2019年9月29日日曜日

母の引っ越し ④81歳、東京へ

首の痛みを訴える母の元に駆け付けた私は、今回のドタバタ(参照:母の引っ越し①②③)について割り切れない感情を抱きましたが、81歳の母の引っ越しにじっくりと付き合うことにしました。

札幌に着いた翌々日の8月13日は盆の入り。まずは、母と二人で父の納骨堂に向かいました。地下鉄・円山公園駅にほど近いお寺の納骨堂には、母は父の他界後3回忌法要が終わるまで毎月、月命日にお参りに行っていました。その後も命日とお彼岸、そしてお盆は私と子どもたちと一緒にお参りしました。母は父の成仏を心底願っていたのです。今回、母は両手を合わせながら、父にこう報告しました。

「お父さん、東京に引っ越すからね。睦美がおいでって言ってくれたから、行くことにしたんだよ。マンションもとっても良くって、家に似ているの。家具もね、ソファとダイニングテーブルとかいつも使っていたのを持っていくことにしたんだよ」

私も天国の父に、母の首を治してくれるよう、母の引っ越しが無事終わるよう頼みました。そして、父の側にいるであろう私のもう一人の息子を見守ってくれるようにとも。

「来年のお盆まで来られないから」といつもより長くお参りをした後、私たちは円山公園駅から地下鉄に乗り、大通公園のビアガーデンに行きました。爽やかな風を感じながら、2人でのんびりとビールを飲みました。

翌日は、庭の掃除です。母が植えたミニトマトは鈴なりでしたが、赤く実ったトマトだけ取り、残った青い実は株ごと取り除き、処分しました。その他の花々も1つ1つ母に「これはどうする?」と確認しながら、手入れをしたり、抜いたりしました。そして、庭の置物も丁寧に洗って車庫へ。そのうち、いくつかは我が家の小さな花壇用にもらいました。

 

15、16日は東京に持っていくものを決めました。引っ越し屋さんにはすでに”大物”の冷蔵庫とソファ、ダイニングテーブル、食器棚、飾り棚を持っていくことは伝えています。その他は、夏冬用の衣類やバッグ、食器類、日用品、そして私が強く希望したアルバム全部です。

私のものはことごとく勝手に処分してきた母には「本とアルバムだけは捨てないでね」と言い続けてきましたが、前回の札幌帰省で本が全部処分されていたことが判明。でも、アルバムは生き延びてくれて、今回、やっと実家から出すことが出来ました。東京の我が家は狭くて、かさばる昔のアルバムを置くスペースがないので、母が引っ越す2LDKのマンションの収納場所に納めることにしたのです。

アルバムのページを開きながら、母に当時の話を聞きました。「役場に勤めていたころ」の母は綺麗で、おしゃれでした。今は寝たきりの叔母の、結納のときの晴れ着姿はそれは美しかった。天国に行ってしまった叔父叔母が、楽しそうに笑っていました。ベビー服を着た私を抱いた母が、愛おしそうに私を見つめていました。ハンサムで若かった父の膝の上に、私がちょこんと座っていました。そうやって、母と一緒に昔の写真を一枚一枚見ながら、時間がゆったりと流れていきました。

おそらく、母は私の子どもたちがいる騒がしい状態でではなく、私と2人だけで、静かに引っ越し作業をしたかったのではないか、とふと考えました。

引っ越し作業をしながら改めて私のものを確認しました。残っていたのはいかにも”昭和”の時代を感じさせるファイルだけでした。その中に入っていたのは、小学校の成績表と徒競走1等の賞状と、書き初めの作品、私が父にあげたカード、そしてなぜか1972年の札幌オリンピックのシール。そうか、さすがの母も、私の成績表と賞状と最初で最後の地元開催のオリンピックのシールは捨てられなかったんだなぁと妙に感慨深かった。



17日午前、引っ越し屋さんが来て荷物を積んでいきました。家具の3分の1がなくなった実家はすっきりとしていました。母は「今度はここが別荘になるんだね。別荘に帰ってくるのが楽しみだ」と前向きでした。午後は介護施設に入居している叔母のお見舞いに行きました。母は寝たきりの叔母に、涙を流しながら別れを告げ、そして叔母が大好きだった演歌を歌ってあげました。

