2017年5月11日木曜日

ポール・マッカトニーコンサートへ

 ポール・マッカートニーのコンサートに行ってきました。2年ぶりに行われた日本ツアーの最終日、4月30日の東京ドーム公演です。ポールは「ビートルズ」のときと変わらぬ歌声で、ドームを埋め尽くした観客を魅了。私も、夢のような時間を過ごしました。
 


 ポール・マッカートニーのコンサートに行ったのは2年前に続いて2回目。前回と同様、熱烈な「ビートルズ」フォンの夫と行きました。チケットは、販売サイトにチケット発売が決まった段階で連絡がもらえるよう事前登録し、抽選を経て入手しました。

 開演2時間前には東京ドームの入り口に並びました。会場と同時に入場。ポールの大型ポスターの横で夫の写真を写してあげたり(撮影の順番待ちをしました)、タオルやキーホルダーなどのグッズを購入したり、ホットドッグとビールの軽食を食べたりし、開演前の待ち時間も満喫しました。

 とてつもなく大きなドーム内に入り座席に座って見渡すと、周囲の観客の多くは中高年。若者はぱらぱらいる程度です。私の向かいの座席には50代と思われる中年男性4人組、左横は母娘、右横は中年カップル、後ろは60代と思われる人たちが並んでいます。開演時間が過ぎ、心を躍らせながら待つこと30分。いきなり「ア・ハード・デイズ・ナイト」の前奏が始まり、ポールが軽やかにステージに登場しました。老若男女が一斉に立ち上がりました。割れんばかりの歓声です。

 ビートルズ時代の曲、ウイングス時代の曲に新曲も交えて歌い、楽器もベースギターからピアノ、アコースティックギターへと曲に応じて変え、観客を飽きさせません。ジョン・レノンに捧げる「ヒア・トゥデイ」、ジョージ・ハリソンへの「サムシング」では、観客もおそらくジョンやジョージを思い浮かべながら、歌を口ずさんだと思います。ポールは一曲歌い終わるごとに「サンキュー、サンキュー」と礼を言い、日本語を交えながら語り、観客の声援に応えました。

 白いシャツに黒いスリムパンツ姿でギターを弾きながら歌う姿は74歳とは思えないほど若く、ピアノを弾きながらマイクに向かって歌う姿は、ほれぼれするほど魅力的でした。「ポールは何十年もこうして、ピアノを弾きながら曲を作り、歌ってきたのだな」とステージ横の大型スクリーンに映し出されるポールの後ろ姿に見入りながら、バラードを聴きました。

 「今年は、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売されて50周年なんだよ。信じられるかい? 僕はまだ52歳だっていうのに」

 ポールの冗談に、会場からは笑いがはじけました。私はさらに、「そうなんだ、52歳(私の年齢です)は『もう、52歳』ではなく、『まだ、52歳』なんだと、思いがけなくポールから励まされたような気分になりました。

 コンサートの終盤、「オブラディ、オブラダ」では、ポールが歌った後に観客だけが歌う場面もあり、会場とポールが一体となりました。

 締めの歌は、待ちに待った「ヘイ・ジュード」です。ここでは、観客は事前に配布された、発光する棒を振りながら、一緒に歌いました。東京ドーム全体が水色に染まりました。
 
 アンコールは、”これを聴かずには帰れない”、「イエスタディ」。この曲を、会場を埋め尽くしたフアンは、ある人はうっとりと、ある人はしみじみとした思いで、聴いたに違いありません。そして、ポールの「君たちは素晴らしかった。僕らも楽しかったよ。また、会おう」のあいさつで、約3時間のコンサートの幕が下りたのでした。

 東京ドームを出ました。しばしドームの周辺をぶらぶらと歩くと、家には12歳の娘と5歳の息子が待っているという現実が戻ってきました。息子の”ベビーシッター”を頼んだ娘に電話をすると、息子はすでに寝息を立てているということ。「私も歯を磨いて、ベッドの中。もう寝ようと思っていたの」と言います。その声を聞き安堵し、「もう少ししたら帰るからね」と伝えました。

 そして、まだコンサートの余韻が覚めない夫と私は、「一杯だけね」と言いつつ、ドーム近くのイングリッシュパブに寄り、立ち飲みでビールを飲みました。もちろん、BGMはビートルズ。コンサートを振り返りながら、冷たいビールを一気に飲み干し、家路を急いだのでした。

2017年5月3日水曜日

伯母にさよなら

  伯母の葬儀に参列するため、北海道に帰りました。思い出のたくさんある伯母の訃報が届いたのは、遅咲きの桜が満開だった4月7日。翌日、12歳の娘と5歳の息子を夫に預け、羽田空港から新千歳空港行きの飛行機に乗り、苫小牧の斎場に向かいました。

