2016年4月23日土曜日

きのこヘア

 「ママ、今日はかっこいい髪にしてください」。息子が自分の髪をさわりながら、私に言いました。
娘と夫を送り出した平日の朝、ギーコーギーコーとヴァイオリンの練習をしていたときのことです。

 「ここをこうやって、ここをこうやって・・・」と息子は自分の前髪を立てたり、横髪を立てたり、自分がしてほしい髪型を見せます。そして、続けました。「きのこみたいじゃなくて・・・」。

 私は思わず、吹き出しました。娘がいつも、息子の髪を「きのこみたいだよ」とからかうのを、実は気にしていたのですね。先日は、娘が私の目を盗んで「きのこヘアなおしてあげる!」と息子の右側の髪をバッサリと切ったばかり。それも、単純にまっすぐハサミを入れたため、後から気付いた私が調整するのに、すいぶん労力を要しました。が、仕方なく少し刈り込んだ髪は意外にも息子に似合い、いかにも「男の子」という雰囲気になったのです。

 私は息子に聞きました。
「だれか、お友達でなりたい髪の子いる?」
「うん、●●●君みたいな髪がいい」
時折、ムースで髪を立たせてくる格好良い男の子です。
「そうなんだね。●●●君みたいになりたいんだ。あの髪はね。固めるゼリーみたいなものが必要なの。今度買ってきてあげる。そうしたら、ああいう風に格好良く出来るから」
「うん」
 息子はうれしそうに、また、ヴァイオリンを弾き始めました。

 「きのこヘア」。これは今も昔も、男の子の髪型をからかう適当な表現のようです。私は、高校時代の同級生のことを思い出しました。

 当時、ちょうどお菓子の「きのこの山」が発売されて間もなくだったと思います(考えてみれば、ロングセラーなのですね)。私は友達と一緒に、ある男子を「きのこ」と名付けました。彼の髪がきのこのような形をしていたからです。もちろん、彼には内緒です。そして、「きのこの山」をポリポリと食べながら、彼の話で盛り上がりました。箸が転んでもおかしい年頃。よく、「きのこ」だけであれだけ笑えたものだと、今振り返って、当時の自分がうらやましくなるくらいです。

 彼は少しウェーブのかかった髪をふんわりとさせた、それこそ「マッシュルームカット」にしていました。彼はピアノを習っていました。マイペースな男子だったと記憶しています。ピアノを弾くという当時の男の子としては珍しい習い事をしていた彼に、その髪型はピッタリと合っていました。

 息子も「きのこヘア」で、楽器を習っています。今はピアノを習っている男の子は珍しくありませんが、まだ、ヴァイオリンを習っている男の子はそんなに多くありません。普通、女の子がする習い事を息子にさせる親は、そもそも、「男の子っぽい髪」にこだわりがないのかもしれません。その男子の母親もきっと、息子の「きのこヘア」を愛おしく見ていたのかもしれません。今の私が、息子の「きのこヘア」をたまらなく愛おしく感じるように。

 その男子には数年前、東京で開かれた同窓会で会いました。普通の髪型になっていて、彼だとは全く気が付きませんでした。
 でも、私にとっては、今の彼の髪型は、彼のイメージに全く合わなかった。普通のおじさんになってしまった彼を見ながら、普通のおばさんの私は、「きのこヘアのままが良かったのに」と少し残念に思ったのでした。

 まだ長めの息子の髪も、早晩、本人の希望で普通の男の子のような短い髪型になるのでしょう。「きのこヘアのままがいいのに・・・」。息子の髪をなでながら、残念に思う今日このごろです。

 

 

 

2016年4月12日火曜日

父の命日に思う

 父が亡くなって3年になります。命日に合わせて、子供たちを連れて札幌に帰省しました。札幌はまだ厚手のコートが必要なほど寒く、子供たちが雪だるまを作れるほどの雪が残っていました。春の兆しはあちらこちらに見かけるけれども、気分が塞ぐ冬がでんと居座るこんな時期に父は亡くなったんだな、と切ない気持ちになりました。

