2017年1月7日土曜日

「何がめでたい」

 元旦、新聞を読んでいたら、全面広告に目が止まりました。「何がめでたい」とおばあちゃんが怒りながら新聞を読むイラストがついています。元旦にそのタイトル。思わず、クスリと笑ってしまいました。佐藤愛子さんの「90歳。何がめでたい」(小学館)の宣伝でした。


 年末の「We love SMAP」の全面広告8面には度肝を抜かれましたが、一冊の本を全面で宣伝するのも珍しいのではないでしょうか。それほどに、「この本を売りたい・売れるはず」という出版社の意気込みが伝わります。分かるなあ。この本、良い本だもの。
 
 実は昨年、あることがきっかけで、このエッセイ集を買いました。母のひと言でした。
 「佐藤愛子さん大好きなの。『90歳。何がめでたい』買って読んだら、気持ちが明るくなった」 
 苦労の絶えない78年を生きた母が、「気持ちが明るくなった」という本を読まないわけにはいきません。購入後、一気に読了しました。

 卒寿(90歳)を祝われ、礼は言いつつ心の中で舌打ちする話には、大笑いました。死んだ飼い犬への思いをつづった話には、涙がこぼれました。日本人の”アホぶり”をピシリと叩く、辛口のコメントに膝を打ち、迷惑な押し売りさえ家に入れて、逆にもて遊んでしまう老獪さには感心しました。昔の苦い、辛い思い出さえも懐かしむ話には、「今の自分の問題も、小さなことなんだ」と思える説得力があった。読んだ後、心が軽くなりました。

 ミステリー小説が読めなくなって、もう何年も経ちます。父が亡くなってから、読めなくなりました。昔は大好きで、桐野夏生さんや東野圭吾さんらの作品を新作が出るたびに買っては読んでいました。が、数年前、東野圭吾さんの新作を購入し、読み始めた途端、読めなくなった。人が苦しむ。人が死ぬ。そういう描写に耐えられなくなったのです。その新作は結局、読まずに古本屋さんに持っていきました。それから、一切、ミステリーは読んでいません。

 ノンフィクションの本は読みます。たとえ、読むのが辛くても、現実を知りたいと思うからです。が、娯楽として読むフィクションでは、人が人を殺める話や暴力的な話は読みたくないし、悲しい話もなるべくなら避けたい。映画も、戦闘や殺人シーンを見られなくなって久しい。そういうシーンがありそうな映画をそもそも、見ない。

 自分の生きる現実が重たくなればなるほど、息抜きに読む本や映画にはさわやかさや軽やかさ、もしくは、現実離れした夢物語を求めるのかもしれません。母が昔、戦争映画やミステリー・サスペンス映画を見る私に「よく、そういう映画見られるわね。私は絶対嫌だよ。気持ちが暗くなるからね」と言っていましたが、今は、その気持ちが良く分かります。

 最近は、こういう本や映画を作れる人は、実は心身ともに安定した人生を歩んでいるのではないかとさえ、思っています。

 作家の村上春樹さんが「走ることについて語るときに僕の語ること」(2007年初版)で、「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである」と書いています。「健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」とよく人に問われることについての、彼の答えです。これを読んだ10年前も、この言葉に共感しましたが、今も同じ気持ちです。健康でなければ、人の心の闇に迫った本や映画を作り続けていたら、いずれその作品に自分自身が呑まれてしまい、心身を壊してしまうのではないかと想像するからです。

 年末に「ローグワン/スターウォーズ・ストーリー」を家族で見に行きました。親子でクリスマスを楽しむために見に行きましたが、たとえ宇宙の話であろうとも、度重なる戦闘シーンは見るのが辛かった。剣や銃に興味を持ち始めた(やっぱり男の子です)5歳の息子への悪影響も心配でした。が、周りを見渡すと、小さな子供連れの親たちがたくさんいました。

 スターウォーズのような全く現実離れした架空の話ぐらいは、楽しみにしている子供たちのためにも、話題に付いて行くためにも、我慢して見なければと思いました。本当は見たくないけれど。
 

 

 

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