18日早朝、私と母はタクシーに乗り込みました。お向かいのご夫婦2組が下りてきてくれて、目に涙を浮かべて、母を見送ってくれました。私と母はそのタクシーで新千歳空港行きのバスターミナルまで向かい、バスに乗り込みました。バスの中で、母がこんな話をしてくれました。

「とこねっちゃん(96歳になる母の一番上の姉)に、睦美のところに行くんだって電話したの。そしたらね、とこねっちゃんが『良かった、良かった。これで、私の心配事が一つ減る』って喜んでくれたの。そうかぁ、私のこと心配してくれていたんだってそのとき気付いたの」

96歳の姉が81歳の妹を心配するー。きょうだいがいない私は、叔母の愛情に深い感動を覚えました。96歳になっても、やっぱり姉は妹弟の行く末を案じるんですね。私の母は10人きょうだいの一番下ですので、こうして姉兄たちに大切にされてきたのでしょう。

首が痛くて、飛行機に乗れるかどうかを心配してきた母でしたが、1時間半の飛行中は痛みを感じることもなく、無事羽田空港に着くことができました。空港内をゆっくりと歩きながら、母は言いました。

「飛行機に乗って、東京に来れるかどうか心配だったけど、本当に良かった。これからはあんたの側だから、安心だ」

空港の外には夫が車で迎えに来てくれていました。子どもたちも一緒です。帰宅後さっそく母を連れてマンションへ。母は使い勝手の良さそうな2LDKの部屋をとても気に入ってくれました。夜は皆で一緒にご飯を食べ、母は娘の部屋で一晩を過ごしました。翌日19日朝は引っ越しの荷物が届きました。私と夫からのプレゼントのベッドや、事前に購入していた洗濯機も。一日かけて荷ほどきをし、衣類やバッグはクローゼットに、靴と帽子類は靴箱に、食器は備え付けの棚に、そしてアルバムはクローゼットの天袋に納めました。近所のスーパーで食料品を買い冷蔵庫に。こうして、母の東京での生活が無事スタートしました。

母にとって、81歳での引っ越しには大きな不安もあったと思います。でも、母も私も私の家族も、これが一番良い選択だったと思っています。そして、この決断を叔父叔母もとても喜んでくれました。北海道むかわ町で生まれ、札幌で家庭を持ち一軒家を構えた母の「終の棲家」は、母が予想もしなかった東京の賃貸マンションでした。自ら道を切り開くタイプでは決してない母の人生は、意外にも波瀾万丈で面白いのではないか。そんな風に考える今日このごろです。

2019年9月20日金曜日

息子とデート

息子の8歳の誕生日の前日。私は朝から準備で慌ただしくしていました。息子はまだ夏休み中ですが、娘はすでに学校が始まっており、夫も会社です。

午前中に息子と一緒に家の中を飾り付け。夕食の準備も終えて、誕生日用の風船を買いに近所のスーパーに車で向かい、買い物を済ませて帰る途中に息子に私の携帯電話で夫に電話をさせました。帰宅時間を聞くためです。

車の後部座席に座って、電話で夫と話す息子の声に耳を澄ませると、夫は会社の飲み会で遅くなるようです。そういえば、数日前にそんなことを言ってましたが、すっかり忘れていました。自宅に着いて間もなく、娘からラインが。

「まま」
「今日、ともだちと夕ご飯食べます」

なんと、夫も娘も夕食を一緒に食べないことが夕方に分かったのです。それなら、作る意味がありません。なんか、つまんないなぁと思っているうちに思い付いたのが「息子とデート」です。

息子に聞いてみました。
「ねぇ、今晩、ママとデートしよう」
「えっ? ああ、いいけど」

夫も娘も外食です。私たちも外食をすることにしました。

「どこかに、食べに行こう!」
「ママ、デートって大人がするもんでしょ。僕、子どもだからできないよ」
「いいじゃない、ママとのデート。うふっ」
私の心は弾んでいます。でも、息子は浮かない表情です。

