2017年2月21日火曜日

旅に出たい

「ママ、最近ぼく、旅をしたいと思っているんだけど・・・」
5歳の息子がそうつぶやきました。夜、ベッドの中で絵本を読み聞かせていたときのことです。

 私は思わず、噴き出しました。息子の顔が真剣だったからです。私は慌てて笑いを抑え込み、聞きました。
「どこを旅したいの?」
「世界中を旅したいの」
「たとえば、どこの国?」
「日本中」
 覚えたての言葉を使ってみたい年頃。話はつながるような、つながらないような・・・。

「そうなんだ。たとえば、どこ?」
「たとえば、アフリカとか、アメリカとかオーストラリアとか・・・」
「そうなんだ。アフリカとアメリカとオーストラリアかぁ。楽しそうだよね。ママも行きたいなぁ」
「うん」

 次の日、幼稚園に迎えに行くと、息子は嬉しそうに園から借りてきた絵本を見せてくれました。
「ママ、今日は『エルマーのぼうけん』を借りてきたんだよ」
その本は、たくさんの子供たちに読み継がれてきたのでしょう。色あせ、表紙のところどころが補修されていました。


 『エルマーのぼうけん』は、男の子の冒険物語です。娘に買ってあげましたが、息子にはまだ、読み聞かせていなかった本です。字が多く、まだ、早いかな?と思っていたためです。きっと、幼稚園で先生から読み聞かせてもらっていたのでしょう。

 「旅に出たいから、この本を借りてきたの?」
 「うん。エルマーになって、絵本の中で旅が出来るでしょう?」
大人びた答えに、少し感心しました。

 夜、いつものようにぬいぐるみの「ベア」を抱いてベッドに入った息子に、この本を読み聞かせました。息子は絵本を読み聞かせるときの定位置である私の左腕の中にすっぽりと入りました。息子はところどころにある挿絵をじっと見ながら、真剣に聞いています。

 エルマーの冒険話に、息子と一緒にドキドキしながらも、私は少し寂しい気分になりました。
 「いつか、子供は”人生の旅”に出て行ってしまうんだよね。そして、めったに戻らなくなるんだよね。特に、男の子は・・・」と遠くない将来のことを想像してしまったからです。

 出来るだけ長い間、息子と一緒に絵本の中の旅を続けられますようにー。そう改めて願った夜でした。

 

 

2017年2月14日火曜日

父の誕生日に

 昨日2月13日は父の誕生日です。今年で82歳になりました。遺影の前には、父の好物が並びました。

 私はステーキを焼き、りんごをお供えしました。娘は学校帰りにパン屋さんで、父が大好きだったあんパンを買ってきてくれました。夫は赤ワインを買ってきてくれました。息子は自分がおやつに食べていた焼き芋を半分に割り、「これ、じぃじにあげよう」とお供えしてくれました。

 遺影の側には、娘の日記を額装したものを飾りました。娘が小学校3年のときに書いた日記です。

 「今日、おじいちゃんのほねを、お寺にのうこつしました。お寺はさっぽろにあり、きのう学校が終わったときに、来ました。

 おじいちゃんは、3月24日になくなりました。そのときには、ほんとうにありえなくて、なきました。とてもかなしかったです。

 バスでのうこつにいきました。バスでおばあちゃんの家にかえっているとき、おかあさんとおばあちゃんが、おじいちゃんが生きていた時代のおかしいところを、なみだいっぱいながしながら、わらってはなしていました」

 父の思い出を話すとき、私たち家族はいつも大笑いします。自分はおもしろいことを言っているつもりはないのに、周囲を笑わせる。父はそんな人でした。

 
 

2017年2月13日月曜日

主治医の定年

  ついにこの日が来てしまいました。来ることは知っていて、心の準備も何となく出来ていた。でも、いざそれが現実となると動揺しました。1月18日水曜日、14年間も私を診てくれいている主治医から、3月末で定年退職することを告げられたのです。

 主治医は、東京都中央区築地にある国立がん研究センター中央病院血液腫瘍科の医師です。2003年、私がまだ38歳だったころ、初めて会いました。私は、厚生中央病院=目黒区=の血液内科の医師の紹介状を持参していました。

