2017年10月24日火曜日

母の涙、母の遠慮

 土曜の朝4時半に起き、息子と夫のお弁当を作りました。幼稚園の「父子遠足」の日でした。おかずは鶏のから揚げと卵焼き、そして枝豆。息子には鮭、夫には梅おにぎりを握りました。冷蔵庫の中の梅干しケースを取り出し、1粒つまみました。その1粒を3つに割って、夫のおにぎりを2つと自分用に1つ握りました。梅がまだ付いている種を口に含み、味がなくなるまでなめました。

 梅干しは昨年母が作って送ってくれたもので、その後、母は肩の痛みがひどいため「もう、梅干しは作らない」宣言をしました。母の梅干しが大好きだった私と夫、娘はその後、大事に大事に食べ、今は残り10粒ほどになっています。

 ケースの中の梅干しをしばしながめながら、私は妻を亡くした小説家が書いたエッセイの一節を思い出しました。妻が走り書きしたメモや妻の匂いが残る服を見ると辛い、でも、妻が亡くなってしまった今これらが捨てられないーとなげいたものです。

 すると、私の心の中に「この梅干しがなくなるのは本当に辛い。でも、母が元気なうちに食べ切らなければ」という矛盾した気持ちが湧いてきました。冷蔵庫の中にいつまでもある、一粒の梅干しを見ながら塞ぎ込む自分が容易に想像できたからです。

 時計を見上げ、家を出る時間となっていたことに気付いた私は気持ちを切り替え、お弁当箱2つをテーブルに並べ、握ったばかりのおにぎりを1つバッグに入れて家を出ました。そして近くのバス停から羽田空港行のバスに乗り込みました。母の様子を見に、札幌に帰省するためです。

 母からSOSの電話が来たのはその数日前でした。母は泣いていました。親友が末期がんを宣告されて入院、母の姉も認知症が進んで入院しました。いずれのお見舞いも悲しいものだったらしく、母の気持ちを萎えさせていました。その上に膝の痛みがひどく、日常生活にも支障をきたしていました。

 「注射を打ちに病院に行ったら、皆、息子や娘が付き添っている。羨ましい」と、母は珍しく弱音を吐きました。これはかなり落ち込んでいるーと判断し、急きょ新千歳空港行きの便を予約したのです。子供たちの送迎やお弁当作りのない週末の1泊2日。夫に子供たちの世話を頼みました。

 母へのお土産に、昆布巻きを作っていきました。母は歯も悪いので、トロトロになるまで煮込みました。取り寄せていた「塩羊かん」もついでに2本バッグに入れました。時間通りに着いた羽田空港で、手続きを済ませて7時半の飛行機で新千歳空港へ。新千歳空港から札幌行きのバスに乗り、実家に着いたのは11時半少し前。ドアツードアで6時間でした。

 「お帰り」と迎えた母はとても嬉しそうで、せきを切ったようにしゃべり出しました。曰く、「一人でいると、しゃべらないからねぇ」。ソファには新しい”お友達”が増えていました。「みっちゃん」という名前で、同じように一人暮らしのお友達からのプレゼントだそうです。

みっちゃんは、何も操作しなくても「今日のご機嫌はいかが?」「窓を開けて空気の入れ替えをしましょうよ」「ティータイムの時間ね」などと、時々話しかけてきます。母はそのたびに、楽しそうにみっちゃんに返事をします。

 母としばらくおしゃべりをした後、庭の木々の剪定をしました。剪定を終えた後は、ドラッグストアへお使いです。「何か必要なものはない?」と聞くと、資生堂「リバイタル」の栄養クリームと、ヒアルロン酸入りのパックと、「柿渋歯磨き」粉が切れてしまったと言います。

 「リバイタルはね、街のマツモトキヨシで30%オフだったんだよ。あそこは化粧品の試供品もくれたし、ポイントも貯められたから良かったんだよ。でもね、あそこは階段を上らなきゃ行けないんだよ。膝が痛すぎて、もう行けない。仕方ないねぇ。気持ちを切り替えるしかないね」

 そう嘆く母に、「近所に大きなドラッグストアがあるだけラッキーだよ。お母さん」と励ます私。気分転換をしに街に出かけて、買い物をしたり、食事をしたりするのが母の楽しみでした。それがあまり出来なくなるのは、気分が落ち込む要因の1つかもしれません。1つ1つ出来ないことが増えていき、それを受け止めながら生きる母を見ていると、切なくなりました。

 ドラッグストアに行って品物を探しました。すると、なんと、母の栄養クリームが32%オフでした。買い物を済ませ、勇んで帰り「お母さん、32%オフだよ。マツモトキヨシより2%も多く引いてくれるんだよ。良かったね」と報告。気を良くした母は「そうかい?それはいいね。あんたにも1つ買ってあげるよ。肌がかさかさだよ。駄目だよ、少し手入れしないと」と言いながら、箪笥から財布を取り出します。

 「いいよ、お母さん」と一旦は断った私。が、母は断固として「駄目だよ。このままだとあんた、しわくちゃになるよ」と譲りません。「肌がかさかさ」と指摘され少し気が弱くなった私は、冗談めかして母に聞きます。

 「息子が私にあまり寄り付かないのは、顔のしみ・しわが多いからかな?」
 「そうかもしれない」

 母は真顔で答えます。その言葉に後押しされ、私は再びドラッグストアに向かったのでした。

 夕方は、シシャモの産地「むかわ町」に住む93歳の伯母から電話です。元気に一人暮らしを続ける伯母と話をするのは、母の楽しみの1つなのです。私も電話口に出て伯母と話しました。伯母の声はいつものようにハリがあり、こちらまで元気をもらいます。伯母には4人の娘がいて、近くに住む娘たちが順番に伯母の様子を見に来るようで、今回は母が「娘が来た」と報告する番で、母の声も明るい。

 夕食は、私が車を運転して回転ずしに行きました。子供たちを連れて帰省したときに連れて行ってもらう家族連れが多い回転ずしとは別の、母曰く「大人向けの回転ずし」だそうです。店に入るとカウンターが大きな楕円形になっており、その中にいる寿司職人さんが寿司を握り、回転台に寿司を乗せています。美味しいお寿司を食べながら、母とのおしゃべりは尽きませんでした。

 帰宅後は、母に勧められ顔のパックをしました。母の日課だと言います。目と鼻と口の部分に穴が開いた白いシートを顔に貼って、2人でテレビを見ました。時間が穏やかに過ぎていきました。夜は父の仏壇がある部屋で布団を並べて寝ました。

 翌日もおしゃべりをたくさんして、午後3時に実家を出ました。母は、4、5年前までは車を運転して新千歳空港まで送ってくれました。2、3年前からは空港行きのバスターミナルまでになりました。今年の夏は車は運転せず、そのバスターミナルに向かうバスのバス停まで一緒に歩いてくれました。今回は玄関から地面に降りる階段を下りてくることは出来ず、玄関前で何度も手を振ってくれました。確実に、母の体は衰えてきています。

 「冬だけでも、東京に来ない?」と聞きましたが、母は大きく首を横に振り、「ひざの痛みが耐えられなくなって手術が必要になったら東京であんたのお世話になるけど、それまではここで頑張ってみる」と言います。私に遠慮しているのでしょう。東京の家が狭く、母の部屋を用意してあげられない私は、強く勧めることは出来ずに、「そう? でも、いつでも来たくなったら、来てね」と気持ちだけは伝えました。

 夜遅く、自宅に戻りました。子供たちがカードを書いてくれていました。
  2日間子供たちを世話してくれた夫に感謝しながら、嬉しくも切なかった、私の週末は終わったのでした。


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