉にどっと疲れが増して、ただただ、自宅のある駅に着くのを待ちました。
すると、私にとどめを差すような言葉が、私たちの向かいに立つ中年の女性から発せられたのです。
「お嬢さん、浴衣の合わせが反対ですよ」
「だから、何なの? 娘の浴衣の合わせなんて、どうでもいいのよぉ!」と私は心の中で叫びましたが、恐縮した表情で「娘はインターナショナルスクールに通っているもので・・・」と、分けの分からぬ言い訳をして、そのまま黙り込みました。そして、駅に着くと、子供たちを急かして、電車を降りました。
何とも、ドタバタの「Japanese Culture Day」でした。
娘の教室で行われた、ポットラックランチ。
バイキング形式で、親が持ち寄った料理を食べました。
2016年3月28日月曜日
Japanese Culture Day(日本文化の日)①
小5の娘が通うインターナショナルスクールで、「Japanese Culture Day」がありました。日本人ママが結集し、企画、準備、実行する毎年恒例の一大イベントです。私は、太巻き寿司をアレンジした「デコ巻き」の作り方を子供たちに教えるという、”大役”を仰せつかり、久しぶりに緊張した時間を過ごしました。
娘が昨春、地元の公立小から転校したため、娘にとっても私にとっても、「Japanese Culture Day」は初めてです。学年ごとにプログラムを決めるということで、イベントのコーディネーターを務める2人のママから、私を含めて8人の小5のママにメールが来たのは、約1ヶ月前。「ネタは尽きています。思い浮かぶネタはほとんどやってきました。つきましては、新しい日本人ママも増えたので、集まってアイディアを出し合いましょう」。いきなりのプレッシャーで、気が引き締まりました。
私は、幹事役を務める息子の幼稚園の「母の会」総会が重なり打ち合わせに参加出来ず、まず、出遅れました。恐らく、皆で知恵を絞ったのでしょう。その1回の打ち合わせでイベントの概要が決まったと数日後にメールがありました。
メールによると、 各40分のプログラムを4コマ実施する計画。そのうち1つが、私の得意な太巻きの作り方を子供たちに実演し、子供たちにも1人1本作ってもらおうというものです。とにかく、何かの役に立たねば、と「太巻き作りを、私に手伝わせてください!」と返信しました。
普通の太巻きでは芸がないということで、ママの1人が、「デコ巻き」のレシピをネットで探してくれました。切り口がカエルの顔の太巻きです。6人のママで「デコ巻き」チームを結成。リーダー役のママが「LINEでグループ作るね。やり取りが楽だから」と、LINEのグループを作ってくれました。LINEの会話が始まったその日に、「私が買ったのはこれ」と材料の1つの「チーズかまぼこ」の画像が続々と添付されます。早速、試作品の画像を添付するママもいて、そのスピード感に、アラフィフママはついていくので精一杯。
1歩出遅れたアラフィフママは、さらに、焦ります。試作品のための材料調達が難航したのです。「カエル」の目に使うチーズかまぼこが、最寄りのスーパーで売ってなかったのです。チーズかまぼこなど、51年生きてきて買ったこともないし、食べたこともない(と思う)。その風貌は、かろうじて画像で見て分かったものの、「かまぼこコーナー」にあるのか、「チーズコーナー」にあるのかも分からない。焦ってチームのママに電話をすると、「私は、珍味コーナーで見つけたわ」という回答を得て、さらに混乱。「なんで、チーズかまぼこなんて、レシピに使うのよぉ」とムッとしながら、別のスーパーへ。店内を探し回り、ソーセージの棚の魚肉ソーセージの横に並んだ、1袋4本入りを5袋発見。ほっと胸をなで下ろし、それらを全部、むんずとつかんで、レジに向かったのでした。
