2018年10月31日水曜日

夏の思い出① カエルとの交流

 あっという間にコートが必要な季節になりました。今年の東京は梅雨の期間も短く、また、夏もあっさりと過ぎたような気がします。赤、黄と鮮やかな色を付けた木の葉を見ていると、葉が青々としていた、楽しかった夏を思い出します。

 今年の夏も小さな楽しみがいくつもありました。その中でも、心温まる思いで見ていたのは子供たちと我が家に住み付いたカエルとの交流です。

 カエルがやってきたのは5月12日、夫と息子が家の小さな庭に芝生を敷き詰めた後でした。芝生を敷いたのは5月7日と10日の2日間でしたので、その2日後のことです。

 最初に発見したのは、芝生を植えたばかりで朝晩と水やりに熱心だった(当初だけ)夫です。
「カエルがやってきたぞ!結構、大きいよ」
「えっ? 本当?」
「どこ?」
と子供たちは大はしゃぎです。


 その後、ちょくちょくカエルは我々の前に姿を現しました。体形も変化しておもしろかった。
暑い日が続いたときは、「カエルさん、やせちゃったみたい」と心配する息子の声が庭から聞こえました。見にいくと確かにスリムになっています。カエルも”夏バテ”をしたのでしょうか?

 しばらくしたら、また体形が戻ってきて、「カエルさん、また、太ったみたいだよ。良かったね」と安心する息子の声が聞こえました。そういうときは、カエルはちゃんとデッキの下に隠れて涼んでいたりしました。

 7月16日は猛暑日でした。その日は玄関前の花壇で発見。涼を求めて移動したのでしょうか?もしくは他のカエルだったのでしょうか。カエルを発見した子供たちは大喜びで、また、つかまえて「ハロー、キューティ(かわいい子)!」と声掛けしながら、なでなで。

 特に娘は小さなころからカエルや虫が大好き。世の中広しと言えども、カエルにキューティと名付けて愛でる中2女子は娘ぐらいだろうなと思います。でも、そんな素朴な娘が何とも愛おしい。



 その日はとても暑かったので、庭のデッキに家庭用のミニプールを出そうと思っていたところ。水を入れると、息子は水着に着替えて、カエルと一緒にプールに入りました。


 
 当のカエルは迷惑だったのでしょうが、あまりに可愛いのでしばらく一緒に泳がせました。ちょうど水泳教室で平泳ぎを習っていた息子はカエルの泳ぎを観察。
 「カエルさん、本当に平泳ぎで泳いでいた。でも、腕は使っていなかったよ」
 
 最後にカエルを見かけたのは8月24日、花壇に植えたアサガオの葉の下です。息子が小学校で育てて間引きして持ち帰った苗を植え、育てたもの。息子が水やりをしていたときに、カエルを発見したのです。生い茂ったアサガオの葉の下は涼しかったのですね。


 あまりに暑かったため、カエルには土がすぐ乾燥する花壇は辛いだろうと、近くの緑豊かな公園の小川の側に放つことにしました。娘がお別れの歌を作詞・作曲し、カエルに捧げました。
 
My little Froggy (私の小さなカエルちゃん)
 beautiful and calm (美しく、穏やか)
   My little Froggy (私の小さなカエルちゃん)
    free in the river  (川で自由になるのよ)
    My little Froggy  (私の小さなカエルちゃん)
       Spread it's wings  (その羽を広げて)
         My little Froggy  (私の小さなカエルちゃん)
           Good luck out there  (幸運であることを)

 カエルをなでながら、気分良くお別れの歌を歌う娘に、夫が茶々を入れます。
「カエルに羽はないぞ!」
「あるんだよ、ダディ」
と空想の世界に生きる娘が答えます。

 そして、カエルを手に娘と息子は公園に行き、小川の近くにカエルを放ちました。カエルはピョンピョンと繁みの中に消えて行ったそうです。気分良く帰宅した子供たちはカエルの様子を報告。
「さよならのキスをしたの」と娘。
「えっ?」とギョッとした私に、「大丈夫だよ。ママ、すぐ、公園の水道で口をすすいだから」と息子。

 そんな夏のエピソードを思い出しながら、息子が小1、娘が中2の夏も終わってしまったのだなとちょっと寂しくなります。来年の夏も、子供たちがカエルと一緒に遊んでくれることを願います。