 父の遺骨を納めるお寺に行くときに、NTTドコモの代理店を通り過ぎました。父が亡くなった後、母と一緒に携帯電話の解約の手続きに行ったことを思い出しました。年金事務所を訪れて父の年金を母の年金に切り替え、区役所を訪れて父の障害者手帳を返納する・・・。父がこの世に存在したことを示すものを1つ1つ消していく作業は、とても悲しい、辛いものでした。

 そのとき代理店では、解約の手続きとともに、父の数か月分の通話記録を頼みました。ポツン、ポツンと発信履歴がある、そのささやかな記録の中に、2件、数カ月間の間に複数回かけている電話番号がありました。私はその2件の番号に電話をしました。

 電話に出た2人はいずれも、高齢の男性でした。私は自分と自分の父の名前を名乗り、父が亡くなったことを告げました。
 そのうち1人は父や母からよく名前を聞いた、父の”脳梗塞仲間”でした。初めはカラオケに行ったり、外食をしたりしていたようです。しかし、5、6人いた仲間が1人亡くなり、また1人亡くなり・・・と減っていき、父ももうその仲間と外出することがなくなりました。
 私は電話口に出た男性に、生前父と親しくしていただいた礼を述べ、電話を切りました。

 もう1人には、何度話しても、理解してもらえませんでした。私は、私が何者であるかということと、電話をしている理由を説明することをあきらめ、礼を言って、電話を切りました。

 その通話記録は、私にとって救いとなりました。晩年、父がその安否を気遣う友人がいたことをただただ、嬉しく思い、通話記録を抱き締め、泣きました。

 几帳面な父は、見事なまでの”老い支度”をしていました。日記や手帳などさまざまなものを処分していました。今、札幌で一人暮らしをする母と2人で、病弱で超高齢出産をした1人娘に迷惑をかけまいと、自立した生活をし、身辺整理を着々と進めていました。

 そのような中、父は私に1冊のファイルを残していました。私の闘病記録を、ワープロで打ちプリントアウトしたものです。父は脳梗塞で右手が使えなくなったため、ワープロを使って文章を書くことが多かったのです。そこには38歳で血液がんを患った娘を気遣う気持ちが、控え目な表現で書かれていました。

 私はそのファイルと、父が使っていたメガネケース、財布、ベルト、帽子、私がプレゼントして父がよく着ていたセーターを持ち帰りました。そして私の家に置いてあった靴と新品の下着と、父が糊付けして修理した娘の絵本と一緒に小さな箱2つに詰めました。
 父のベルトは中肉中背の私のウエストにピッタリと合いました。父はこんなに痩せていたのだなと、使った跡がある穴がどんどん内側になっていく父のベルトを触りながら、改めて思いました。
 
 父は帽子が好きな人でした。持ち帰った帽子は今でも、父の匂いがします。

 

2016年4月3日日曜日

Japanese Culture Day ②

   娘の通うインターナショナルスクールで開かれた「Japanese Culture Day」で、ヒヤリとする"事件"がありました。息子のことをすっかり忘れて、別の場所に移動してしまったのです。最近、物忘れが多くなったとはいえ、息子の存在を忘れてはいけない、と気を引き締めました。

   息子はいま、最も目が離せない4歳。ですので、娘の学校でイベントがあるときは幼稚園の保育時間内に行くか、夫が行くかのいずれかで調整するようにしています。が、この日は、幼稚園が春休みに入った日で、かつ、私が「デコ巻き」作りの”講師役”になっていましたので、どうしても息子を連れていかなければなりませんでした。

 「デコ巻き」作りの時間は、他のママに教室の外で見守ってもらい、無事乗り切りました。親が持ち寄った料理を子供たちが食べる「ポットラックランチ」では、息子も機嫌よくお相伴にあずかりました。子供たちが一巡した後は、私も他のママたちと一緒に、美味しい料理に舌鼓を打ちました。私が早起きして作ったコロッケも早々に”売り切れ”、また、「デコ巻き」作りも無事終了し、私は安堵感に満たされました。

   さて、ランチの後は、講堂での「和太鼓」鑑賞です。子供たちが講堂に向かった後の教室内を、他のママたちと談笑しながら後片付け。すっかりきれいになりました。
 「和太鼓、間に合うわよ。急ぎましょう!」。他のママ2人と急いで教室を出て、別の棟にある講堂まで走りました。講堂の重いドアを開けると、演奏が始まっていました。ステージでは法被を着てねじり鉢巻きをした若者が威勢よくバチを振り上げ、太鼓をリズミカルにたたいています。