「でもさ、デートって結婚する人と一緒にご飯を食べにいくことでしょ?」
「まぁ、そうだけど。いいのよ、ママとご飯を食べに行くことを”デート”って言っても」

息子は乗り気ではないようですが、私は上機嫌。着ていたTシャツとジーンズを、ブラウスとパンツに着替えて、息子と一緒に家を出ました。向かったのは隣駅のパスタ屋さんです。

「ここ、ママと前に来たよね。同じところに座る?」
「今日は窓際の席が空いているよ。あそこに座ろう」

2人で並んで、駅前の風景が見える席に座りました。電車や行き交う人々が見えて、とっても素敵です。


息子はピザとジンジャーエールを、私はパスタとビールを注文しました。2人でおしゃべりして、笑って、とても楽しい時間を過ごしました。思いがけない、素敵なプレゼントをもらったような、ほんわかと幸せな気持ちになりました。

息子とのデート。なんて、楽しいんでしょう。また近いうちに、そして息子が大人になってからも・・・。
 
 
 

2019年9月9日月曜日

母の引っ越し ③

 「首が痛い!!!」と電話越しに訴える母の元に駆け付けるため、取る物もとりあえず飛行機に乗った私が実家の玄関に着いたのは8月12日午前0時半、東京の家を出て5時半後でした。慌てていましたので鍵を忘れました。玄関のベルを鳴らすと、「はーい」という母の声。電話で聞いたときより、ずっと元気です。母が玄関のドアを開けました。

「ただいま。ごめんね、遅くなって」
「無事着いて良かった。駅から時間がかかっていたから、心配していたよ」
「首の調子はどう?」
「あんたと話していたときより、大分良くなった」

  パジャマ姿の母は首を押さえながら、ゆっくりとですが、歩いていました。母の姿を見てひと安心です。夕方、電話で母と話していたときのあのざわざわとした気持ち。父のときのことを思い出し、もし翌朝、母が電話に出なかったからと想像したときの不安…。それらが、母の姿を見てすべて解消されました。

 母も私が来たことで安心したらしく、少し話をした後、「もう、遅いから寝よう」と父の仏壇がある和室に行きました。私も一緒に母の布団が敷いてあるその和室に行き、父の遺影を見て心の中で父に話し掛け、仏壇に手を合わせました。そして、2階に行き布団を敷いて眠りについたのでした。

 さて、翌朝、1階に下りてみると母がキッチンに立っていました。その姿を見て、私は思わず言いました。
「お母さん、朝ごはん作れるほど元気なの?」
「薬を飲まなきゃいけないから、何か食べなきゃいけないんだよ。食べないで薬を飲むと胃をやられるからね」
「・・・」

 ここで、私は顔には出しませんでしたが、心の中で不機嫌になりました。本当に体調が悪ければ、薬を飲むことなんて忘れます。覚えていたとしても、「胃がやられるからご飯を食べてから飲もう」なんて、考える余裕はないはず。朝ごはんを作れるほど大丈夫な母があと1日待ってくれれば、私は今日の夕方の便で子供たちと一緒に来るはずだったのです。でも、もう死にそう!というような母の訴えを聞いて、駆け付けたのです。3人分の新千歳空港行きの飛行機のチケットはキャンセル。当然、帰りの子どもたちの分のチケットもキャンセルです。夫は1週間、会社を休んで子どもたちの世話をしなければなりません。

 母の状態はかなり悪いと判断し、夏休みに読むべき本も持ってきませんでした。パソコンも置いてきました。昨年、北海道で大きな地震があったときに実家に駆け付けたとき、パソコンを持っていった私を母は「あんな大きな地震でも一人で頑張った母親を見舞うときに、パソコンを持ってくるなんて!!!」と体を震わせて、涙をぼろぼろ流して怒りましたので、今回は母の機嫌を損ねないように、持ってきませんでした。

 遠方に住む母親を支えるためにかなり無理をして出来ることはしているのに、どうして・・・?という気持ちがわいてきましたが、母は81歳。多難な人生を気丈な性格で乗り切ってきて、周囲に「気配りの人」と慕われていた母は80歳を越えた今、自らコントロールできない痛みに襲われ、すべてをさらけ出せる唯一の人間、一人娘の私にわがままを言いたかったのでしょう。わがままを言って聞き入れてくれるか、試したかったのかもしれません。それとも、その1日が待てないほど痛かったのでしょうか?