2018年10月27日土曜日

息子の落とし物

 今朝、夫が行きつけの床屋さんに、小1の息子を連れて行きました。夫の楽しみの一つで、中2の娘もつい最近まで一緒に行っていました。

 床屋さんに子供を連れて行くと言っても、髪を切るのは夫で、子供たちは夫を待っているだけ。ご夫婦で経営する小さな店で、夫が髪を切ってもらうときには子供たちは近くのソファに座って、持って行った本を読んだり、絵を描いたりしています。お店の人や他のお客さんにご迷惑でないのか気になりますが、大人しくしているようなのです。小学生にもなれば子供たちもつまらないのではと想像しますが、よちよち歩きのころから夫と一緒に行っていた子供たちは喜々として着いて行きます。

「早く、早く。田中さん(床屋さんの名前)はすぐ混んじゃうからさ。図鑑はダディのバッグに入れておいたから」
2階で何やら準備をしていた息子を急かす夫の声が玄関から聞こえます。図鑑は息子が昨日、学校から借りてきたもので、床屋さんで読ませようと夫は自分のバッグに入れたようです。
「分かった。今行く!」
息子が慌てて2階から駆け降りてきました。
そして、急いでスニーカーを履いて出て行きました。

「いってらっしゃい!」
玄関前の道路で2人の背中を見えなくなるまで見送り、家へ。ぐちゃぐちゃに散らかった家の中をため息をつきながら一つ一つ片付けるのは私の仕事です。

 1階のキッチン・ダイニングをざっと片付け、息子の部屋がある2階に行こうと階段を上ると、その途中に息子が夫の床屋さんに付き合うために準備していたものが転がっていました。「キャプテン・アメリカ」というアメリカのコミック作品のヒーローが持っている盾の形をしたリュックサックと、息子が赤ちゃんのころから一緒に寝ているクマのぬいぐるみ「ベア」です。


 ああ、これを持って行こうとしたんだな。ベアと一緒に図鑑を読もうとしていたんだな、と想像しました。胸がキュンとしました。日常の何気ない風景。娘が成長し、このような子供らしい落とし物を家の中にしてくれなくなった今、尚更、これらがいとおしい。そして、いつか、こんな風景を家の中で見なくなる日が来る、と想像すると胸がチクンと痛むのです。

 仕事や趣味など、家庭以外で人生を豊かにしてくれるものを求める私ですが、私が本当にしたいのはそれなんだろうかと考えます。実はそうではなくて、子供との時間を精いっぱい楽しみながら、子供たちが好きそうな料理やお菓子の新しいレシピに挑戦したり、子供たちのために縫い物をしたり、ささやかな日常の風景を写真に撮ったり、文章につづったり、子供たちの成長を記録するアルバムを作ったりすることなのではと考えるのです。

 でも、一方で、子供たちが巣立ってしまったあと、自分自身が空っぽになってしまうのも恐れている。そして、世の中に必要とされなくなること、家庭以外に自分の居場所がなくなってしまうことも恐れている。私は39歳まで仕事に没頭し、40歳直前と46歳で出産しましたので、子供が小さくて可愛らしい50代前半の今、活動を始めなければあっという間に”老後”と言われる年齢になってしまうという焦りもあります。

 私が本当にしたいことは一体何なのだろうか? 息子があちこちに散らかしたものを拾い上げ、抱き締めながら、ぐるぐると考えを巡らせたのでした。

2018年10月20日土曜日

Iさんのこと

 私には母と同い年80歳(昭和13年生まれ)の友達がいます。Iさんといいます。Iさんとはアメリカ・ミシガン州の大学で出会い、もう、かれこれ30年近くお付き合いさせていただいています。

 私がIさんと出会ったとき、Iさんは50歳でした。働きながら子供2人を育て上げ、2人が大学生のときに仕事の専門性を高めるため、アメリカの大学院に留学しました。

Iさんと私が学んだ大学のポストカード
Iさんは、私が友人とシェアしていた大学内のアパートの部屋と同じフロアの部屋に住んでいました。面倒見の良い人で、たくさんの留学生がお世話になりました。私もちょくちょく部屋に遊びに行きました。

 アパートに顔を出すと、Iさんはいつも老眼鏡をかけ、テキストブックと格闘していました。普通の老眼鏡では間に合わなかったのでしょう。水中メガネのような大きな老眼鏡をかけていました。ご主人も研究者で、夏休みや冬休みなど長期休暇のときにIさんの様子を見に来ていました。集中しているIさんの邪魔にならないようにという配慮からでしょうか。部屋の片隅に静かに座っていた姿が印象的でした。

 今、私がIさんと同年代になり、視力も体力も衰えてきて、改めてIさんのすごさを実感します。私が40代や50代になって、何か新しいことを始めようとするときに躊躇するときはいつも、老眼鏡をかけて必死に勉強していたIさんの姿を思い出します。そうすると、30年前にIさんが50歳でアメリカの大学院に留学したことを考えれば、今の時代に50代で言葉の通じる日本で何かに挑戦するのは、簡単なことなんだと一歩を踏み出す勇気が出ます。

