2019年6月30日日曜日

父の日の出来事

 今年の「父の日」は例年とは違った一日でした。毎年、子どもたちが事前に準備していた手作りのプレゼントをあげる、この日。今年は夫にとって、少し寂しい日となったのです。

 例年通り、2週間ほど前から、子どもたちに「16日は父の日だからね。プレゼントを準備しておいてね」と伝えておきました。しかし、小2の息子が「そうなんだね、父の日がもうすぐ来るんだね。何作ろうかなあ!」と表情を輝かせる一方、中3の娘の反応は冷めていました。

「毎年、ダディに手作りのものをプレゼントしているけど、ダディはプレゼントをもらったときは喜ぶけど、その後はどこかにやってしまうし。ママはあちこちに飾ってくれるけど、、、」

 確かに、夫はプレゼントをもらったときは、とても喜びますが、それをあえて、飾ったりはしません。数年前に娘にもらった詩は寝室の壁に飾っていますが、それも、私が近所の額装屋さんに持っていて額に入れてもらったもの。子どもたちからのプレゼントはどこかに仕舞っているとは思いますが、どこにあるのかは知りませんし、どう感じているのかも分かりません。

 逆に私は、子どもたちが学校で作ってきた作品は家の中のあちこちに置き、プレゼントしてくれた絵は何枚も額装し、玄関や寝室、キッチンなどに飾っています。子どもの描いた絵や作ったものほど、可愛らしく、愛おしいものはないと思っているからです。正直に言いますと、子どもたちが着た服、作ったもの、走り書きした紙切れまで愛おしく、これらを処分できずにため込んでいます。これがきっと将来子供たちに「うっとおしい」と思われる原因になるかもしれないと、心を鬼にして処分しなければ、と思っているくらいです。

 おそらく、”物”に対する思いは、どちらが良いと言えるものでもないのでしょう。

 そういえば、昨年、義父母のクリスマスプレゼントをどうしようか迷っていたときに娘が私にこう言いました。

 「ママ、そんなに悩まなくていいよ。グランマなんかさ、『有り難う!とっても素敵!』って言ったあとは、すぐ気持ちは次のプレゼントに行くんだから。そんなに気を遣わなくても良いんだよ。グランマやグランパはたくさんプレゼントもらうんだから」

 義父母には息子が4人、孫8人います。父の日、母の日、誕生日、クリスマスには毎回、たくさんのプレゼントをもらうため、必然的にそれぞれからのプレゼントに対する思いや感謝の気持ちはそれほど濃いものではありません。それを何となく、娘は勘付いているに違いありません。

 逆に、私の母にとっては私は1人娘で、孫も私が産んだ2人しかいません。ですので、私や子どもたちからの電話や手作りのプレゼントを何よりも喜びます。実家で娘が新聞のチラシの裏に描いた絵やメッセージさえ、額に入れて、部屋のあちこちに飾っています。

 これは国民性の違いでしょうか? それとも、たまたま夫や夫の家族があっさりしていて、私や母の思いが強すぎるのでしょうか?

 さて、父の日です。結局、息子はダディのために一生懸命粘土で作って色を塗ったハンマー(夫と息子の間には、ハンマーについての共通の話題があるらしいのです)と手作りのカードをプレゼント。


 娘は何度促そうとも、何も夫に作りませんでした。家族が大好きで、家族と過ごすことが何よりも好きだった娘にも、家族を遠ざけたり、反抗したりする思春期がやってきたのでしょうか。

 父の日の当日。私は何とか夫の気持ちを盛り上げようと、お弁当と夫の好きなアップルパイを作って、ワインとチーズを準備して、近くの公園にピクニックに誘いました。

 子どもたちがお弁当を食べ終えて、公園内の林の中で遊び始めたとき、夫が子どもたちを眺めながら寂しそうにつぶやきました。

「娘が父の日のことを知っていて、あえてプレゼントをくれないというのは寂しいな。逆に、忙しいから忘れていた、というほうがよほど良かった・・・」

 そうだよな、と私は夫に共感しました。「プレゼントをあげない」より「父の日のことを忘れていた」ほうがずっと良い。

 娘が夫に素敵な詩をプレゼントしたのは数年前のこと。多感な14歳。こうして、子どもたちは少しずつ、親離れしていくものなんですね。夫の気持ちが痛いほど分かった、1日でした。