 母は、私が30代後半から40代前半にかけて、抗がん剤治療や放射線治療、心臓の手術で入院したとき、自己免疫疾患発病での緊急入院時はいつでも、体の不自由な父を連れて、東京に駆け付けてくれました(詳しくは闘病記「がんと生き、母になる 死産を受け止めて」に。図書館でも借りられます)。だから、今が私が母にお返しをする番なのでしょう。母が何をおいても私のために駆け付けてくれたように、私も何をおいても母を支えなければ。

 私は、引っ越しの荷物を出し、母と一緒に実家を出る18日朝まで、一世一代の「母の引っ越し」に付き合うことにしました。

2019年9月2日月曜日

母の引っ越し ②

 「首が痛い!一人ぼっちで辛い!」と電話口で弱々しく泣く母のところに駆け付けるため、取る物も取り敢えずタクシーに飛び乗った私は、午後7時30分に羽田空港に着きました。息子を水泳教室に送った直後に母に電話をし、電話口の母の様子から、「今日札幌に向かったほうが良い」と決断してから、約1時間半後でした。子どもたちを連れて帰省する予定だった前日の8月11日のことです。

 JALの国内線カウンターに向かい掲示板を見ると、新千歳空港行きの飛行機はちょうど私が着いた時間に出たばかり。次の便は午後8時半発です。幸運なことに空席がありました。お盆直前の週末で、空席がないのではとタクシーの中で心配していましたので、とりあえず、安堵しました。

 カウンターの女性スタッフに札幌に住む母親の調子が悪くて駆け付けることを説明すると、その女性は前方の座席を指定してくれました。12日夕方の便で子どもたちと一緒に札幌に行く予定で、その分の航空券を購入していましたので、自分の分をまず、キャンセル。中3と小2の子どもたちだけで飛行機に乗せ札幌に向かわせるかどうかは私だけでは決められませんので、夫に電話をしました。夫はちょうど、プールから出てきた息子を迎えて駐車場に向かうところでした。

「とりあえず、8時半の飛行機のチケットは取れたの」
「それは、良かった」
「明日はどうしたら良い? 子どもたちだけで飛行機に乗ってもらったら、私が新千歳空港に迎えに行くから」

娘は中3で、息子は小2です。夫に羽田空港まで送ってもらえば、2人でも飛行機に乗れるでしょう。航空会社には、子どもだけでの搭乗をサポートするシステムがあります。また、自分たちだけで飛行機に乗るという”冒険”に、はしゃぐ2人の様子が目に浮かびます。が、夫はこう切り出しました。

「うーん、やっぱり子どもたちだけでというのは、不安だな」
「大丈夫だと思うけど・・・」
「それに、今回はお母さんの体調も悪いし、子どもたちがいると逆に君は大変じゃないだろうか? お母さんの世話はしなければならないし、子どもたちはずっと家にいると飽きてしまうから、どこかに連れて行かなければならないだろう? 」
「確かに。公園やプール、温泉・・・いつも連れて行っているところに行きたい!と子どもたちはせがむかもしれない」
「今回は残念だけど、キャンセルしたほうが良いと思う。今週はお盆で会社の人も休んでいる人が多いし、僕も仕事の予定はそれほど入っていないから、休みを取れるよ。仕事は家でもできるし、会議は家から電話で参加すれば良いしね」
「うん、わかった。ありがとう。でも、子どもたち、札幌に行くのを楽しみにしていたから、残念がるだろうなあ」
「こういう事態だから、仕方ないよ」

 残念でしたが、子どもたちの飛行機もキャンセルすることにしました。チケットが取れたので、母にも電話をしました。

「お母さん、8時半の飛行機が取れたの。安心して」
「ありがとう」
「首はどう?」
「さっきより少し良くなった」
「それは良かった。家に着くのは夜12時を過ぎると思うから、寝ていてね」
「わかったよ。ありがとう、待っているよ」

