2017年6月18日日曜日

世界中が見えた?

  普段より帰りが遅いため心配し始めたころ、娘から電話が来ました。
「ママ、これから帰るから」
「遅いから心配し始めていたよ。今、どこ?」
「学校」。娘は即答します。

 携帯電話を通して娘の声の背後に聞こえるのは、街のざわつきでも、友人の家の静けさでもありません。大きな建物の中での人の行き来や作業、会話が作り出す雑然とした物音です。娘は嘘をついていないでしょう。

「学校? もう5時半よ。3時半に授業が終わってから今まで何していたの?」
「友達と遊んでいたの」
「学校で? とにかく、遅くなるから帰ってらっしゃい」
「うん」

 ほどなく夫からメールが来ました。早めに仕事が終わったので、娘と連絡を取り、一緒に帰ってくるといいます。私はほっとして、夕ご飯の支度に戻りました。娘の電話から約1時間後、「そろそろ、家に着くころかしら?」と思っていたころ、玄関から夫が娘を厳しく叱る声が聞こえました。何事かと、玄関に。ドアを開けた夫が開口一番、言いました。

「放課後、学校の屋根に上ったというんだ。先生に見つかって叱られたらしい。今日は午前中雨だったんだ。屋根が濡れていて、もし足を滑らせて落ちていたら、今ごろ病院だよ。本当に信じられないことをする」

 夫はかんかんに怒っています。続いて玄関に現れた娘は大泣きして、私の体に覆いかぶさるようにして抱き付き、言います。
「ごめんなさい。ママ。もう、絶対、屋根には上りません」

 中1の娘が、学校の屋根に上って先生に叱られたー。私は、胸をなでおろしました。先生方に迷惑をかけて不謹慎ですが、娘の帰りが遅くなった理由が子供らしかったからです。

 身長165cmで長い手足を持つ娘は、外見は高校生に見えます。椅子に座り、足を組み、長い髪をかき上げる後ろ姿は、親の私がドキリとするほど大人びています。少女から女性に成長しつつある娘を持つ親なら誰もが心配することを、私も心配し始めています。そんな心配が吹き飛ぶような、娘が取った子供らしい行動に、私は愛おしさを感じずにはいられませんでした。

 そんな私の心の動きが見えない夫は、娘への叱責を続けます。
「もう、絶対に屋根に上っては駄目だ。いいかい? 本当に、まかり間違えば、致命的な怪我になったかもしれないんだよ」。感心するほど、子供たちの安全を気遣う夫の言うことは、もっとも。だから、私は泣きじゃくりながら私に抱き付く娘の耳元でこっそりと聞いてみました。

「で、楽しかったの?」

 娘は私から体を離し、驚いた顔で私を見ました。そして、涙の滲んだキラキラとした目で説明してくれました。

「うん。楽しかったよ。屋根から見える景色は、すごくきれいだった。横浜の海も見えたんだよ。世界中が見える感じがした」

「そうなの。それは良かったね。でも、危ないからもう屋根には上っては駄目よ」
「うん」。娘は泣くのを止めました。

 後日、学校に行き、娘が上ったという建物を見上げました。幼稚園児が学ぶ校舎で、三角屋根が可愛らしい三階建ての建物です。屋上の一部が遊び場になっており、建物の外壁に地面から屋上に続く階段が付いています。娘によると、この階段を上って遊び場に入り、そこから続く屋根に上ったといいます。同じくお転婆な友人と一緒でした。

 屋根とそこから広がる空を見上げながら、私はわくわくしました。今でしか出来ないことを、娘はしたのです。友人と屋根の上に座って眺めた風景を、娘はきっと忘れないでしょう。そんな素朴で素敵な思い出を作れた娘を、頼もしく誇らしく思ったのでした。


0 件のコメント: