2022年4月24日日曜日

僕の行き場は?

  このブログでも何度か書いていますが、小5の息子は、中学校受験に向けて塾に通っています。「塾激戦区」と呼ばれる、一つ隣の駅にある塾です。そこでは塾がひしめき合い、一番大きな塾になると1学年に30クラス以上もクラスがあります。規模としては中ぐらいの息子の塾でも、5年生が12クラスもあります。

 1クラス20名前後のクラス分けは、毎月実施されるテストの点数により、行われます。ですので、毎回、テストの出来不出来によりクラスが変わります。そんな中、息子のクラスはこの数カ月、変わっていません。そう、何を隠そう一番下のクラスです。

「一番下ということは、次は上に上がるだけだから、頑張れ!」と励ます日々。先日、5月のクラス替えに向けてのテストを受けました。国算理社の4教科。当日に解答を持ち帰り、かつ、テストの翌日には塾に提出した答案用紙もネット上にアップされます。その答案用紙を、昨日採点しました。まずは、得意だった(過去形)算数、150点満点中39点。「出来たよ!」と本人は言っていた理科は100点満点57点、国社に至っては、採点しなくても結果は分かりますので、しませんでした。

 3月に行われたテストでは、国算社は偏差値30未満と、「こういう偏差値が世の中に存在するのだ」と驚いてしまうほどの結果でした。理科だけはかろうじて、平均の偏差値50より少しだけ下回った48という結果でした。明らかに息子は落ちこぼれています。「君は頭が悪いんだよ」と、小5にして突きつけられるこの現実。

 地方都市で生まれ育った私は、息子が可哀想にも思えますが、仕方ありません。こういう激戦区にいる子どもたちのほとんどは中学受験を目指します。ですので、中学受験をしないという決断は、もっと勇気がいるのです。

 現在高2の娘の場合、小5の春にインターナショナルスクールに転校させました。地元公立小学校の授業参観で、塾通いをして知識を詰め込んでいる子どもと、のんびりと育っている娘では、圧倒的な差が出ていることを実感したからです。「このままでは、娘はつぶれてしまう」という危機感から、転校させました。親としての勘と決断は正しかったと今は思います。が、息子にはここで踏ん張ってほしい―と思ってしまうのです。

 うなだれる息子が言います。

「ママ、中学受験やめる?」

「やめて、どうするの? 公立中? あそこはいい学校だけど、東京・神奈川は中高一貫校が多いから、高校受験は選択肢が少ないし、賢くなければ、なかなか合格とれないらしいよ」

「でもさ、こんな成績じゃ、合格できる学校なんてない。こんな僕みたいな頭の悪い人間に、可能性なんかないと思う」

「そんなこと、ないよ」

「成績はビリだし、頭悪いし、僕にはどこにも行き場がない。生きているのが辛い。生まれてこなければ良かった」

 私はうなだれました。こういう思いにさせてしまう私は、親として失格です。息子は私が46歳のときに出産した子どもです。欲しくて、欲しくて、命懸けで産んだ子どもです。なのに、中学受験という、しなくても良い選択をして「生まれてこなければよかった」などと思ってしまうような状況にさせてしまった。

 でも、かといって選択肢は少ない。地元公立中学校に通うという選択が一つ。でも、お友達のほとんどが週3回の塾通い(息子は週2ですが、週3が主流)とスポーツを両立し、遊ぶ時間のほとんどないスケジュールをこなしている中、息子だけが、塾通いをやめてスポーツだけに専念するのも、これはこれで難しい選択です。

「中学受験やめてもいいんだよ。水泳や走るの好きだから、それを一生懸命やったら? 大谷翔平君なんて、素晴らしいじゃない。彼は小学生のころから野球に打ち込んでいたんだよ。ほら、将棋の藤井聡太君。彼も将棋が大好きで…」

こういって、その世界で大活躍する若者の名前をつい出してしまうのも、親として浅はかな証拠。

「ママ、ぼく水泳は好きだけど、誰にも負けないというほどではないんだ。走るのだって、学年1番じゃないし…」

 インターナショナルスクールへの転校も最終手段としてはありますが、娘と違って様々なことに敏感な息子は、「日本の学校で出来が悪かったからインターに移った」という思いを抱いてしまうでしょう。よく、「小さな成功体験を積み重ねることが大事」と子育て本に書いてありますが、それがなかなか難しい。

