2020年1月31日金曜日

美しかった福助

歌舞伎役者・9代目中村福助は美しかった。2018年9月に5年間の闘病生活を経て舞台に復帰した福助。ニュースなどでその様子は知っていましたが、闘病後の舞台姿を見るのは今回が初めて。登場するまでドキドキしましたが、以前と変わらぬ、匂い立つような美しさでほっとしました。

昨夏東京に引っ越ししてきた母と一緒に行きました。母の82歳の誕生日プレゼントでした。私と同様歌舞伎好きな母との観劇は、役者さんの芸の話からゴシップまで話題が尽きず、楽しいのです。今回は特に、歌舞伎役者の中で一番好きな福助の病気復帰後の姿を見られるのを楽しみにしていました。


私が歌舞伎にハマったのは2001年、以前勤めていた新聞社で東京勤務が決まってからでした。初めは敷居が高く感じましたが、頻繁に通ううちに役者さんの顔も覚え、楽しみになっていきました。中でも一番好きだったのは女形の福助。福助はおきゃんな娘役がとても上手で、その華やかさと妖艶さが魅力でした。

福助というお目当ての役者さんができてからは、「松竹歌舞伎会」の会員になり、チケットを先行購入するようになりました。特に福助が出演するときは発売と同時に購入。あるとき、幸運にも一番前の席を購入できたときは、私は他の役者さんには目もくれず、福助だけを見つめました。舞台で演じる福助も、客席からの一直線の視線に気が付いたのでしょう。私に何度か視線を送ってくれました(と私は感じました)。

仕事で文化担当になったときは、インタビューもしました。恋に狂った姫が蛇となって若僧を焼き殺すという、歌舞伎の大曲「京鹿子娘道成寺」をモチーフとした映画「娘道成寺」で、福助が映画初主演を果たしたときです。インタビューを終えてもなお緊張する私に、「今度、楽屋に遊びにきて」と明るく声を掛けてくれた福助。当然、楽屋に遊びに行くなど大それたことは出来ませんでしたが、その言葉は今でも心に残っています。こうして、私は勝手に福助との思い出話を紡いでいきました。

福助は女形の名跡・中村歌右衛門の名を引き継ぐ予定でした。襲名が決まった2カ月後の2013年11月に脳の病気に倒れた福助。どれほど無念だったでしょう。その後、福助の名は歌舞伎界からぱったりと消えました。私も少しずつ歌舞伎から離れていきました。

福助が病に倒れてから3年後の2016年10月、福助の弟・中村橋之助の8代目中村芝翫襲名披露公演に行きましたが、役者らが舞台上で挨拶を述べる「口上」では、息子の中村児太郎も父がリハビリに励んでいることに触れるだけ。ああ、体調は芳しくないんだなと切なくなりました。そして、18年の福助の舞台復帰。喜ばしいことなのに、歌舞伎座には足が向かなかった。福助が患っていたのは脳の病気です。だから、体の状態が想像できたからです。

そして、今回。意を決して、福助を観に行きました。前から3列目の席で、私はまた、福助だけを見つめました。舞台に現れた福助の右手は下ろされたままで、手の平は固く結ばれ、動きませんでした。後ろでは黒子がしっかりと福助を支えていました。福助の右手は、脳梗塞を患った私の父と同じでした。胸が詰まりました。5年間のリハビリはどれほど辛かっただろうと。でも、福助にとって歌舞伎の舞台に復帰することが大きな目標になったに違いありません。

福助は、左手だけで舞っていました。でも、右手が動いていないことなど、まったく気になりませんでした。かつてのように、しなやかで艶やかな舞いでした。福助、あなたは美しい。私は舞台に向かって大声で叫びたい気持ちになりました。

筋書には福助のインタビューが載っていました。新年にふさわしい、決意が語られていました。
「今後もリハビリをしながら、少しでも多くの舞台に立てるよう頑張りたいと思っております」

福助が目標とした叔父の6代目中村歌右衛門は幼少期に脱臼を患ったことから、左足が終生ぎこちなかったといいます。でも、舞台ではその不自由さを全く感じさせない完ぺきな演技だったといいます。福助もそうでした。左手だけで舞っているのに、まるで両手で舞っているようでした。

歌舞伎の魅力は、80代の役者が10代の生娘を演じると、観客の目には10代の娘にしか映らないことです。そして、少し体が不自由な役者の舞も、完璧な舞にしか映らない。それほど、役者らは鍛錬を重ねているのでしょう。

これからも福助を応援していきたいと思います。