そして、自宅に戻り、LINEに添付されたレシピを見ながら、「カエル」を作製。スマホで写真を撮り、その画像をLINEに添付し、「遅ればせながら・・・」とメッセージも付け、ようやく皆に追いついたのでした。
そうこうするうちに、「Japanese Culture Day」のランチはポットラック(持ち寄り)なので、持参するものをスプレッドシートに記入して下さいとのメール。このメールは英語でクラスの親全員に送信されました。読んでいくと、「日本人の親はなるべく日本の料理でお願いします」との軽い"しばり"も。メールに添付されたスプレッドシートを開くと、すでに4人の日本人ママが記入していました。ポットラックは、2クラス約30人の子供たちプラス先生と親の分で、多からず少なからずの量という判断の難しい量です。
ここで遅れてはメニューが限られてしまうので、得意のポテトコロッケにしようと即断。言うまでもなく、スプレッドシートに記入するのも、何やら難しい名前のアプリをインストールしてからの作業となり、ひと手間かかりました。ちなみに、他の日本人ママが持参したのは、豚汁、出汁巻き卵、焼き鳥、唐揚げ、枝豆、ソバ、さつま揚げです。
さて、「デコ巻き」チームは、打ち合わせの機会を1度だけ設けました。リーダー役のママに、「子供たちの前で説明する役やって!」と頼まれ、断わる理由も探せず、一応快諾。しかし、前日は緊張のあまり胃がキリキリと痛み、胃痛薬「ガスター10」を買いに、近所のドラッグストアまで自転車を走らせました。厚手の紙に、ステップ1、ステップ2、と英語で箇条書きし、夫に添削してもらい、子供たちを前に何度も練習しました。
当日は、子供が手早く「デコ巻き」を作れるよう、ママたちが手分けして材料をあらかじめ量ったり、切ったりしてサランラップでくるんで持参。子供たちを4グループに分け、机の上に材料を並べました。私は、「ママ、頑張って!」と浴衣を着た娘に応援されながら、黒板の前に立って、身振り手振りを交えて説明。横で、もう1人のママが実演してくれ、助かりました。子供たちは各グループに付いたママたちに助けられながら、サランラップの上にノリを載せ、ご飯を広げ、「チーズかまぼこ」とキュウリを重ねて、ぐるぐる巻きます。「ご飯、広がらないよ!」「ノリがくっつかないよ!」という声や、「出来た!」という歓声も上がります。最後は巻き簀でしっかり固めて、ナイフでカット。
皆、上手な「カエル」の顔が出来ました。私も役割を終え、ほっとひと安心しました。

娘が作った「カエル」。「キュウリもかまぼこも食べられない!」ため、私が全部いただきました。
娘が昨春、地元の公立小から転校したため、娘にとっても私にとっても、「Japanese Culture Day」は初めてです。学年ごとにプログラムを決めるということで、イベントのコーディネーターを務める2人のママから、私を含めて8人の小5のママにメールが来たのは、約1ヶ月前。「ネタは尽きています。思い浮かぶネタはほとんどやってきました。つきましては、新しい日本人ママも増えたので、集まってアイディアを出し合いましょう」。いきなりのプレッシャーで、気が引き締まりました。
私は、幹事役を務める息子の幼稚園の「母の会」総会が重なり打ち合わせに参加出来ず、まず、出遅れました。恐らく、皆で知恵を絞ったのでしょう。その1回の打ち合わせでイベントの概要が決まったと数日後にメールがありました。
メールによると、 各40分のプログラムを4コマ実施する計画。そのうち1つが、私の得意な太巻きの作り方を子供たちに実演し、子供たちにも1人1本作ってもらおうというものです。とにかく、何かの役に立たねば、と「太巻き作りを、私に手伝わせてください!」と返信しました。