 さて、おやつを食べさせ、10分間大好きなアニメをパソコンで観ると、さっきまで落ち込んでいた息子は少し気持ちが紛れたようです。さっそく、国語のことわざについて一緒に勉強を始めました。小5はまだ素直さが残っていて、助かります。反抗期に突入し、塾に行かないーと親を困らせる子も出てきているようですが、うちの息子はとりあえず、だましだまし勉強をさせられます。私が付きっ切りでやりますが…。

「問題です。どんな仕打ちを受けてもこたえないこと、または、図々しい態度をとるという意味のことわざは何というでしょう? テキストの例文はこんなのが出ているよ。『忘れ物の多いタロウ君は、担任の先生にどれだけ叱られても●●●で、生活態度が改まる気配がない』」

「ああ、あれね。『亀の甲羅に水』」

「…。違うよ、『蛙の面に水』だよ」

うーん、発想としては悪くないんですが…。インターナショナルスクールの小5なら「Great Job!」などと褒めたりしながら、正しい答えを教えるのでしょう。でも、日本は違いますよ。正しい答えは一つなんです。

息子が言います。「あっ、そうだったね。そういえばさ、同じクラスの子たちが『犬も歩けば棒になる』って言うんだ。だから、『それ違うよ、犬も歩けば棒に当たるだよ』って直すと、あっちは僕が間違っているって言うんだよ」

 まぁ、「亀の甲羅に水」も「犬も歩けば棒になる」も同じレベルです。大人の私としては、心が癒されるほど、可愛いなと思います。でも、これは12クラス中12番目のクラスにいる子どもたちの会話で、上のクラスの子どもたちは、スポンジが水を吸うように知識を身に付ける子どもたちが学ぶ静かな環境で、粛々と勉強をしているのでしょう。

 あーあ、先は長いです。

2022年4月19日火曜日

室蘭に行きたい

 ポストに素敵なハガキが入っていました。私が働いていた北海道新聞社の初任地だった室蘭からの便りです。ハガキの裏面には、「もうすぐ もうすぐ」という言葉とともに、ちぎり絵で美しい桜の木が描かれていました。

室蘭から届いたちぎり絵のハガキ

 差出人は、当時(30年前!)、室蘭市役所の広報担当だった女性キノシタさん。市役所を定年退職された後、第2の職場で働いていらっしゃいます。「With コロナで生活する」ことをポジティブに捉え、「新聞ちぎり絵」を始めたそうです。北海道新聞のカラー部分をちぎって作ったと書いてありました。

 心が癒されました。桜の花の部分はピンク色の新聞を丁度良い感じにちぎって、貼られています。木の幹も、まるで絵の具で描いたように、陰影がつけられています。深緑色の草も、色合いの微妙に違う色の新聞を重ね合わせることで、こんもりとした感じがよく表されています。キノシタさんの心の豊かさがとても良く表れています。

 当時、右も左も分からない私に、たくさんのことを教えてくれたキノシタさん。お会いしたいなぁとつくづく思います。

 室蘭には、市の国際交流課にいらしたMさん(この方も定年退職されています)、よく昼ご飯を食べにいったイタリアンレストランの女性オーナーSさんとNさん、そして、私と同い年の元室蘭民報記者のナオミちゃんと、会いたい人がたくさんいます。

 ナオミちゃんは折々に地元のお菓子などと一緒に手紙をくれます。年末には室蘭のカレンダーも送ってくれました。私の机の前に貼ってあります。時折、しみじみと眺めては、当時を思い出しています。

机の前に飾ってある室蘭のカレンダー。左は、室蘭時代の私。記者仲間とソフトボールをしていたときの写真

 カレンダーは月ごとに、室蘭の名所の写真が使われています。友達や両親が遊びに来たときに連れて行った「地球岬」。太平洋を一望できるこの岬は、初日の出を見られる場所としても有名で、新人記者時代はその初日の出を撮影しに行き見事失敗しました。先輩記者がバックアップとして撮影してくれていて、”感謝感激”したという思い出の詰まった場所です。

 仕事が辛くて辛くて、夜、車を走らせた「測量山」。誰にも聞かれないように、車中で大声を張り上げて泣いたのも、今は懐かしい思い出です。

 当時は街おこしが盛んで、伝統工芸品の職人さんたちが「室蘭手わざ」という会を作っていました。取材したときにいただいた文鎮は、私の宝物です。皆さん、お元気で活動されているのでしょうか。

伝統職人さんで作る「室蘭手わざ」の文鎮

 若いころ、たくさん笑って、たくさん泣いた室蘭に、行きたいなぁと思います。昔、「思えば遠くへ来たもんだ」(海援隊)という曲がヒットしましたが、本当に遠くに来てしまいました。