 Iさんは帰国した後、60代で博士課程に進み、医学博士となります。Iさんは「私よりずっと若い教授に、こんな年齢の人を医学博士として世の中に送り出して良いものかと思う、と言われたのよ」と笑い飛ばします。Iさんが成し得たことを考えれば、私の挑戦など本当に取るに足らないことと思いますし、Iさんがいるからこそ、私は目標を失わずに生きることが出来ました。

 そのIさんの傘寿(80歳)のお祝いに9月18日、私の大好きな4人組のヴォーカル・グループ「IL DIVO」のコンサートにご招待しました。IL・DIVOのコンサートには2年前、母を連れて行ってとても喜んでもらいましたので、Iさんもぜひお連れしたかったのです。

観客を魅了した「IL・DIVO」。4人ともハンサムで、とても素敵な声をしています
Iさんはとても喜んでくれました。私も、2年前と同様、4人の歌声にうっとりと聴き入りました。余韻が覚めない中、日本武道館を出たIさんと私は腕を組んで歩きながら、今聴いたばかりのコンサートについて語り合い、歌を口ずさみました。

コンサート終了後、たくさんの人がここをバックに写真を写していました
これからも大好きなIさんとの時間を大切にしたいと思っています。

 

北海道胆振東部地震 被災地札幌へ④

北海道胆振東部地震の翌々日(9月8日土曜日)、安否が分からなかった叔母から母に電話が来た後、同じくむかわ町に住む叔父夫婦とようやく電話がつながりました。

「おじさん、睦美です。大丈夫ですか?」
「おお、むっちゃんかい。お陰様でこの通り、無事だよ」
「おじさん、家の中すごいんでしょ?」
「うん。でも、子供たちが手伝いにきてくれて、壊れたものを全部外に出してくれるから、助かるんだ。家は壊れなかったから、避難所に行かなくてもいいんだ。ありがたいよ」

叔母が電話口に出ました。
「おばさん、大変でしたね」
「お陰様でね、無事だったの。近所では壊れた家もあって、たくさんの人が避難所に行っているんだけど、うちは家だけは大丈夫だったの。築40年以上の経つのにね。本当に助かっているの」

大変な状況の中、「お陰様で」を繰り返す叔父夫婦に、ほんわかと心が温まりました。

この日はニュースを見た夫からも電話がありました。
「日本人って、偉いよなぁ。大災害があっても、助け合ってさ。食べ物が届いてありがたいとか言って、謙虚でさ。アメリカだったら、住人が避難所にいっている家の中に泥棒が入るよ」
「そう、日本は自然災害が多い国だけど、被災者たちは大変な状況の中で皆助け合って、乗り越えるの」
いつもの私の、”日本自慢”です。

さて、翌日の9月9日日曜日は朝早く起きて、実家の最寄りのバスターミナルから午前5時50分発の新千歳空港行きのバスに乗りました。母が「これ持っていきなさい」と、保冷バッグに入ったホタテの貝柱1キロと、母がふかしたお赤飯を持たせてくれました。留守番をしていた子供たちには「サーティワンのアイスクリームでも食べてね」というメッセージが書かれたお小遣いも。

この朝早く実家を出たのは、午前11時過ぎに夫が羽田空港からバンコク行きの飛行機に乗ることになっていたからです。

関西地方を襲った台風21号、北海道地震と大きな災害が続き、「東京でも地震が起きるかもしれない」という不安が募っていましたので、とにかく東京に帰らなければなりません。娘は中2ですので、何かあれば小1の息子を伴い、行動できると信じてはいますが、やはり、まだ子供です。とにかく、両親ともに東京にいないという状況だけは避けなければと考えました。

バスは順調に運行し、新千歳空港には7時少し前に着きました。出来るだけ早い便に乗るために、すぐJALカウンター前の列に並びました。

私の後ろに並んでいた60代ぐらいの男性が話し掛けてきました。
「もう少し混んでいるかと思ったんだけど、混んでいないですね」
「そうですね。飛行機も順調に飛んでいるようで、何よりです」

男性はにこやかに話を続けました。
「私、住まいは関西なんですけど、こちらにも事務所があるんですよ。で、こちらに出張に来ていて、さて帰ろうというときに関空が閉鎖になってしまって・・・。関空が再開するのを待っていたら、今度は北海道が地震になって、飛行機が飛ばなくなってしまって。ずっとこちらに足止めでした」
「そうなんですか。それは大変でしたね。私は札幌で一人暮らしをする母の様子を見に来ました。こちらに来たのは地震の翌日で、飛行機やJRが次々と運行を再開した直後で助かりました」
「そうですか。お母さんはご無事で?」
「ええ。元気で、家も大丈夫でしたので、これから東京に帰ります」

