2018年4月25日水曜日

母の傘寿お祝い

  春休みの札幌帰省中に、母の傘寿(80歳)のお祝いをしました。写真館で母を囲んで記念撮影し、その後は和食レストランで食事。レストランでは"サプライズ"もあり、母は楽しんでくれたようでした。

 昨夏、「行けるうちに」と海外旅行を計画しましたが、母の膝の痛みがひどくなり、出発2週間前にキャンセル。喜寿(77歳)のお祝いのときには、伊勢・志摩を2泊3日で旅行しましたので今回も連れていきたかったのですが、母の膝が回復しません。手術を検討中ですが、もし手術をしたとしてもリハビリ期間を含めると旅行に行けるまで回復するのはずいぶん先の話です。

 「温泉で一泊するのはどう?」と持ち掛けましたが、「毎年行っているからいい」と言います。夏休みに子供連れで帰省すると、母が毎回温泉に連れていってくれるので、真新しさがないのでしょう。

 で、思い付いたのが写真館での記念写真の撮影。初めは「いまさら、写真館で撮影なんてねぇ」と乗り気でなかったのですが、実際に行ってみると楽しかったよう。

 小1の息子の笑顔が不自然だったり、夫の表情が固かったり、でも、娘だけは「お姉ちゃんの笑顔、パーフェクト」とカメラマンに言われたり、、、。なかなか5人の笑顔がそろわず、でも、それが何となく可笑しくて、和やかな雰囲気での撮影となったのです。

 写真は画像データでもらい、その後は札幌の街を一望できる高層ビル35階にある和食レストランへ。

 窓から見える景色と会席料理を堪能した後、店員さんがうやうやしく持ってきてくれたのは、金色に輝くちゃんちゃんこと頭巾です。思い掛けない演出に母は大喜び。事前に店に頼んでいた私もちゃんちゃんこの色には驚きました。60歳の還暦祝いのときと同様、赤いちゃんちゃんこだと想像していました。店員さんによりますと、喜寿では紫色、傘寿になると金色のちゃんちゃんこを着るのだそうです。

  次に「祝・傘寿」と書かれたケーキが運ばれてきました。扇形に8本のろうそくが立っています。


 ろうそくに火が灯され、「80歳、おめでとう!」という家族の掛け声の後、母が勢い良くろくそくの火を吹き消します。”主役”の母の顔も紅潮しています。その光景を店員さんが写真撮影し、印刷してプレゼントしてくれました。出来上がった写真は、そのろうそくの光が窓ガラスに反射して、金色のちゃんちゃんこと頭巾をまとった母の頭に後光が差したように写っていました。

 「縁起がいいねえ。健康で長生きできるよ」と皆で母を祝福したのでした。

 帰りはDPEショップに立ち寄り、写真館で写した画像を印刷。それに合うフレームも購入し、帰宅してから写真を入れて母にプレゼントしました。母はレストランでの写真と、写真館での写真を何度も見ながら、「私もなかなか良く撮れているよ」「金色のちゃんちゃんこは良い記念になるねえ」と満足そうでした。

 私は78歳で他界した父の喜寿のお祝いをしてあげられませんでした。父の死後、そのことをとても後悔しました。だからこそ、母にはタイミングを逃さず、お祝いをしてあげたいと思っていました。傘寿のお祝いは、母の体調のことがあり計画していたよりずっとささやかなものになってしまいましたが、先延ばしせずに出来て良かった。

 「お母さん、膝が治ったら、また旅行しようね。どこがいい?」と母に聞くと、「京都がいい」という答えが返ってきました。母と一緒に古都を歩ける日が早く来るよう、願っています。


 

2018年4月23日月曜日

母の漬物石

 春休みの札幌帰省には、夫も同行しました。夫が札幌に行くのは3年ぶり。今回、夫には‟使命”がありました。母の漬物石を東京に持ち帰ることです。

 毎年、梅を漬けていた母が突然、「もう、やめた」宣言をしたのは2年前の春。肩の痛みがひどく、重石として使う漬物石を持てなくなったというのが理由です。母の梅干しが大好きだった夫も娘も私も、衝撃を受けました。

 その宣言の後は、前年に送られてきた梅干しを大事に大事に食べました。残りが少なくなってからは、一粒を半分に割って食べるほど。そして、今残っているのは7粒です。

 数年前に漬けた私の梅干しは不評で、選りすぐって買ってきた梅干しも駄目。市販の梅干しの味が、どの銘柄を食べてもいま一つだったことで、遂に夫が「今年は、僕が梅を漬ける。オカアサンの梅干しをマイヤー家で受け継ぐ」と宣言したのです。娘にも、「一緒に漬けよう」と声掛けし、娘も「うん、やってみたい!」ということに。レシピは母からすでに引き継いでいます。