2019年6月18日火曜日

解剖に立ち会う

 先日、病院で解剖に立ち会いました。講義の一環として行われました。私は文学部出身で、解剖とはもちろん無縁でしたので、今回が初めての体験です。

 「病理学」について学んでいた講義の途中、担当の先生の電話が鳴りました。先生はしばし相手と話した後、電話を切り私たちに言いました。

 「病気で亡くなられた方の解剖をこれからすることになりました。今日の講義はここまでにします。残ったところは来週に。ところで、皆さん、解剖を見ますか?」
 
 講義を受けていたは5人。そのうち2人は医師です。基礎的な医学知識を学ぶその講義は受ける必要はない方々なのですが、2人とも「復習のため」と受けているのです。そのうちの1人の男性医師が、「次の講義の予定は?」と他の受講者に聞き、全員がその日の講義はそれだけか、もしくは数時間後ということを確認。「どうですか、皆さん、見ますか?」の声に、皆がうなずいて決まりました。

 私はその医師の問いに間髪を容れず、「見ます」と答えました。このような機会はこれからやってこないかもしれません。講義を担当する先生は皆の意向を確認した後、「これから準備に1時間ほどかかります。病院のロビーで待ち合わせしましょう」と言い、講義室を後にしました。

 さて、病院のロビーで待ち合わせし、解剖室へ行きました。そこは霊安室の近くにありました。私たちは丈長のエプロンを着用し、帽子をかぶり、マスクと手袋をして解剖室に入りました。

 ご遺体が台の上に載せられ、顔には白い布がかけられていました。その方の死因となった病気が私の病気と似た病気だったこと、身長体重が私とほぼ同じだったこと、そして名前が母の旧姓だったこと、で何か”縁”のようなものを感じました。

 この方は昨日までは生きていたのだ、ととても胸が痛みました。急に体調を崩し、このような形で亡くなってしまうことなど、想像だにしなかったのだろうと思いをはせました。

 ご家族はいらっしゃるのでしょうか? 子どもがいるとしたら、おそらく私より若い年齢でしょう。静かに横たわるその方を見ながら、霊安室に横たわっていた亡父の穏やかな顔や、私がいる病室ではなく、霊安室に行ってしまった、死産した可愛いらしい息子の顔を思い出しました。

 まず、全員でその方に手をあわせました。執刀医の先生がメスを入れ、臓器を取り出します。その方の死因となった病気以外に原因がないか、詳細に調べます。先生は私たちに臓器や血管の形状や仕組みなど様々なことを教えてくれます。

 解剖は2時間に及びました。先生は「具合が悪くなったら、我慢しないで外に出てください」と冒頭仰っていましたが、だれも外に出ませんでした。そして、5人とも2時間立ちっぱなしで、解剖に立ち会いました。解剖が終わった後、ふと下を見ると、私が履いていた白いサンダルには小さな赤い血がついていました。

 毎日、いろんなことに悩み、追われる日々。でも、その方の体の中を見せてもらった後、「世の中のお役に立てる人間になれるよう、頑張らなければ」という思いがふつふつと心にわいてきました。そして、その方に学ばせてもらったことは、いつか、必ず、どこかでお返しをしようと心に誓ったのでした。



 

 

2019年6月11日火曜日

大学院の中間試験に挑む

 昨日の未明、大学院の中間試験が終わりました。正確に言うと、6月10日午前0時10分、答案用紙を先生に送信しました。締め切り時間は午前0時30分。あと20分ほど時間に余裕がありましたが、もう頭が働きませんでした。何せ、前夜の午後7時から取り組んでいたのです。

 大学院はオリエンテーションのときから驚きの連続で、54歳で挑戦してしまった自分の無謀さを今さらながら後悔する日々。30年以上前に行った大学での学び方とは違い、講義の準備、課題の提出、他の研究生らとのディスカッションの方法など、様々なことがインターネットを使って行われるので、そういった環境に慣れるのがまずひと苦労。
 
 かつ、一番問題なのは、勉強しても頭に入らないことです。私の所属するのは「公衆衛生学研究科」。医療問題を取材・執筆するという仕事上、多少知識があった医療政策や医療倫理などの分野はまだ大丈夫ですが、初めて学ぶ「疫学」は本当に頭に入りません。

 テキストを開いて読んでも、問題を解こうとしても、脳が「もう、これ以上入りませんよ。メモリーもありませんし・・・」と勝手にシャットダウンしてしまい、挙句の果てに眠たくなるという事態に。「人間の脳はすごい。未知のことに遭遇すると、混乱しないように働きを止めてしまって防御するんだ」と逆に感心してしまうぐらい、頭に入らない。

