2016年10月31日月曜日

ハッピー ハロウイーン!

 ハロウイーンは、子供たちが最も楽しみにしている行事です。娘が小さいころは、デコレーション用のかぼちゃや飾りを手に入れるのも大変だったのですが、最近はどこもかしこもハロウイーングッズがあふれ、子供や大人にも大人気の行事になりました。今年も娘と息子は張り切って仮装し、駅前の商店街へ。お店の前で「トリック オア トリート」と言い、キャンディを次々と”ゲット”しました。駅前は、仮装した子供たちであふれ、親も子供も楽しいひとときを過ごしました。

 
  まずは、駅前に繰り出して、キャンディをもらいました。娘が扮したのは「狼男」。息子は「スパイダーマン」です。
今年、我が家で購入した一番大きなかぼちゃ。40㌔です。
左が娘、中央が夫、右が息子。一番大きいかぼちゃは娘が彫りました。私が彫ったのは大きなかぼちゃの左、息子のは右です。
パンプキンパイも焼きました。子供たちの大好物です。

2016年10月30日日曜日

親子ドッジボール

 娘の通うインターナショナルスクールで授業参観があり、体育の授業で親子ドッジボールに参加しました。

 授業参観が行われたのは、日本語、算数、体育、宗教(娘の学校はカトリックです)の4教科。日本語、算数、宗教は日本の公立校と同様、教室の後ろで見るだけでした。少し違ったのが、体育の授業。子供たちのバスケットボールの授業が終わった後、先生が「お母さん、お父さん、子供たちと一緒にドッヂボールをしませんか?」と呼び掛けたのです。

 体育館の2階のベンチに座って、子供たちのバスケットボールを観ていた親たちは互いに顔を見合わせました。「どうします?」「私、運動神経鈍いのよ・・・」という声が聞こえます。が、46歳の夫も51歳の私も立ち上がりました。こんな経験は二度とないかもしれないのです。参加しない手はありません。ためらうお母さんたちにも、「行きましょうよ」と声掛けし、コート内に。

 親子ドッジボールは、楽しかった。普段、スポーツをしている姿など見たこともない夫の活躍も、予想外の楽しい発見でした。誰も信じてくれませんが、私はバスケットボールやハンドボールは得意中の得意。が、コート内を軽やかに動き回った・・・とはならずに、あっという間に子供にボールを当てられ、コートの外に。夫は、コートの中心に立ち、少ない動きで、次から次へと子供たちにボールを当てていきます。私はコート外でようやくボールを拾って子供にぶつけ、コート内に。が、また、子供たちに狙われて、ボールを当てられます。こうやって、ちょろちょろと動くものの、出たり入ったりを繰り返す始末。夫は泰然と、なんと十人近くの子供に当ててしまったのです。

 楽しい時間も終わり、先生が親たちに言いました。「お父さん、お母さん、ありがとうございます。子供たちにとってとても楽しい時間となりました」

 「あっという間に子供に当てられたわ」
 「ドッジボールなんて、何十年ぶりかしら?」
 親たちの表情もみな、一様にさわやかでした。

 さて、体育の時間が終わりクラスに戻るとき、娘が私にこっそりとつぶやきました。
「男子たちがね、君のお父さん、怖いなぁって言うんだよ」
 娘は苦笑いしています。
 その言葉を聞き、40年以上前の、私の小学生時代を思い出しました。あのときもあったのです。授業参観での親子ドッジボールが。

 そのときの情景が鮮やかに蘇りました。運動神経抜群の私の母が、コート内をすばしっこく動き回り、子供たちに次々とボールを当てます。他のお母さんはおろおろとしているのに、私の母は生き生きとして、コート内を走り回っています。
 授業が終わり、担任の先生に、「君のお母さんは運動神経が良いね。たぶん、学生時代に何かスポーツをしていたんだね」と言われ、なぜか恥ずかしく、鮮明な記憶として私の脳裏に刻まれました。
 母と母のきょうだいは皆足が速く、「鈴木(母の旧姓)のサラブレット」と近所でも有名だったらしく、さらに、母は中学・高校とバレーボールのクラブに入っていました。ですので、授業参観で親子ドッジボールに参加することは、母にとって久しぶりの楽しい時間だったに違いありません。

 ドッジボールで親子の交流を深めるー。これが世代を超えて、国籍を超えて、行われている。このような素敵な発見が出来たことは、とても嬉しいことでした。

 後日、夫にこのときの活躍についてほめると、夫はまじめな顔をして答えました。
 「鍵は、コートの中心にいることなんだ。僕は195㎝と体が大きいから、的にするには最適だ。でも、ボールを投げるのは子供だからね。それほど遠くに的確にボールは投げられない。コートの中心にいれば、コートの外にいる自分の視野に入らない子供たちがたとえ僕を狙っても、なかなか届かないんだよ。自分の視野に入る子供たちは、狙えばすぐ当てられるしね」