 さて、母が漬けていた大粒の南高梅は東京でも手に入りますが、問題は重石です。私が漬けたときには市販の白い重石を使いましたが、味気なく感じたのです。家庭で梅を漬けているという高揚感がないといいますか、、、。私の記憶の中の梅干しや漬物の樽には、丸くて大きな灰色の石が載っていたからです。

 そこで、母に漬物石について聞いてみました。すると、「取ってあるよ」とのこと。何でも処分してしまう母ですが、漬物石は処分できなかったようです。「本当にいい石なの。平たくて大きいから、梅に満遍なく重みがかかって、美味しい梅干しが出来るの。あんまりいい石だから捨てられなかった」と言います。

 母は、「その漬物石には、思い出もあるの」と話を続けました。父と一緒に北海道の厚田郡厚田村(2005年に石狩市に合併)の浜辺を歩いていて、見つけたそうです。母曰く、その石を見つけた浜を、父と母が墓地を購入した「石狩霊園」から見渡せるそうです。墓地を買ったときに、「睦美が家族と一緒に、ピクニックがてらお参りに来てくれたらよいね」と父と語り合ったそうです。

 月日が流れ、父が亡くなり、父の遺骨は結局札幌市内の交通の便の良いお寺の納骨堂に納めました。頻繁にお参りに行かれるので良い決断でしたが、母はその墓地の処分について何年も悩んでいました。が、今年に入ってから霊園に返納することが出来て安心したと話してくれていたのです。

 その墓地にはそんな思い出話があったことは、漬物石のことを聞いたときに初めて知りました。母からその話を聞いたとき、父と母が墓地から見た風景を想像し、寂しい気持ちになりました。が、もしその思い出話を事前に知っていたとしても、東京に居を構えてしまった私にはどうすることも出来なかったのだと自分を納得させました。

 さて、実家に帰省したとき。早速、母に「漬物石はどこ?」と聞きました。「2階のお父さんの部屋だよ」とのこと。物置ではなく、父の部屋に置いてあったことを嬉しく思いました。見に行くと、父の机の下にきちんと置かれていました。母の、その漬物石への思いが伝わりました。

 父と母の思い出が詰まった漬物石の重さは12㌔グラム。東京に帰るとき、夫が2階から玄関まで運んで自分のリュックサックに入れました。それを背負って、実家からバスを乗り継いで、新千歳空港へ。空港カウンターでは預けずに、機内に持ち込みました。

 保安検査場を通ったときは、「リュックサックの中を見せてください」と検査員に呼び止められました。画面に写った大きな丸い物体は何か? と不思議に思われたに違いありません。「漬物石です」との説明に、検査員は納得したような表情を浮かべ、リュックサックをすぐ戻してくれたのでした。

 こうして、札幌の実家にあった母の漬物石は、東京の我が家に運ばれました。東京では、もうすぐ梅を漬ける季節がやってきます。夫と娘と3人で、母の漬物石を使って挑戦する予定です。

 今、冷蔵庫に残っている7粒の母の梅干しは、「味を比較するために、とっておこう」という家族の了解事項になっています。母の梅干しをこのような形で思い出話と一緒に子供に引き継げることを、とても嬉しく思っています。

 

2018年4月15日日曜日

20年ぶりのスキー場

  私は30代から40代にかけて、血液がんと自己免疫疾患2つ、不整脈を患いました。治療や手術を経て健康を取り戻した今振り返ってみて、一番厄介だったと思うのは自己免疫疾患です。

 これは、自己免疫が体内の組織を攻撃してしまう病気。私は、ヘモグロビン(酸素を体内に運ぶ役割)を攻撃する「自己免疫性溶血性貧血」と、血小板(出血を止める役割)を攻撃する「特発性血小板減少性紫斑病」を患いました。いずれも、国の難病に指定されています。

 自己免疫性溶血性貧血はより厄介でした。ヘモグロビンが減ると、動悸と倦怠感で、日常生活がままならなくなります。自己免疫の攻撃力が強ければ、あっという間に体が動かなくなります。呼吸も困難になります。脳に酸素が行かなくなると大変ですので、集中的な治療も必要になります。

 私の場合、いくつかの検査の結果、「寒さ」が原因と特定されました。ですので、寒いときの外出は禁止。実家のある札幌には長らく夏にしか帰省出来ませんでした。雪国生まれの人間が寒い場所に行けなくなるなんて、情けなくて自虐ネタにも使えませんでした。