 で、昨夜の「疫学」の中間試験です。まず、試験を学校で受けないということが驚きです。自宅でも学校でも、インターネットにアクセスできればどこでも良し。そして、テキストでもノートでも、何でも見てよいのです。設定時間も働いている人に合わせて、一番参加者が多いであろう日曜の夜が選ばれたようです。
 
 午後6時45分に先生から受講者に「今、問題・答案用紙をアップロードしました。締め切りは10日午前0時半」という一斉メール。それを受けて、受講者らが大学のサイトに入って、答案用紙をダウンロードするのです。当初は午後11時の締め切り時間でしたが、少し伸ばしたのですね。

 私も緊張しながら、サイトにアクセスし、その講座のページに入って、「中間試験」のバーをクリック。でも、目的の問題・答案用紙に1回でたどり着けません。でも、この1、2カ月で学んだこと、「慌てず、とりあえず、あちこちクリックしてみること」と自身に言い聞かせて、ようやくダウンロードできたのでした。

 先生あての受講者のメールの欄(全員で共有)をチラリと見てみると、案の定、「いま、7時5分ですが、問題・解答用紙が見当たりません!」というメールが。発信者名を見ると、入学式のときに挨拶し合った、同年代の女性です。その方は素晴らしいキャリアの持ち主で、私など足元にも及ばないのですが、「やっぱりなぁ」と共感しました。中高年はインターネット環境で想定外のことに遭遇すると、慌ててしまうのです。若い人のように、軽やかにあちこちクリックしてみるということが出来ないのです。

 先生も自分よりは年上であろう方々もいるということは承知の上で、返信も相手を尊重した言い回し。「いま、アップロードしたばかりですので、入れ違いになったかもしれません。締め切りは当初より遅く設定していますので、十分時間はあります」。もう試験は開始していますので、私は問題に集中すべきなんですが、こういう周辺のエピソードを拾い上げてしまうという習い性(つまり、原稿のネタになりそうなことを記憶する)で、しばし集中が途切れてしまいました。

 さて、「これはブログに書こう」と決めた後、本腰を入れて問題に取り組み始めました。1問目から難題。「昨日までのあの復習は何だったんだ!」とあきれるほど、初めて見る問題です。前日は夫に子どもたちを預け、午後1時から夕方の5時まで、この日も午前11時から午後4時まで大学にこもって勉強していたのに、全く意味がない。

 「何でも見て良い」ということはこういうことなんですね。テキストを開き、ノートをめくっても、解き方が分からない!うんうんうなりながら考え、解答し、次に進みます。ちなみに1ページ目にさいた時間は1時間。問題は9ページありますので、時間配分をしっかりせねば、と2ページ目からはスピードを上げました。

 そして、何とか9ページまで解いて、プリントアウトして見直し、答案用紙をアップロードして提出。夜中の12時を回っていました。くたくたになって、下に行き、冷蔵庫を開けてビールを取り出し、フシュっと開けて、グイッと飲みました。時間はあと20分ありましたが、余力なし。

 遠い昔、アメリカの大学に入学した1学期目のことを思い出しました。あれは、『アメリカ政治学』の授業でした。先生の言うことが全く理解できず(英語が分からない)、すべてテープに録音し、それを聞きなおして勉強したのもかかわらず、落としてしまったあの講義。あーあ、これも落としてしまうかも、という不安が頭をもたげました。が、その不安をビールと一緒に飲み込みました。50代女性が未明に、「疫学の講義を落としてしまうかも・・・」と不安になっても仕方ありません。

 さて、翌日。その講義を受講している20代の若い女性に「どうでしたか?」と聞いてみました。彼女も私と同じように感じていたようです。
「中間試験の準備のために配られたペーパーと全く違う問題でしたよね」とその女性。
「本当に。一生懸命あのペーパーに取り組んだ時間は何だったのか?という感じでした」と私。
「必死にグーグルで検索しましたよ」とさらりと話す彼女。

 そうか。その手があったか、と膝を打つ私。若い人は「ググる」(検索する)んです。そうしても良いんです。だって、自室で問題を解いているんですから。先生だって、それを前提に問題を作っているに違いありません。私は目の前のパソコンに向かい、手元には「辞書機能」として使うアイフォンを持っていたのに、分からないことは「ぐぐる」という発想がなかった。愚直に、テキストとノートをめくって、うなっていたのです。

 時代は変わっています。私も上手についていかないと、と苦笑したのでした。