 なるほど。さすが、アメリカ人。ドッジボールのやり方までも合理的で、戦略的です。私のように、ただただボールから逃げているだけでは、すぐ、当てられてしまうのだなあ、と妙に納得。
 「次の親子ドッジボールは、戦略的に行こう」
 息子が小学生になったときに、”リベンジ”の機会が訪れますように、と願ったのでした。

 

 

2016年10月19日水曜日

中村芝翫襲名披露公演へ

  私の秘かな趣味は、歌舞伎観劇です。今月は中村橋之助の八代目中村芝翫襲名披露公演に行きました。同じく歌舞伎好きな札幌の母も連れていきました。今回は橋之助が亡父の名跡を継いだだけでなく、息子三人もそれぞれ、四代目中村橋之助、三代目中村福之助、四代目歌之助を襲名するおめでたい公演。私と母は、豪華な役者たちの至芸を堪能しました。

 今回は初日にチケットを取りました。襲名をする役者が観客に挨拶をする「口上」がある、夜の部にしました。親子4人の襲名披露公演なのでチケットはすぐ売れてしまうだろうと予想し、発売日の発売開始時間・午前10時には、パソコンを立ち上げ、電話も用意し、両方でアクセス。しかし、1階の1等席はすべて売り切れ。2階の1等席もほとんど売れています。「たぶん、ご贔屓の方々にチケットがまわるのだな」と思いつつ、気を取り直して注文し、2階席ではありますが、良い席を取ることが出来ました。

 さて、当日。母とおしゃれをして日比谷線に乗り、歌舞伎座のある東銀座駅へ。改札口を出て上りエスカレーターに乗り地上へ。入り口前にはすでにたくさんの人がいました。昼の部の観客がまだ出てきていないので、夜の部の観客が入り口前で待っているのです。髪を結い上げ、着物を着た美しい芸妓さんも入場を待っていました。
夜の部はまず、尾上松緑が主役を演じる「外郎売」で幕開け。松緑が早口言葉で台詞を言い立てるのを感心しながら聞き入り、中村七之助の美しさに見とれます。「最近、七之助が艶やかになってきたよね」と隣の席の母とする”役者談義”も楽しみの一つ。
 
                

 そして、見どころの襲名披露「口上」。袴姿の19人の役者がずらりと舞台に並びます。真ん中が新芝翫で、観客席から見て左側に息子3人が並んでいます。まずは、新芝翫の右横の坂田藤十郎が挨拶。やはり、この人がいると舞台が締まります。母とも開幕前に藤十郎の魅力について語り合ったばかり。結構なお年なのに、妖艶で、色気たっぷりなのです。
 藤十郎の後は玉三郎・・・と右側の役者らが次々と述べます。そして、右端の尾上菊五郎。「ちょろちょろせずに・・・」と、新芝翫に釘を刺します。観客席からは笑いが漏れます。公演直前、タイミングを見計らったように、京都の芸妓さんと熱い関係にあると週刊誌に書かれてしまったことを言っているのです。私と母も「口上で触れないわけにはいかないよね」と予想していました。観客を笑わせて、深刻さを打ち消してしまう菊五郎はさすが、と妙に感心しました。 
 そして、最後に新芝翫。「先祖の名を汚さぬよう、なお一層芸道に精進する心得でございます」と述べ、息子3人も「三人兄弟力を合わせてなお一層芸道に精進いたします」(新橋之助)などと立派に挨拶。観客たちは大きな拍手で4人の襲名を祝ったのでした。私と母も、2階席から大きな拍手を贈りました。

 三幕目は、「熊谷陣屋」。源平合戦での物語です。新芝翫が源氏の武将・熊谷直実を演じます。敵の若武者・平敦盛の首を討ち取ったとするが、実は、敦盛の身代わりとして我が子の首を討った直実。我が子の首を妻と一緒に抱く場面は、涙を誘いました。

 最後は玉三郎の「藤娘」です。うっとりとするほどかわいらしく、初々しい玉三郎。1階の両側の桟敷席に並んだ芸妓さんたちを双眼鏡でちらちらと見ながら、「この中に新芝翫のお相手がいるのかしら?」などと興味津々だった私も、玉三郎の舞を見た後は、「きっと、芸妓さんたちは、玉三郎を参考にするために来たんだわ」と思い直しました。女性がお手本にしたいと切望するほど、玉三郎は、美しかった。

 私が歌舞伎役者の中で最も好きなのは、この舞台に出ているはずだった新芝翫の兄、中村福助です。報道によると福助は2013年に脳内出血で入院、その後は公の場に出てきていません。口上では、福助の息子の児太郎が、父親がリハビリに励んでいることを観客に伝えていました。福助はどんなにこの舞台に出て弟の芝翫襲名を祝いたかっただろう、そして、自身の、女形の大名跡・中村歌右衛門の7代目の襲名が発表されて間もなくの発病で、どれだけ悔しかっただろうと思いました。