普通の太巻きでは芸がないということで、ママの1人が、「デコ巻き」のレシピをネットで探してくれました。切り口がカエルの顔の太巻きです。6人のママで「デコ巻き」チームを結成。リーダー役のママが「LINEでグループ作るね。やり取りが楽だから」と、LINEのグループを作ってくれました。LINEの会話が始まったその日に、「私が買ったのはこれ」と材料の1つの「チーズかまぼこ」の画像が続々と添付されます。早速、試作品の画像を添付するママもいて、そのスピード感に、アラフィフママはついていくので精一杯。
1歩出遅れたアラフィフママは、さらに、焦ります。試作品のための材料調達が難航したのです。「カエル」の目に使うチーズかまぼこが、最寄りのスーパーで売ってなかったのです。チーズかまぼこなど、51年生きてきて買ったこともないし、食べたこともない(と思う)。その風貌は、かろうじて画像で見て分かったものの、「かまぼこコーナー」にあるのか、「チーズコーナー」にあるのかも分からない。焦ってチームのママに電話をすると、「私は、珍味コーナーで見つけたわ」という回答を得て、さらに混乱。「なんで、チーズかまぼこなんて、レシピに使うのよぉ」とムッとしながら、別のスーパーへ。店内を探し回り、ソーセージの棚の魚肉ソーセージの横に並んだ、1袋4本入りを5袋発見。ほっと胸をなで下ろし、それらを全部、むんずとつかんで、レジに向かったのでした。
そして、自宅に戻り、LINEに添付されたレシピを見ながら、「カエル」を作製。スマホで写真を撮り、その画像をLINEに添付し、「遅ればせながら・・・」とメッセージも付け、ようやく皆に追いついたのでした。
そうこうするうちに、「Japanese Culture Day」のランチはポットラック(持ち寄り)なので、持参するものをスプレッドシートに記入して下さいとのメール。このメールは英語でクラスの親全員に送信されました。読んでいくと、「日本人の親はなるべく日本の料理でお願いします」との軽い"しばり"も。メールに添付されたスプレッドシートを開くと、すでに4人の日本人ママが記入していました。ポットラックは、2クラス約30人の子供たちプラス先生と親の分で、多からず少なからずの量という判断の難しい量です。
ここで遅れてはメニューが限られてしまうので、得意のポテトコロッケにしようと即断。言うまでもなく、スプレッドシートに記入するのも、何やら難しい名前のアプリをインストールしてからの作業となり、ひと手間かかりました。ちなみに、他の日本人ママが持参したのは、豚汁、出汁巻き卵、焼き鳥、唐揚げ、枝豆、ソバ、さつま揚げです。
さて、「デコ巻き」チームは、打ち合わせの機会を1度だけ設けました。リーダー役のママに、「子供たちの前で説明する役やって!」と頼まれ、断わる理由も探せず、一応快諾。しかし、前日は緊張のあまり胃がキリキリと痛み、胃痛薬「ガスター10」を買いに、近所のドラッグストアまで自転車を走らせました。厚手の紙に、ステップ1、ステップ2、と英語で箇条書きし、夫に添削してもらい、子供たちを前に何度も練習しました。
当日は、子供が手早く「デコ巻き」を作れるよう、ママたちが手分けして材料をあらかじめ量ったり、切ったりしてサランラップでくるんで持参。子供たちを4グループに分け、机の上に材料を並べました。私は、「ママ、頑張って!」と浴衣を着た娘に応援されながら、黒板の前に立って、身振り手振りを交えて説明。横で、もう1人のママが実演してくれ、助かりました。子供たちは各グループに付いたママたちに助けられながら、サランラップの上にノリを載せ、ご飯を広げ、「チーズかまぼこ」とキュウリを重ねて、ぐるぐる巻きます。「ご飯、広がらないよ!」「ノリがくっつかないよ!」という声や、「出来た!」という歓声も上がります。最後は巻き簀でしっかり固めて、ナイフでカット。
皆、上手な「カエル」の顔が出来ました。私も役割を終え、ほっとひと安心しました。
娘が作った「カエル」。「キュウリもかまぼこも食べられない!」ため、私が全部いただきました。
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