2017年2月13日月曜日

主治医の定年

  ついにこの日が来てしまいました。来ることは知っていて、心の準備も何となく出来ていた。でも、いざそれが現実となると動揺しました。1月18日水曜日、14年間も私を診てくれいている主治医から、3月末で定年退職することを告げられたのです。

 主治医は、東京都中央区築地にある国立がん研究センター中央病院血液腫瘍科の医師です。2003年、私がまだ38歳だったころ、初めて会いました。私は、厚生中央病院=目黒区=の血液内科の医師の紹介状を持参していました。

 厚生中央病院ではすでに「悪性リンパ腫 Ⅲ期」の診断を受けていました。新聞記者としての仕事にやりがいを感じていた時期。死を覚悟しなければならない病気にかかったショックよりも、治療のため仕事を休んで遅れを取る心配のほうが大きかった。また、治療に入れば子供を諦めざるを得ないのではないか・諦めるのは嫌だ・・・そんな葛藤も心の中でありました。主治医に会ったのは、そんな前のめりの自分だったときです。

 第一印象は有能でクール。その印象はずっと変わりませんでした。いつもにこやかで、穏やかに話をします。患者に感情を寄せ過ぎることも、いら立つこともありません。診断は適格で、緊急時以外は治療の選択肢をいくつか示し、自分が勧める治療法については言及するものの、選択は患者に任せるという対応でした。あれこれ自分で調べて最終的には自分が納得する治療法や薬を選びたい私には、いつも私の意思を尊重するという態度で接してくれました。結果的に主治医が勧める治療法を選ばなかったことも何度かありました。

 感情をほとんど表に出さない主治医ですが、説得力のある、時にとびきりのユーモアを含んだ説明で、私を決断に導いてくれました。

 同病院での検査で、全身に広がっている「悪性リンパ腫 Ⅳ期」と確定診断がなされ、「子供を持つことは難しい」と言われたとき。
 「どうしても、子供が欲しいのです」と必死に訴える私を、主治医はこうたしなめました。
 「将来生まれるかもしれない命よりも、まずは、ご自身の命を大切になさるべきではないでしょうか」
 この言葉に納得し、私は治療に入る決断をしました。

 抗がん剤治療中、点滴が漏れて、左腕が赤く腫れあがったとき。主治医に「次の抗がん剤投与を延期しましょう」と言われ、職場復帰を焦っていた私は、こう言いました。
 「先生、とっとと終わらせてしまいましょう」 
 そのとき主治医は微笑みながら言いました。
 「抗がん剤の投与は医学的判断に基づいて行うもので、患者さんのガッツで行うものではありません」
 私は、大笑いして治療の延期を受け止めました。

 再々発時に勧められた抗がん剤治療。最初の治療時に使った抗がん剤が使えなくなり、その替わりに使う予定の薬の副作用に「不妊」とあることをインターネット検索で知ったとき。あのときはすでに娘がおり、私の年齢も43歳と出産を望むには高齢でした。
 「もう一人どうしても子供が欲しいので使いたくありません」と訴える私を否定することなく、主治医は「女性の患者さんには割り切れないことがあることは分かります。この薬を外しましょう」と理解を示してくれました。

 再々発時は抗がん剤で腫瘍が消えず、放射線治療を行いました。23回照射予定でしたが途中で白血球値が下がり、敗血症ショック状態となって生死の境をさまよいました。発病時から再々発時までに、自己免疫疾患と心臓病を患い、体力が徐々に衰えていくことを実感していた私は「長く生きられない」と覚悟をしました。動けるうちに、娘の進路を決めようと小学校受験を目論みました。私は焦っていました。

 「先生、私はあとどれくらい生きられますか? 動けるうちに、いろいろと準備しなければいけないんです。娘のお受験も考えなければならないんです」と切羽詰まった様子で迫ったとき。
 主治医は真顔でこう言いました。
 「私は医学的アドバイスは出来ますが、残念ながらお受験のアドバイスは出来ません」
 肩に力が入っていた私は、ここでも大笑いし、心を少し軽くすることが出来たのです。

 再々発した悪性リンパ腫も放射線治療で何とか消えた矢先、今度は新たな自己免疫疾患を患いました。一つ目の自己免疫疾患をステロイド剤で抑え、その副作用に苦しんでいた私は、新たに発病した自己免疫疾患をステロイド剤で抑えることを拒否しました。この自己免疫疾患の治療法もステロイド剤だったのです。私は、新しい薬を試すことにしました。海外で効果があるという報告が出ていたからです。しかし、最初は薬が効かず、症状は改善しませんでした。「自分の決断は間違っていたのではないか」と思いました。自分で望んで決断したのに、効果が出ないと不安になる身勝手な患者を前に、主治医は穏やかな表情でこう言いました。
 「あれこれ考え過ぎないほうがいいですよ。この新しい薬に期待しましょう」

 病気の連鎖の中でもがき続け、病気と闘うことに疲れ切っていた私にとって、この「期待する」という言葉は何よりの励ましでした。「あぁ、私はまだ、期待が持てる状態なのだ」と。

 これほど信頼し、たくさんの思い出がある主治医なのに、突然の定年退職の報告で、私は動揺し、ただただ、「長い間、お世話になりました」と通り一遍のあいさつしか出来ませんでした。そして、なんと、次に口から出た言葉は、「先生、一緒に写真を写してください」でした。私は、スマートフォンで先生と自撮りでもするつもりだったのでしょうか? 主治医は「次の患者さんが待っていますので」とやんわりと断り、「15年ぐらいになりますね」とひと言、言葉をかけてくれました。そして、不安そうな私に、「今後のことは、次の医師に相談してください」と付け加えました。私は、何度も「ありがとうございました」と礼をし、診察室を後にしました。

 私はこの日、ぎりぎりのスケジュールを組んでいました。落ち込む間もなく、会計を済ませ、薬局で薬を買い、息子におやつを食べさせ、車で高速道路を飛ばして横浜に向かいました。娘の通うインターのママたちと企画しているイベントの打ち合わせに参加するためです。打ち合わせの後はまた、高速道路を飛ばして東京に帰り、息子をサッカー教室に連れていきました。落ち込んでいる暇がないほどの忙しい一日でした。

 夜、夫に主治医の定年退職を報告しました。夫は言いました。
「先生は君を何度も救ってくれた。先生でなければ、君を救えなかったと思う。先生は君が先生を必要とするときはずっといてくれた。でもね、今日、君はどうやって一日を過ごしたの? 朝早く起きてランチを作り、東京と横浜を車で往復し、病院で診察を受け、PTA活動に参加し、息子を習い事にも連れていった。君の年齢の普通の人よりも、ずっと活動的な一日を送ったんだ。もう、君は先生の助けを必要としなくなったってことなんだよ。たぶん、前に進むときなんだよ」

 「結構、いいこと言うじゃない」。5歳年下の夫の言葉にうなずきながら、私は目から流れてくるものを拭いたのでした。

 

 

 

 

 

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