 

2022年4月13日水曜日

博士課程日記 ②入学式へ

  昨日、日本武道館で入学式が開かれました。午前は学部生、午後は大学院生と別々に開催。新型コロナウイルス対策で、残念ながら家族は参加できませんでしたが、インターネットを通じて映像が配信されました。 

 夫が休みを取り、私の”晴れの日”につき合ってくれました。まず、「九段下」駅近くの中華料理店でランチ。その後、のんびり歩いて武道館へ。午前中の式を終えた、初々しい学生たちが晴れがましい表情をして、駅に向かって歩いています。

 武道館の前では、私と同年代の人たちが嬉しそうに、大学院生となった子どもの写真を写しています。そうだよなぁ、と思いながら、親たちを眺めました。私も子どもたちの入学式・卒業式は本当に晴れがましい気持ちになります。昨日はいつものように朝から気持ちが晴れず、「この年になっての自分の入学式なんて、嬉しくないものだなぁ」と感じていました。

 

 沈んでいる私とは対照的に、夫はご機嫌です。素敵なお花を用意してくれました。スクールカラーの淡青と黄色、白のブーケです。スクールカラーなんて、気にかけもしませんでしたが、夫がインターネットで調べてお花屋さんで選んでくれたようです。そのブーケを持って、武道館を背に写真を写してもらうのは、ちょっぴり恥ずかしかったですが、夫の優しさがありがたかった。

 「ネットで配信される式を見たいから、僕は帰るよ」と言う夫と別れて、館内へ。案内されるがままに席に向かうと、なんと、ラッキーなことに前から2番目でした。ステージも、ステージの上にかかったスクリーンもとても良くみえます。

 式開始前に、大学の応援団の学生たちが活動内容を披露してくれました。来年、大学を受験する娘は、大学でどんな活動をするのだろう?と想像しながら、彼らのパフォーマンスを見ていました。

 その後、約10分間にわたって、大学のオーケストラの演奏(コロナ対策のため録音でした)に合わせて、会場の学生たちの顔がスクリーンに映し出されました。何台ものカメラが切り替わり、アリーナ席、一階席、二階席の学生たちを次々と映し出します。想像していたより、ずっと人数が多く、皆若くて賢そうで、彼らの顔を見ながら「私も頑張らなきゃ」と気が引き締まりました。

 式は厳かに行われました。総長ら列席者の式辞はどれも、心に残るものでした。式が終わるころには、気持ちも晴れ、「今日は来て良かった」と思えました。

 式の後、外に出て、武道館をバックに自撮り写真を撮りました。「すみませーん!シャッター押してもらえますか?」 学生たちが聞きます。「いいですよ!」 私はスマートフォンを縦や横にしながら、ボタンを何度も押します。ちゃんと写っていますように、と願いながら。すると、私と同年代(40代だったら、すみません!)の女性が、晴れやかな表情をして、ご主人と思しき人に写真を撮ってもらってました。とても微笑ましく、私まで嬉しくなりました。

 帰宅途中、スーパーで食料品を買って、自宅に戻りました。夫が、チーズケーキを作って待っていてくれました。このチーズケーキは絶品で、私や子どもたちの誕生日など、特別な日にだけ、作ってくれます。昨日はお天気が良かったので、デッキにテーブルを出して食べました。それは美味しかった。

夫がプレゼントしてくれたブーケと、手作りチーズケーキ

 これからの4年間は辛いことも多いと想像し、また、子どもたちがまだまだ私を必要としてくれるこのときに、自分が学校で学ぶ立場になってよいのかーとも思います。でも、せっかく与えられた機会です。それを十分に生かし、がんサバイバーの視点を大切にしながら研究を進めていきたいです。

2022年4月12日火曜日

博士課程日記 ①初講義の日に

   4月7日(木)は、私の新たな挑戦の始まりの日でした。大学院博士課程の講義が始まったのです。昨年11月に合格通知書を受け取った後、今年2月に入学手続きの書類が届いてから、難儀な日々が続いていました。でも、ようやく講義の初日にこぎ着けました。

「何時に家出るの? 君の記念すべき初日の写真を写したいんだ」

朝、在宅勤務の夫がそう私に話しかけてきました。

「午後1時から2コマの講義があるから、そうねぇ、11時ぐらいに家を出るつもり。初日だから時間に余裕を持ったほうが良いから」

「了解。じゃあ、家を出るときに声かけてくれ。リュックサック背負っていくんだろ?」

「うっ、うん」

そうか。夫は50代の妻がリュックを背負って、学校に向かう姿を想像していたんだ。普段は別のバッグを使っているので荷物の入れ替えが手間ですが、夫の”期待”に応えることにしました。妻の挑戦を支え続ける夫は、本当にいいヤツだよなぁとこういうときにいつも思います。義母が以前、夫(4人兄弟の次男)のことを「Good Guy」と表現していましたが、その通りです。