 「席、空いているわよ」と前方の席まで腰をかがめて走り寄り、3人並んで座りました。
 「やっぱり、和太鼓は迫力あるわねぇ」と、ステージの若者の力強いバチさばきに見入り、講堂中に響き渡るダイナミックな音に聞き惚れること15分。
 「あれっ?」と感じた違和感。「息子が、いない?」

 私は我に返りました。慌てました。記憶をたどると教室を出たときから、息子を忘れていたようです。隣のママに耳打ちしました。
 「息子を忘れちゃったわ」
 隣のママは今にも吹き出しそうな顔をして、その横のママに耳打ちします。一人っ子を育てる二つ隣のママの顔は引きつっています。「えっ? どこに?」
 「探しに行くわ」と私。隣に座るママが笑いをかみ殺しています。そして、私に耳打ちしました。
「忙しいと、やっちゃうのよねぇ。私はデパートに息子を忘れたわ」。その人は男子3人を育てるママ。太っ腹な反応で、私の心に広がりつつある罪悪感を和らげてくれました。

 さて、慌てて講堂を出て隣の棟まで走り出すと、その棟の入り口から不安そうな表情をした息子が、事務の女性に手を引かれて出てきました。私は息子に駆け寄り、抱き締めました。私は焦った表情をしていたと思います。その女性はにっこりと笑って私に言いました。
 「良かったわね。講堂で和太鼓やっているわよ。見に行ったら?」

 軽口をたたくのが好きな私も、さすがに「今、見ていました」とは言えませんでした。

 息子の手をしっかりとつないで講堂に向かいながら、息子に謝りました。もちろん、理由は説明せずにシンプルに・・・。
「ごめんね」
「いいよ。でも、ママ、ちゃんと僕のこと見ていたほうが良いよ」。泣くこともせず、親を責めることもせず、4歳にしてはとても落ち着いた反応でした。

 「どうして、あの女の人のところに行ったの?」
 「ママがいないから探していたら、掃除をしているおじさんが『ママがいないの?』って話しかけてくれたの。そして、あの先生のところに連れていってくれたの」
 「そう。で、あの先生には何か話したの?」
 「うん。 『My name is・・・ . My sister's teacher is Mr.・・・』って言った」

 親が抜けていると、子供は必然的にしっかりとするようです。自分の名前と、姉の担任の先生の名前という、手掛かりになる情報をきちんと伝えていました。

 さて、「Japanese Culture Day」のプログラムが全部終了し、私は娘と息子と一緒に帰路につきました。浴衣を着た娘に、教室を出る前に脱ぐように指示しましたが言うことを聞かないため、コートの下から浴衣が見える不思議な恰好で、電車に乗り込みました。

 私はくたくたに疲れていました。朝から働きっぱなしです。息子を忘れるというとんでもない”失態”をやらかして、反省もしていました。
 
 しかし、横に座る娘と息子がふざけ始めましたので、私は「電車の中では静かにしなさい!」と横を見て、叱りました。すると、なんと、娘がコートを脱いで、浴衣姿になっているではありませんか?
 「何で、コート脱ぐの? 恥ずかしいじゃない。だから、浴衣は脱ぎなさいって言ったでしょ?」
 「いいじゃん。別に」
 私は、その言葉にどっと疲れが増して、ただただ、自宅のある駅に着くのを待ちました。

 すると、私にとどめを差すような言葉が、私たちの向かいに立つ中年の女性から発せられたのです。
 「お嬢さん、浴衣の合わせが反対ですよ」

 「だから、何なの? 娘の浴衣の合わせなんて、どうでもいいのよぉ!」と私は心の中で叫びましたが、恐縮した表情で「娘はインターナショナルスクールに通っているもので・・・」と、分けの分からぬ言い訳をして、そのまま黙り込みました。そして、駅に着くと、子供たちを急かして、電車を降りました。

 何とも、ドタバタの「Japanese Culture Day」でした。

              

                   娘の教室で行われた、ポットラックランチ。
                   バイキング形式で、親が持ち寄った料理を食べました。