 もちろん、ウインタースポーツなんてもってのほか。私は子供時代や若いときにスキーを十分楽しみましたので、「やり切った感」もあり、スッパリと割り切れました。娘が小さかったころも、「東京から何時間もかけてわざわざ連れていかなくても」と気にもしませんでした。ですので、娘が初めてスキーを滑ったのは小学校5年生のときの学校主催のスキー学習です。

 ところが、です。娘をスキーに連れていかないことに罪悪感を抱いたことは一度もなかったのに、息子については違いました。同じく男子を育てるママ友達から「スキーに連れていった」という話を聞くたびに、「何とかしなければ」という焦りにも似た気持ちが湧いてきたのです。

 私は、性別による差別は基本的には嫌いです。子供たちにも「男の子だから」「女の子だから」などという言葉を使った子育てはしてこなかった自負があります。

 が、スポーツに関しては、正直に告白しますと、違う。女子はスポーツが出来なくても可愛らしいですが、男子はスポーツが出来ないとちょっと情けない。逆に、学校でも職場でも、スポーツが出来る男子の評価は高いのではと感じるのです。 

 若いころ職場の仲間とスキーに行ったとき。普段冴えない同僚がプロ並みの滑りを見せたときのあの感動は、深く脳裏に刻まれています。滑りを見てから、彼に対する評価が上がったのは言うまでもありません。私は、自分が思っている以上に、スポーツが出来る男子に一目置いているのだと思います。

 で、息子です。サッカーも水泳も早々と教室に入れて、習わせています。バッドとグローブを持って、近所のグラウンドに行き、私自ら野球を教えます。いずれも寒さとは無縁のスポーツ。また、たとえ私の体調が悪くてもグラウンドやプールに連れて行きさえすれば、何とかなります。しかし、スキーはハードルが高い。ネックとなるのが、あの厄介な「自己免疫性溶血性貧血」です。

 症状の厳しさもさることながら、それを抑える薬の副作用の怖さと減量の難しさは身に染みています。今、微量の服用で元気に暮らせているのだから油断は禁物、と自覚もしています。再び体調を崩せば、家族にまた迷惑をかけてしまうという危機感もあります。3、40代の最も体調が悪いときに頼りにしていた母は今、やっとの一人暮らし。父は天国です。

 私は逡巡しました。夫が息子を連れていくという代替案は使えません。夫はウインタースポーツが出来ない。出来ないからこそ、その”重要性”を認識していない。息子の友達のパパたちが、子供をスキー場に連れていくのを羨ましく思っても仕方がありません。

 自分の体調と、息子の将来を天秤に掛けて、どちらが重いか考えました。そして、息子をスキー場に連れて行けない理由をあれこれ並べるのはやめて、息子が将来スキー場に行ったときのことを想像しました。友人らが格好良く、直線に近い形でゲレンデを滑走する中、両足を大きくハの字に開き、大きなジグザグを描きながらゲレンデを滑る息子の姿です。滑り終わった後、ゴーグルをはずした息子の顔は、照れ隠しの苦笑いです。

 私の心は、決まりました。

 春休み、札幌に帰省したときにスキー場に連れて行く計画を立てました。選んだのは、実家からほど近い、気軽に行かれる「サッポロテイネ」(札幌市手稲区)。子供のころ、両親と一緒に滑った楽しい思い出のあるスキー場です。スキー教室の日程を確認し、現地に行く公共交通機関と時刻も調べました。

 そして3月25日、JRとバスを乗り継ぎ、「サッポロテイネ」へ。バスの中、「ここはね、札幌オリンピックが開かれたスキー場なんだよ」と、子供たちに”札幌自慢”をすることも忘れませんでした。子供たちにはスポーツ店のバーゲンで購入したスキーウエアとブーツを着せ、手ぶらで行きました。スキー板も靴も、現地でレンタルです。

 私は、長いダウンコートの下にユニクロの「ヒートテック」と厚手のセーターを着込み、裏側に毛の付いたブーツを履いていきました。寒さ対策は万全でした。

 バスを降りて見上げたスキー場は、広々としていて人も少なく、開放感たっぷり。私はブーツで雪を踏み締め、「今日は、滑りやすそうな雪質だな」と、久しぶりのその感触を楽しみました。そして、手続きを済ませて、無事子供たちを教室に送り出しました。初心者の息子は個人レッスン、何度か経験がある娘はグループレッスンです。スマホで写真を数枚撮った後、私はロッジに行き、読書をたっぷり楽しんだのでした。

 生まれて初めてスキーを滑った息子。時折、ロッジから出て様子を見に行くと、初めは平らな場所で教わっていたのですが、徐々に斜面に移動して、最後のほうはリフトに乗って、上から滑ってくることが出来るようになっていました。経験豊富な指導員に教えてもらい、時に歓声をあげながら、楽しそうに滑っていました。もちろん、板を大きく八の字に開いて。