 厚生中央病院ではすでに「悪性リンパ腫 Ⅲ期」の診断を受けていました。新聞記者としての仕事にやりがいを感じていた時期。死を覚悟しなければならない病気にかかったショックよりも、治療のため仕事を休んで遅れを取る心配のほうが大きかった。また、治療に入れば子供を諦めざるを得ないのではないか・諦めるのは嫌だ・・・そんな葛藤も心の中でありました。主治医に会ったのは、そんな前のめりの自分だったときです。

 第一印象は有能でクール。その印象はずっと変わりませんでした。いつもにこやかで、穏やかに話をします。患者に感情を寄せ過ぎることも、いら立つこともありません。診断は適格で、緊急時以外は治療の選択肢をいくつか示し、自分が勧める治療法については言及するものの、選択は患者に任せるという対応でした。あれこれ自分で調べて最終的には自分が納得する治療法や薬を選びたい私には、いつも私の意思を尊重するという態度で接してくれました。結果的に主治医が勧める治療法を選ばなかったことも何度かありました。

 感情をほとんど表に出さない主治医ですが、説得力のある、時にとびきりのユーモアを含んだ説明で、私を決断に導いてくれました。

 同病院での検査で、全身に広がっている「悪性リンパ腫 Ⅳ期」と確定診断がなされ、「子供を持つことは難しい」と言われたとき。
 「どうしても、子供が欲しいのです」と必死に訴える私を、主治医はこうたしなめました。
 「将来生まれるかもしれない命よりも、まずは、ご自身の命を大切になさるべきではないでしょうか」
 この言葉に納得し、私は治療に入る決断をしました。

 抗がん剤治療中、点滴が漏れて、左腕が赤く腫れあがったとき。主治医に「次の抗がん剤投与を延期しましょう」と言われ、職場復帰を焦っていた私は、こう言いました。
 「先生、とっとと終わらせてしまいましょう」 
 そのとき主治医は微笑みながら言いました。
 「抗がん剤の投与は医学的判断に基づいて行うもので、患者さんのガッツで行うものではありません」
 私は、大笑いして治療の延期を受け止めました。

 再々発時に勧められた抗がん剤治療。最初の治療時に使った抗がん剤が使えなくなり、その替わりに使う予定の薬の副作用に「不妊」とあることをインターネット検索で知ったとき。あのときはすでに娘がおり、私の年齢も43歳と出産を望むには高齢でした。
 「もう一人どうしても子供が欲しいので使いたくありません」と訴える私を否定することなく、主治医は「女性の患者さんには割り切れないことがあることは分かります。この薬を外しましょう」と理解を示してくれました。

 再々発時は抗がん剤で腫瘍が消えず、放射線治療を行いました。23回照射予定でしたが途中で白血球値が下がり、敗血症ショック状態となって生死の境をさまよいました。発病時から再々発時までに、自己免疫疾患と心臓病を患い、体力が徐々に衰えていくことを実感していた私は「長く生きられない」と覚悟をしました。動けるうちに、娘の進路を決めようと小学校受験を目論みました。私は焦っていました。

 「先生、私はあとどれくらい生きられますか? 動けるうちに、いろいろと準備しなければいけないんです。娘のお受験も考えなければならないんです」と切羽詰まった様子で迫ったとき。
 主治医は真顔でこう言いました。
 「私は医学的アドバイスは出来ますが、残念ながらお受験のアドバイスは出来ません」
 肩に力が入っていた私は、ここでも大笑いし、心を少し軽くすることが出来たのです。

 再々発した悪性リンパ腫も放射線治療で何とか消えた矢先、今度は新たな自己免疫疾患を患いました。一つ目の自己免疫疾患をステロイド剤で抑え、その副作用に苦しんでいた私は、新たに発病した自己免疫疾患をステロイド剤で抑えることを拒否しました。この自己免疫疾患の治療法もステロイド剤だったのです。私は、新しい薬を試すことにしました。海外で効果があるという報告が出ていたからです。しかし、最初は薬が効かず、症状は改善しませんでした。「自分の決断は間違っていたのではないか」と思いました。自分で望んで決断したのに、効果が出ないと不安になる身勝手な患者を前に、主治医は穏やかな表情でこう言いました。
 「あれこれ考え過ぎないほうがいいですよ。この新しい薬に期待しましょう」

 病気の連鎖の中でもがき続け、病気と闘うことに疲れ切っていた私にとって、この「期待する」という言葉は何よりの励ましでした。「あぁ、私はまだ、期待が持てる状態なのだ」と。