 「早く福助に舞台に戻ってきてほしいね」
 そう話しながら、私と母は歌舞伎座を出ました。もちろん、ちゃっかりと、出口に立つ着物姿の新芝翫の妻・三田寛子の横を通ってその表情を窺い、帰りの電車での話題にしたことは、言うまでもありません。歌舞伎は舞台も、舞台の外の話題も、ファンにとっては楽しみなのです。

2016年10月16日日曜日

緑の診察券

  9月28日は、4カ月ぶりの診察日でした。幼稚園への息子の送迎、子供2人のお弁当作り、炊事・掃除・洗濯、娘の学校でのPTA活動・・・という日常から離れて、私は久しぶりに「がん患者」に戻りました。

 病院に着き、再診受付の機械に診察カードを入れます。2003年初夏に初めて受診したときに作ってもらったもので、緑色の線がついています。患者らのカードの多くが黒い色だと気付いたのは、もう何年も前のこと。それから、患者たちが4台並ぶ再診受付機にカードを差し込むとき、クリアフォルダにカードを入れて持ち歩くときに注意してみるようになりました。ほとんどが黒でした。

「私のように長く生きている人はあまりいないのだな」
私よりずっと年上の患者たちの、黒い線のカードを見ながら、少しだけ感慨に浸ります。そして、「せっかくここまで生きたのだから、緑の線のカードを持った最後の人になろう」などと、つい、いつものように前向きな目標を立ててしまう自分を心の中で笑います。
              
1階で再診受付を終え、保険証の確認窓口を経て、2階の血液・尿検査室へ。採血・採尿の受付作業は以前職員が行っていましたが、いまは2台の機械が行います。このように、私が通い続けた13年間に病院内は少しずつ変わりました。病院名は「国立がんセンター中央病院」から「国立がん研究センター中央病院」に変わり独立法人化。院内も機械化が進んだり、患者の相談窓口が増えたり、売店などの店舗が変わったりしました。

 採血・採尿が終わると、診察時間までの間、私は1階のカフェに行きます。ここは以前、売店があった場所。そこで大好きなチーズケーキとコーヒーをオーダーします。このカフェが出来る前は自動販売機で売るコーヒーしかなくて、入院中は夫に頼んで「スターバックス」 のコーヒーを買ってきてもらいました。カフェのテーブル席がある場所は以前、救急患者の入り口になっていたところ。私もその入り口から、救急隊員に声掛けされながら、担架に乗せられて運び込まれました。そんなことも毎回このカフェでコーヒーを飲むたびに、懐かしく思い出します。

 カフェでひと息ついた後、2階の待合室へ。自分の診察室近くの椅子に座ります。待合室では頭髪が抜けてしまった頭を隠すため、かつらや帽子をかぶった人をたくさん見かけます。後ろの席では、患者が知り合いの患者に帽子を脱いで頭を見せています。
 「あら、きれいに生えて良かったわね」
 「そうなのよ」
 あっけらかんとした会話を聞きながら、かつらを被って仕事をしていた昔を思い出します。

 その外来には呼吸器、乳腺、内分泌、整形外科、血液内科の診察室があり、ひっきりなしにマイクを通して医師の患者を呼ぶ声が聞こえます。「医師の声が、若い」と気付いたのも最近。「いつのまに、外来の医師らより年上になってしまったんだな」と思います。

 「村上さん、34番にお入りください」
 13年間、聞き続けた主治医の穏やかな声が聞こえます。
 「こんにちは」。診察室に入ると、主治医はいつもの笑顔で迎えてくれました。
 「前回の胃カメラとCT検査では特に異常は見当たりませんでした」
 来年の検査まで、また、1年寿命が延びました。

 私は短い診察時間、いつも小さな話題を主治医に振ります。
 この日は診察カードの話をしました。

 「先生、私、ここに通って13年になるんです」
 「そうですか。ずいぶん経ちましたね」
 「私のように、緑色の線が付いたカードを持っている人、少ないんです」
 「そうですか。緑色のカードですか。それは良いことです」
 主治医はにこにこと笑って、薬の処方箋をプリントアウトし、4カ月後に診察予約を入れました。診察日の間隔はここ数年、少しずつ、長くなっています。

 会計を済ませて病院を出ました。活気付いていた、築地市場の場外市場はほとんど閉店していました。移転問題で揺れる築地市場。がん研究センターの斜め前にあった、私の好物のさつま揚げの店も閉店していました。「今日は好きなだけ、さつま揚げを食べるぞ」と1000円のパックを買って帰ったことを思い出しました。少し、寂しい気持ちになりました。

 「いろいろ移り変わるけど、私は生きてここに通っているから、まあ、いいか」
 気持ちを切り替え、角を曲がり、私はいつもの薬局に向かいました。