 さっそく、バッグの中身の入れ替えに取り掛かりました。普段使っているのは、パソコンやA4サイズのファイル、充電器具なども楽に入る大きな横長の革製のバッグ。それを全部リュックに入れ直しました。

 4月1日に大学に取りに行った「学生証」を、IDカード入れに入れます。修士課程時代のIDカードは大学院に返しましたので、そこに新しい学生証を入れました。今回の学生証の写真の私の、まぁ老けていること。不安を感じつつも気分が高揚しているはずの講義初日に、学生証の自分の写真にがっかりするのは、やはり50代学生ならではでしょう。

 そうこうするうちにあっという間に時間が経ち、11時半になってしまいました。夫に声を掛け、玄関前で写真を写してもらいました。「博士課程、イェーイ!Good Luck ! 」 夫の”声援”を受けて、いざ、大学へ。


 大学へはドア・ツー・ドアで1時間弱です。広いですし、どこに何があるのかほとんど把握していませんので、学部の案内板を見て講義が行われる場所を確認し、講義室にたどり着いたときは開始10分前でした。
 
 講義室には何十人も学生がいて、仰天しました。ここで初めて気が付いたのですが、必要な単位を取るために受講する講義の一部は、修士課程の学生と一緒のようなのです。
 
 人数が多いので、私のような異質な存在も気付かれないでしょう。こんなことを言うと不謹慎と思われそうですが、マスクをつけていること、ありがたいんです。シミやほうれい線隠せますから。講義室を見渡すと、皆若く、私の子どもといっても良いほどの年齢の人も少なくない。「みんな、頭良さそうだなぁ」と感心しながら、端っこの席に座りました。

 一応はパソコンを開きましたが、校内のWifiにはまだつながっていません。学校が変わるということは、システムの全てが変わるということ。で、その様々な手続きが一筋縄ではいかず、学習環境が整っていないのです。ですので、持参したNTTドコモの携帯用Wifiルーターに接続し、準備をします。オバサンが新しい環境で生き抜くには、こういうバックアップをいかに事前に準備するかーが重要なのです。はい。
 
 講義は「医学データの統計解析」です。修士課程時代、泣きながら学んだ生物統計学。全ての用語が自分にとって新しく、内容も難しく、本当に苦労しました。今回も講義も決して楽ではないでしょうが、まぁ、「先生が何のことを説明しているのか、てんで分からない」という状況にはならないでしょう。講義では、「なるほど、そういうことか」と納得することも多く、ためになりました。

 2コマ続く統計学の講義。2コマ目の後半はウトウトしてしまいました。先生の講義はとてもためになるのに、集中力が続かないのです。

 配られた宿題は、何のことかさっぱり分からない数学の問題でした。あーあ、こういうの辛いよなぁ。3つ目の質問で、先生がくれたヒント「Γ関数を使う必要がある」。これ、何て読むか、調べるところから始まるんです(帰宅後、夫がグーグルで調べてくれて、ガンマの大文字であることが判明。夫もΓ関数は知らないと言っていました)。
 
 講義が終わり、あっという間に夕方になりました。構内を歩きながら、「せっかくだから、楽しいことをしよう!」と思い立ちました。

 この大学は広くて、各学部ごとにファストフードの店やカフェがあります。で、毎週講義の後に、一店ずつ、それらの店に行くことにしました。この日は、理学部のスターバックスに寄ることに。「来週はどこに行こうかなぁ。こういうの、結構楽しいかも」ー。ホットのカフェモカをすすりながら、ちょっぴり幸せな気分になったのでした。



2022年4月7日木曜日

3人の「IL DIVO」

 私は日常的に音楽を聴くほうではありませんが、繰り返し聴くCDがいくつかあります。その一つが、以前このブログでも紹介したことがある多国籍のボーカル・グループ「IL DIVO」です。

 4人のメンバーの一人でスペイン出身のバリトン歌手、カルロス・マリンさんが昨年12月、新型コロナウイルス感染症で亡くなりました。その後しばらくツアーは中止され、残された才能豊かな3人はどうするのだろう?と心配していたところ、3月日本でのツアー再開のニュースが入ってきました。安堵と寂しさの入り混じった気持ちになりながら、27日東京国際フォーラムで開かれたコンサートに行ってきました。