私が予約してた航空券は10時発でしたが、7時半発に変更できました。保安検査場に向かうと、普段は早朝から開いている空港旅客ターミナル内のお土産店・飲食店が閉まっていました。


張り紙には「消防(スプリンクラー設備)の障害が広範囲に発生し・・・」とありました。いつもは多くの人でにぎわう場所がひっそりとしているのは何とも不思議な感じでした。


さて、飛行機は新千歳空港を定刻に離陸して順調に飛び、9時過ぎに羽田空港に着陸しました。すぐ、「フェイスタイム」という顔を見て話すことが出来るスマートフォンの機能を使って、夫と話をしました。夫はちょうど保安検査場を通ったところだと言います。

「あら、ここからバスに乗って、国際線ターミナルに行って、顔を見ようと考えていたのに残念」
「なぁんだ。それなら、先に言ってくれれば、保安検査場を通らないで待っていたのに」
「まあ、私が無事に東京に着いたから良しとしましょう。とりあえず、今、何かあっても、子供たちのところには駆け付けられるから」
「そうだよなぁ、災害多いからな。最近」
「では、気を付けてバンコクに行ってきてね」
「うん。子供たちをよろしく」

夫との会話を終え、自宅最寄り駅行きの直行バスに乗り、家に着いたのは午前11時過ぎでした。

「ただいま」
「ママ!おかえり」
息子が抱き付いてきてくれました。
「おねぇねぇは?」
「まだ、寝てるよ」
娘の部屋をのぞくと、娘はまだベッドで熟睡していました。子供たちの側に戻ることが出来て、本当に安心しました。

今回の北海道地震では、とりあえず札幌の母の無事を確認し、また、東京の自宅にも夫が出てから間もなく帰宅することができました。天国の父が見守ってくれていたのだと思っています。

2018年10月15日月曜日

北海道胆振東部地震・被災地札幌へ ③

北海道胆振東部地震の翌々日(9月8日土曜日)午前、私は母を連れて自宅から程近いスーパー「イオン」に向かいました。当面の食料品を確保するためです。

駐車場に車を入れると、店の前に長い列が出来ていました。母に車の中で待つように言い様子を見に店の方へ。

次々に訪れる客たちを誘導するスタッフに聞いてみました。
「どれくらい待ちますか?」
「2時間ぐらいです」
「2時間も待つんですか。で、生鮮食料品は売っていますか?」
「いいえ、お米やカップヌードルなどの在庫がある商品のみです」とスタッフの男性は申し訳なさそうに答えました。

車に戻り母に聞いてみると、「じゃあ、私がいつも行く『ラッキー』に行こう」と言います。そこは母の家から車で数分のところにあり、母がいつも利用しているスーパーです。私は「大手スーパーのイオンに生鮮食料品が売っていないなら、地元のスーパーにもないだろう」と思いましたが、とりあえず母を連れて行くことにしました。

が、予想に反して「ラッキー」はあまり混んでいず、すんなりと店内に入れ、かつ、野菜や果物が豊富に並んでいたのです。「なんだ、初めからここに来れば良かった」と拍子抜けしました。納豆や豆腐などは品切れしていましたが、野菜などはおそらく、地震の被害があまりなかった道内の農家から納入されているのでは、と想像しました。バナナやグレープフルーツ、ナスやキャベツなど次々と買い物かごへ。

「お母さん、お水は?」
「ペットボトルのお茶をケースで買っているから大丈夫」
「でもさぁ、ペットボトルの水は1本でもあると急場はしのげるよ」
「いらない」
「そう?」
私はつかんだばかりのペットボトルを棚に戻します。

お米は飛ぶように売れているらしく、陳列棚に残っていたのは10袋ほど。その中から5㌔の袋を一つかごに入れました。母の好きなブランドではありませんでしたが、手持ちのお米が少なくなっていたことと、いつ物流が回復するか分かりませんでしたので、買うことにしました。

自宅に帰り、札幌市役所に勤めているいとこに電話をしてみました。彼からは地震があった直後に母への安否確認の電話をもらっています。いとこは地震が起きてすぐ役所に駆け付けたと言います。

「今は職員がシフトを組んで24時間態勢で対応しているんだ。あちこち被害がすごいからね」
「それはお疲れさま。どう、今晩うちにご飯食べに来ない?」
「うん、行きたいんだけど、同僚の奥さんの出産予定日が近いんだ。陣痛が始まったら俺が替わりに行くことになっているから、あとで連絡する」