 これほど信頼し、たくさんの思い出がある主治医なのに、突然の定年退職の報告で、私は動揺し、ただただ、「長い間、お世話になりました」と通り一遍のあいさつしか出来ませんでした。そして、なんと、次に口から出た言葉は、「先生、一緒に写真を写してください」でした。私は、スマートフォンで先生と自撮りでもするつもりだったのでしょうか? 主治医は「次の患者さんが待っていますので」とやんわりと断り、「15年ぐらいになりますね」とひと言、言葉をかけてくれました。そして、不安そうな私に、「今後のことは、次の医師に相談してください」と付け加えました。私は、何度も「ありがとうございました」と礼をし、診察室を後にしました。

 私はこの日、ぎりぎりのスケジュールを組んでいました。落ち込む間もなく、会計を済ませ、薬局で薬を買い、息子におやつを食べさせ、車で高速道路を飛ばして横浜に向かいました。娘の通うインターのママたちと企画しているイベントの打ち合わせに参加するためです。打ち合わせの後はまた、高速道路を飛ばして東京に帰り、息子をサッカー教室に連れていきました。落ち込んでいる暇がないほどの忙しい一日でした。

 夜、夫に主治医の定年退職を報告しました。夫は言いました。
「先生は君を何度も救ってくれた。先生でなければ、君を救えなかったと思う。先生は君が先生を必要とするときはずっといてくれた。でもね、今日、君はどうやって一日を過ごしたの? 朝早く起きてランチを作り、東京と横浜を車で往復し、病院で診察を受け、PTA活動に参加し、息子を習い事にも連れていった。君の年齢の普通の人よりも、ずっと活動的な一日を送ったんだ。もう、君は先生の助けを必要としなくなったってことなんだよ。たぶん、前に進むときなんだよ」

 「結構、いいこと言うじゃない」。5歳年下の夫の言葉にうなずきながら、私は目から流れてくるものを拭いたのでした。

 

 

 

 

 

2017年2月3日金曜日

インターのダンスパーティ ②

「第2回のミーティングは水曜日12時から、●●●の家で行います。お昼の時間なので、皆で食べられるものを一皿持ってきてください」 

  そんな一斉メールが届きました。娘の通うインターのPTA主催「ダンスパーティ」の打ち合わせです。第1回は学校のカフェテリアで開かれましたが、第2回は横浜にあるフランス人ママの家で開かれるというのです。

 その日は朝、東京都中央区築地にある国立がん研究センター中央病院で血液検査と診察の予定が入っています。かつ、息子の通う幼稚園は午前11時半で終わります。午後は地元のサッカー教室に連れていかなければなりません。参加できない旨を書いたメールを返信しました。

 「すみません! 水曜日は息子の幼稚園が午前11時半に終わるため、残念だけど参加できません」

 するとフランス人ママから早速返信が。
 「大丈夫よ!一緒に連れてきて。ミーティングは女性ばかりなので、男性がいると楽しいわ」

 しまった!子連れだから遠慮したと思われたの? 午後にも予定があると書けばよかった、と後悔しても後の祭り。で、考えました。もう一度、更なる理由をつけて断るか。それとも少しでも顔を出すか? 相手は外国人。メールは英語で、文面がおしゃれです。日本人だったら文章の行間を読んで、相手の真意も分かります。が、そのメールを何回読んでも社交辞令なのか、親切心で言ってくれているのか、分かりません。そこで、夫に相談しました。

開口一番、夫もこう言いました。
「それ、社交辞令?」
「分からないわ。読んでみて」
夫にメールを見せます。
「ああ、親切なんだよ。もう一度断るのは止めたほうが良いかもね。他の学年のママたちと知り合える良い機会だから行ったら? フランス人の家も見てみたいでしょ?」

 そうだよね、と思い直し、スケジュールを組み立て直しました。
 朝、ランチ用の料理を作って、午前8時に息子を連れて車で国立がん研究センターに向かう。血液検査をし、結果を待ち、10時半予約の診察を受ける。その後、会計を済まして、薬を最寄りの薬局で買い、そのまま車で高速を飛ばして横浜のフランス人ママのお宅へ。おそらく、12時半までには着くでしょう。1時間ほどランチ会兼ミーティングに参加し、午後1時半に家を出れば、午後2時20分の息子のサッカー教室に間に合う。息子はサッカーを何よりも楽しみにしているので、キャンセルするのも可哀そうです。幼稚園はこの際、思い切って休むことにしました。