 「IL DIVO」のコンサートにはこれまで2回、行きました。1回目は母を連れて、2回目は私の大学時代からの友人で、メンターでもあるIさんをお連れしました。2人とも、コンサートに連れて行ったあとは、ID DIVO のファンになりました。

 今回は夫を連れて行きました。チケットを2枚購入し、「娘を連れて行こうかな?」とも思いましたが、まずは夫を誘いました。予想に反して、「いいね。君のCDから流れる曲をよく聴いていたから、楽しみだよ」。

 当日は、子どもたちにランチを準備し、息子の水泳教室がある夜は1人700円の予算でマクドナルドに行くよう提案しました。子どもたちは「サムライマックが食べられる!」と大喜び。電車で息子をプールに連れて行ってくれる娘には、アルバイト代600円を渡しました。

 さて、上機嫌な子どもたちに見送られて、久しぶりに夫婦で外出です。まずは、コンサート会場がある有楽町駅近くのブリティッシュ・パブへ。ボリュームたっぷりのフィッシュ・バーガーを食べました。



 腹ごしらえをした後は、いざ、コンサート会場へ。会場の東京国際フォーラムホールAは収容人数5千人超です。コロナ禍、座席は1つ置きという対応がなされたコンサートも多かったようですが、今回は通常に戻り、観客席はファンで埋め尽くされていました。1階にどれだけの人数を収容できるか分かりませんが、満席状態でした。

 ステージにメンバー3人が登場しました。3人の歌声は美しかったですが、カルロスさんの低くて魅力的な歌声を聴けないとやはり物足りない。他の3人もとても美しい声なのですが、4人がいてこそIL DIVOです。ステージのスポットライトの下に、カルロスさんがいなかったのは、とても寂しかった。

 でも、3人は心を込めて、歌ってくれているのは十分伝わりました。そして、3人それぞれがカルロスさんとの思い出を語りました。どれもが、じんと心に染み入るお話でした。コンサートの途中からバリトン歌手が助っ人として参加し、カルロスさんのパートを歌いました。彼の歌声もそれは素晴らしかった。

 帰りに、昨年まだ彼が存命だったときにリリースされたCDを購入しました。その売り場の前には3人のIL DIVOのポスターが貼られていて、切ない気持ちになりました。これからも3人なのでしょうか。それとも、遠からず、4人になるのでしょうか。


 さて、コンサートを堪能した後、余韻を楽しみたくなり、夫と共に有楽町駅近くのカフェに寄りました。ワインと、カフェ名物のホットケーキを注文しました。

 「このホットケーキ、ふわふわして美味しいね」などと言いながら、コンサートの話をしていると、突然、私の視界に今まさにコンサートホールで見たばかりの人が入ってきました。美しい女性と一緒のその人は、私の目の前のテーブルに座りました。

「ねぇ、あの人、ウルスだと思う。メンバーの一人。何気なく振り返って見てみて」

夫が、後ろを見ます。

「本当だ。ちょっと調べてみる」

携帯電話で、ID VIVOのメンバーの一人ウルス・ブーラーさんの画像を探します。

「ねっ。彼でしょ? 格好いいわあ。前に座っている人、奥さんね」

「うん、間違いない。ウルスだよ。僕を撮影するふりをして、写真を撮ったら?」

「そうする!」

 私は夫に携帯電話を向け、少しだけカメラをずらして、焦点をウルスさんに合わせました。まぁ、惚れ惚れするほど、ハンサムです。夫によると年齢は50歳だそうですが、とても、50歳には見えません。そして、向かいに座る女性の綺麗なこと。

 こういう写真は肖像権の問題などありそうですが、私のようなフツーの日本人のオバサンのブログの画像として載せるぐらいは大丈夫でしょう、と勝手に判断して載せます。素敵でしょう? ちなみに、画像の右にうつっているのが、夫の耳。 

 カルロスさんの歌声を聴けなくなったのはとてもとても残念で、Il DIVO ファンの私としては、彼のいないIL DIVO を観るのも切なかった。でも、こうしてメンバーの一人を間近で見ることができ、コンサートの余韻と相まって、気持ちが明るくなりました。

 これからはカルロスさんがいないIL DIVO が続きます。でも、ファンの心の中にいつまでも彼の歌声は残っていると思います。もちろん、私の心の中にも。

 カルロスさん、天国で安らかに眠ってくださいね。