職場にすぐ駆け付けたという、いとことの電話を終え、同じく職場にすぐ駆け付けたと言っていた北海道新聞社勤務の元同僚のことを思い出しました。彼には地震の翌日メールをしました。
「停電が続いていますが、輪転機は動いていますか?」と聞いてみると、「6日は自家発電で夕刊4ページ、朝刊16ページを作りました。社内も冷房を切り、蛍光灯も一部消して省電力に努める綱渡りでした」という返信だったのです。

出版社を経営する友人にも電話をしました。「停電の影響で、締め切りに間に合わないから雑誌の発行を少し遅らせた」と言います。やはり、停電は企業活動に大きく影響していました。

この日は、連絡が取れずに心配していたむかわ町の90代の叔母から母に電話がきました。しっかり者の叔母は自ら望んで一人暮らしをしています。今回の地震では、自宅から出るのに精一杯で、とるものも取りあえず近くの避難所に向かったそうです。「苫小牧の娘がすぐ迎えにきてくれて、いまは娘の家にいる」ということでした。

娘の家に滞在してひと安心の叔母ですが、一つだけ問題がありました。入れ歯を自宅に置いてきてしまったのです。総入れ歯の叔母は、大きく揺れたとき咄嗟に上の入れ歯だけは探して付けましたが、下の入れ歯は見つからなかったそうです。「下の入れ歯がなくて、食べられない」と母にこぼしていたようです。安否が分からず心配していた叔母と連絡が取れて母も安心していましたが、「やっぱり、食べられないから元気がなかった。食べられないと体が弱ってしまう」と他の心配が出てきました。

叔母によると、同じむかわ町に住む叔父夫婦も無事だそうです。ただ、家の中は叔母の家と同様「ぐちゃぐちゃ」だそうで、「とりあえず、けがはなかった」という状態なようでした。叔母からの電話で、私たちは心から安心することができました。

さて、午前中に母のために買ったお米。母は「今は無洗米しか食べないの。お米を研ぐのも大儀で、、、」と言います。仕方がないので、その5㌔のお米とレシートをもってスーパーに交換しに行きました。が、午前中にわずかにあったお米もすべて完売。で、母を説得するために携帯電話で写真を撮りメールで送ってから電話をしました。

「お母さん、写真見た? お米の棚には一袋も残っていないよ。だから、残念だけど無洗米もないの。こういう非常事態だから、いつお米が入荷するかわからないでしょ。とりあえず、このお米をとっておこうよ」
「でも、私は無洗米しか食べないの。だから、返品してきて」
「お母さん、これからどうなるか分からないから、家に置いておこうよ。少し落ち着いたらお店に行って、無洗米が入荷していたら、店員さんに事情を説明して交換してもらったらどうかな? お米は家の中に入れないで車のトランクに積んでおこう。交換するときは店員さんが来てくれるよ」
「うん、分かった」
母は不満そうでしたが、納得してくれました。

今後、物流がいつ回復するか、余震はどれくらいあるか分からないときに、お米の種類にこだわる母に対応しながら、「母も年を取ったのかな」「いや、長生きしている母だから、慌てなくても間もなくお米を買える状態になると分かっているのかな」と自問自答しました。

さて、いとこを誘った夕食。母に「何作ろうか?」と相談しました。母は間髪を入れず、こう答えました。
「お寿司をとろう。Yちゃんはお寿司が大好きなんだ」
「お母さん、地震であちこち停電しているし、お寿司屋さんもネタは仕入れられないし、お店を開けるどころでないと思うよ。いま、ある食材で私が作るよ」
北海道のほぼ全域が停電となる大規模地震があっても、普段利用しているお寿司屋さんは営業していると思ってしまうんだな、と寂しいような、ほっとするような不思議な気持ちになりました。

結局、いとこからラインがあり、同僚の奥さんが産気づいて、生まれそうなので自分が替わりに登庁するといいます。残念ですが、晩御飯は母と二人で食べることになりました。

さて、母が住む東区は、今回の震度6の揺れでした。実家の近くを通る地下鉄・東豊線の上の道路が陥没している様子がニュースで流れていましたので、母と一緒に見に行くことにしました。行ってみて、仰天。あちらこちらが陥没していました。

 すでに、道路の解体工事も始まっていました。

下を地下鉄が通るこの幹線道路の近くの道路は、どこも陥没していませんでした。今回液状化の被害が出た札幌市清田区も埋め立てした土地ですので、人為的に手を加えたところは、こういう災害の弱いのだ、と改めて思ったのでした。