 次に考えたのは持っていく食べ物です。外国人にも食べてもらえて、かつ、冷めても美味しいもの。まず思い付いたのは、作り慣れていて、家族にも幼稚園のママ友達にも好評な「キッシュ」です。夫に聞いてみました。夫は真顔で、こう言いました。
 
 「君のキッシュは美味しいよ。でもさ、キッシュってフランスの食べ物でしょ。フランス人の家にキッシュを持っていくのは、やめたほうが良いと思うよ」

 悩みに悩んで、参加する日本人ママにメールしました。
「外国人宅での持ち寄りランチって、何を持っていけば良いのでしょうか? 日本人ママたちと持ち寄りランチをするときは、『私はお肉料理を作るわ』と提案すると、『じゃあ私はサラダ』、『私はご飯もの』、『私はデザートにするわ』とざっくりと決めるのですが・・・』

 インター生活が長いその日本人ママからは、こんな返信が届きました。
「適当です。何を持っていっても喜ばれますよ!ちなみに私はサケとイクラのちらし寿司にします」

 で、私は心を決めました。鶏のから揚げと、得意の米ナスの料理にしようと。

 当日は早朝から、スケジュール通りに動きました。病院を出た後は、汐留インターチェンジから首都高速に入り、横浜に向けて車を走らせました。横浜でアメリカ人ママを拾って、フランス人ママのお宅へ。

 「どうぞ、入って」
 にこやかに迎えられ、金色の帯(帯を敷物にする感覚、やっぱり外人です)の上に大振りな花が活けてある広い玄関から、日当たりの良いリビングダイニングに入りました。10人は座れる大きなダイニングテーブルには白いテーブルクロスがかけられていました。キッチンに行くと、すでに来ていたアメリカ人ママ、スウェーデン人ママ、チェコ人ママが料理を作ったり、皿に盛り付けたりしています。いつも集っているのだな、という和やかな雰囲気です。フランス人ママがスパークリングワインを開けます。車で来たことをちょっぴり残念に思いました。

 私は恐る恐る、袋から料理を取り出しました。それを見たチェコ人ママは言います。「日本人の女性は、本当にきれいに盛り付けるのよね。それも、いつも手作り。私たちは、ほら、出来合いのものよ」。すかさず、アメリカ人ママが切り返します。「あら、私は手作りよ」。そのママはシーフードパスタを作ってきたようです。ユーモアたっぷりのチェコ人ママのコメントや、アメリカ人ママの遠慮ない物言いを聞き、私の不安はようやく消えたのでした。


 この日は3人がパスタを持参。もう1人の日本人ママのちらし寿司は、いくらとサケ、錦糸卵が彩り良く飾り付けられて、本当に美味しかった。そのほかパン、サラダ、デザートやフルーツも。相談しなくてもバランスよく集まるんだなあ、と感心しました。

 楽しいランチも終わり、ダンスパーティの打ち合わせです。学校との調整事項の報告、パーティで出す食べ物・飲み物、DJやシンガーへの出演依頼についての確認、ドレスコードなど様々なことを話し合いました。私は前回のミーティングで提案した「ベネチアンマスク」のサンプルを見せ、アマゾンや楽天での在庫状況について報告しました。

 マスクはアマゾンの購入者の評価が思ったより良くなく、私は提案したことを少し後悔していました。前日、それを付けて鏡を見ても、どうも、取って付けた様で変だったのです。私は少し言い訳気味に言いました。

「アマゾンのコメントがあまり良くないの」
「見せて!」とロングヘアの美人・スウェーデン人ママ。付けてみると、なんと、似合うこと。ほれぼれするような美しさです。
「あら、いいじゃない」と皆の反応も良い。ここで、私は初めて気が付いたのです。

 このマスクは、顔の凹凸がしっかりした人たちが付けるものなのだ、と。道理で、私には似合わないはずです。さておき、提案が通って良かった。私は、ここでも安堵したのでした。

 最初は気が重かった、フランス人ママ宅でのミーティングへの参加。お宅を出るころには、気持ちは晴れやかになっていました。息子も臆することなく、ママたちと一緒にテーブルに付き、時に質問に答えながら、お行儀良くランチを食べることが出来ました。

 案ずるより産むが易し、を実感した日でした。