 新千歳空港でJRに乗り継ぎました。室蘭行きの「特急すずらん」に乗り、南千歳駅で函館行きの「スーパー北斗」に乗り換え、苫小牧の駅に降りました。まだまだ寒さの残る駅のホームに降りる人はまばらで、ホーム全体には寂しげな雰囲気が漂っていました。道内で良く見かける、そして忘れかけていた風景を懐かしく、いとおしく感じました。

 一足先に母が斎場に着いていました。札幌に住むいとこが車で送ってくれていました。母は私に「ご苦労さん」と言い、伯母のところに連れて行ってくれました。

 祭壇の遺影は、ピンク色の花に囲まれていました。その花と同じピンク色のTシャツを着た伯母は、こちらを見て微笑んでいました。その包み込むような微笑みには、世話好きだった伯母の人柄が良く表れていました。棺の中で眠っている伯母の顔を見に行きました。寝たきりだった生活が長かったためか、透き通るような白い肌をしていました。すっと通った鼻筋が昔のままで、若かったころの伯母を思い出させてくれました。

 伯母は昭和3年、男4人女7人の11人きょうだいの4女として北海道勇払郡むかわ町で生を受けました。11人きょうだいのうち、次男は戦死。長女は30代で子供2人を残して亡くなりました。若くして亡くなったその2人以外は皆、60代までは元気に生き、70代以降に一人またひとりとあの世に旅立っていきました。そして伯母は88歳でこの世を去りました。今残っているのは、92歳になる次女、3女、6女、4男、そして79歳になる一番年下の母です。

 伯母は子供好きな人でした。夏休みには、苫小牧の伯母の家に甥っ子姪っ子が集まりました。私が遊びに行っていたのは小学生のころ。伯母の嫁入り道具だった箪笥が並ぶ畳の部屋で、当時すでに社会人になっていた伯母の娘と中高校生だったいとこが、箪笥に寄りかかりながら、フォークソングを歌っていた記憶が今も鮮明に残っています。

「あなたにさよならって言えるのは今日だけ~」(22歳の別れ)
「君とよくこの店に来たものさ~」(学生街の喫茶店)
 
流行の歌を歌う年上のいとこたちを、おそらく私は憧れるような気持ちで、眺めていたのだと思います。いとこたちの歌声と、時折声をかけにくる伯母の明るい声が、今も耳に残っています。

 伯母が作るシュウマイは天下一品でした。葬儀でもまず話題になったのは、シュウマイの話です。訃報を夫に告げたときも、夫がこう言いました。
「この前、睦美はその伯母さんの話をしてくれたばかりだよ。君はシュウマイを作っていて、シュウマイが上手な伯母さんの話をしてくれたんだ。小さいころ、夏休みに家に遊びに行った話も懐かしそうにしていた」

 虫の知らせでしょうか。大好きだった伯母のことをふと思い出し、夫に話していたのです。通夜振る舞いの席で、私の思い出の中でフォークソングを歌っていた5歳年上のいとこにその話をすると、いとこは「そう、伯母さんのシュウマイ美味しかったよね。ラーメンも」と大きくうなずきました。「ラーメンの上に乗っていた、魚肉ソーセージが美味しくってね」と懐かしそうに語りました。

 通夜と翌日の告別式では、母はずっと泣いていました。きょうだいの中で一番年下で、19歳と早くに母親を亡くしたためか、母はきょうだいに対する思いが深く、きょうだいのことをいつも案じ、あの世に旅立った親きょうだいの話をするときはいつも目に涙を浮かべます。肩を震わせながら泣く母の横に座っていた私は、母の心から深い悲しみがにじみ出るように感じ、とても切ない気持ちになりました。

 告別式も終わりに近づき、参列者一人ひとりが棺の中の伯母に花を手向けました。最期のさよならを言い終わった参列者は、大きな輪を作り、伯母を囲みました。そして出棺のとき。
 92歳の伯母がよろよろと棺に近付きました。88歳の妹に言葉をかける92歳の伯母の姿は、再び参列者の涙を誘いました。伯母に続いて、私の母、亡くなった伯母の娘ら最も近しい人たちが棺の側に寄り、それぞれの言葉で最期の別れを告げました。

 火葬場には伯母の娘家族、私の母や伯父伯母、そしていとこたちが行きました。帰りの飛行機の時間が迫っていた私は、クラクションを鳴らして、斎場から出て行くバスを見送りました。小さくなっていくバスを見送りながら、祖父の野辺送りの場面を思い出しました。お寺から、男のいとこたちが棺を担いで出てきます。棺の中には、私が編んで祖父に贈った帽子が入っています。肩に棺を担ぎ、泣きじゃくりながら歩くいとこたちを、小学生だった私も泣きながら見守りました。

 もうずいぶん前にあの世に旅立った祖父と、伯母はいまごろあの世で楽しく語り合っていることでしょう。亡くなった伯父伯母も一緒に違いありません。伯母さん、どうぞ安らかにお眠りください。そして、この世に残った伯父伯母、母をお守りください。合掌。