 教室が終わった後、息子は娘と合流。私は麓から、子供たちが広々としたゲレンデを滑る姿を見守り、満足感に浸ったのです。
さて、私がスキー場に行ったのは20年ぶりぐらいです。長らく遠ざかっていた間に、板の長さが変わっていました。昔は身長より10㎝以上も長かったのに、今は皆、短い板で滑っています。

 春のスキー場は、想像していたよりずっと暖かかった。それに、やっぱりワクワクします。板が短くなったので、久しぶりに滑っても、勘が早く戻るかもしれないー。来年はウエアを買って、私も再挑戦しようかな、と考えています。 

 

2018年4月3日火曜日

息子の卒園に思う

 息子が3月16日、幼稚園を卒園しました。教会で開かれた式では、しっかりとした足取りで壇上に向かい、園長先生に卒園証書をもらいました。証書を小脇に抱えて椅子に戻るときは、真っ直ぐ前だけを向いて歩いていました。「ああ、この子は未来に向かって歩いているんだ」と感慨深く、保護者席からその姿を見守りました。
 
 息子は入園時から、まったく心配のない子でした。私にくっつくことも後追いすることもなく、初めから団体生活に馴染みました。友達とよく遊び、先生にも可愛がられました。息子の幼稚園の思い出は、たくさんの友達から声をかけられその友達のほうに走っていく姿と、園庭や公園を楽しそうに走り回る姿です。息子はいつも、笑顔でした。

 せっかく手をつないだのに、あっという間に私の手を放して、前に向かって走る息子。サッカーをしているときもプールで泳いでいるときも、見守っている私を気にすることも手を振ってくれることもほとんどありませんでした。息子の後ろ姿を見守るー。それが、息子の幼稚園生活での私の役割でした。

 息子より7歳年上の娘がこの幼稚園に通っていたころは心配が尽きませんでした。入園式では私の膝の上に座ったままでした。登園時もしばらくは私にしがみついて離れませんでした。友達の輪の中にもなかなか入れませんでした。「幼稚園でおうちごっこをしたの」と嬉しそうに報告してくれたときは、ママ役でもお姉さん役でもなく、いつも友達に割り当てられた猫の役でした。

 「これあげる」。友達の輪に入りたくて、大事な花の種を握り締め、友達にあげようとした娘。「そんなもの、いらない」とはねのけられて、泣いて私のところに戻ってきました。そのときは、「ママ、そのお花の種ほしいなあ。ママにちょうだい」と言い、一緒に泣いて帰りました。

 時間をかけて描いた絵を友達にプレゼントしたけど、大きな×印を付けられ戻されました。「こんなに素敵な絵なのにね。ママ、もらっていい?大丈夫、×印は消えるから」と娘を慰めました。

 小さな子供なら誰でもする、他者の気持ちを考えない言動や、時に残酷な仕打ちを、あのときの私は一つ一つ深刻に受け止めました。
 
 私と夫は、娘の友だち作りに一生懸命でした。娘の誕生日会には夫は会社を休んで、娘の友達を歓待しました。クリスマスやハロウイーンなどの行事のときには、友達とその両親も食事に招待しました。そんな努力も空しく、娘にはなかなか友達が出来ませんでした。親がどんなに頑張っても、子供に友達が出来るわけではないーと分かったのは、娘が小学校に入って何年も経ってからでしょうか。

 地元の公立小学校になかなか馴染めなかった娘を、思い切ってインターナショナルスクールに転校させました。小5のときです。インターの水が合っていたのでしょうか? 少しずつ友達が出来るようになりました。私も夫も胸をなで下ろしました。それでも、娘の友達を家に招くなどの努力は惜しみません。娘が週末に友達と遊ぶ計画を立ててくれば、「お昼は美味しいものを食べておいで」とお小遣いをあげて、喜んで送り出します。

 そんな努力はしないのに、息子にはいつも「遊ぼう」の声がかかります。息子のことは小学校に入ってからもあまり心配することなく過ごせそうです。いや、一筋縄ではいかないのが子育てだといいます。このように小さいときに育てやすかった子は、後々、ドカンと大きな心配事がやってくるという心構えでいなければならないのでしょう。

 息子は無事卒園式を終え、友達とたくさん写真を撮り、春休みの遊びの計画をいくつも立てて、幼稚園に「さよなら」をしました。それでなくても手のかからなかった息子。小学校に行くと、さらに私の出番がなくなりそうです。それはそれで、寂しかったりもします。
息子に作った幼稚園最後のお弁当。愛を込めて、おにぎりも卵焼きもハート。