 今回の東京引っ越しで、母はお盆休みに札幌に帰省する私と子どもたちが東京に帰る18日に一緒に東京に来て、1週間ほど滞在して入居予定の賃貸マンションを見てから一旦帰札し、私が再び9月に札幌に行って、ご近所などに一緒にご挨拶をして引っ越しの荷造りを手伝い、私と2人で実家から旅立ちたいという希望を持っていました。

 私は母の希望を叶えようと、母の往復航空券も購入していました。が、今回、私が札幌に行く予定の前日に母の元に駆け付けなければならなかったこと、母もその1日が待てなかったことで、東京に帰る私と一緒に飛行機に乗るだけで精一杯かもしれない、東京ー札幌往復は無理だろう、と予想しました。

 で、ご近所や近くの親戚へのご挨拶はおそらく、今回の滞在中になるだろうと予想し、いつもの手土産より奮発して「銀座千疋屋」のフルーツゼリーを購入しました。町内会の方々にもご挨拶をするかもしれませんので、予備のお土産として「ひよ子」もいくつか買いました。それらを持って保安検査場を通り、搭乗口へ。飛行機は予定時間より10分ほど遅れて、無事離陸したのでした。

 新千歳空港に着くと、いつも利用している札幌行きバスは最終便が出た後で、札幌行きのJR「快速エアポート」も最終便がもう少しで出発するというタイミングでした。私はここでも胸をなでおろし、JRに乗り込みました。母にも無事着いたことを連絡しました。母の声は、先ほど羽田空港で電話をしたときより元気です。このときです。私の心に?マークが灯ったのは。

 お母さん、さっきの死にそうな声はどうしちゃったの?

 母は言います。
「何時ごろに着きそう?」
「零時を過ぎると思うよ。もう遅いから寝ていてね」
「待っているよ」

 札幌駅から電車に乗り継ぎました。実家最寄り駅に着いてからも母に電話をしました。午前零時を過ぎていました。タクシーもいませんでしたので、スーツケースを引っ張り、重たい千疋屋のゼリーと「ひよ子」が入った袋を肩から下げて、とぼとぼ実家へ向かって歩きました。そうすると、母から電話が。

「あんた、遅いから心配で」
「タクシーが拾えないの。歩いて帰るからね」

 東京は猛暑ですが、札幌の夜は涼しい。Tシャツだけで歩いていると肌寒い。私は歩道でスーツケースを広げて、カーディガンを取り出して、着込みました。そうするとまた、母から電話が。

「どうしたの?」
「寒いから、カーディガンを着たの。スーツケースの中に入っていたから時間がかかって。もう少しで着くから」
「最近、ほら、夜中に襲われて殺されるようなニュースがあるでしょ。心配で・・・」
「大丈夫だよ。もう少しだから」

 母の”ひん死”の訴えを聞いて、何もかも投げ出し、取るものも取りあえず、東京から駆け付けた私。でも、当の母は、何度も電話を出来るほどの状態です。これはいったいどういうこと?

 私はこれまでいくつも大病を患い、何度も救急車のお世話になりましたので、それがどういう状態か身に浸みています。そんなときは周囲を気遣う余裕はありません。自分の体すら動かせない。あれよあれよという間に体調が悪化し、意識も混濁してくるのです。救急車で病院に運び込まれても、何とか自力で病院にたどり着いても、そのまま入院で、数日間はベッドから起き上がれない状態でした。

 母は、翌日私と子どもたちが札幌に行くことを十分承知で、その前日に「首が痛い。一人ぼっちで辛い!」と訴え、消え入りそうな声で、その辛さを私に訴えたのです。「じゃあ、今、札幌に行くからね」という私に対して、「大丈夫だよ。明日来るのを待っているから」とは言わなかった。だから、救急車を呼ぼうかという状態だったはず。電話口から聞こえたのは、今にも死にそうな声だった。

 母はいったいどんな状態なの? 私はとりあえず、実家への道を急ぎました。